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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第23章『親友の悩み』

 窓際の後ろから三番目。教室へ入り、自分の席についた。辺りを見渡した。カレンはまだ来ていない。溜め息をつきながら、今後、二人の仲がどうなっていくのか考えていた。


 そこへ恵太がやって来た。


 何か言いたげな顔つきだった。その表情で、制服アンケートのときのようなイヤな予感がした。冗談なのか本気なのか、何かにつけて事を荒立てるのだ。


 トシは、恵太を無視するように窓の外を眺めた。


 校門の向こうから、重たそうなカバンを持ったちひろがひとりで登校してくるのが見えたので、トシはデートの約束のことをふと思い出したけれど、頭のなかから消してしまいたくて、再び視線と気持ちを窓から恵太のほうへ向けた。


「よ、トシ。あのさ、ちょっと相談なんだけれどさ」彼は、後ろ向きでトシの机にドッカリと座った「おい、ケツどけろよ。体の調子は大丈夫なのかよ」ったく、遠慮というやつを知らんのか。「大丈夫だ。それよりさ、相談なんだけれどさ」「相談があるなら、ケツどけろ」


 恵太の体を両手で押し出した。近くにあった教科書をホウキ代わりにして机の上を掃く真似をした。


「ああ、分かったよ」彼もまた不満そうな表情だった。


「なぁ、トシよ。藤沢さんと付き合っているのに、最近じゃ、A組の戸塚さんとも仲いいみたいだな。さっき、いっしょに歩いているの見たぜ。なぜ、そんなにモテるのか分からねぇ」机の前で恵太が腕組みをしてトシを睨んだ。


「トシは、女の子になぜかモテる」


「そんなことはないよ。戸塚さんとはそんな仲じゃない」


「いや、おまえを責めているわけじゃない。少しは大人の男になってきたという証拠だよ。周囲をよく見ろ。髪型や服装や振る舞いで大人ぶってやがる。みんな外見ばかりさ。中身がないね」


 トシは周囲を見渡し、顔をしかめた。


「大人の条件は、だな」


 恵太はカバンを机の上へ置いた。


「条件っていうのは?」


 トシは彼のカバンの中身を覗いた。


「これを読まなきゃね」


 さも偉そうな声で一冊の文庫本を差し出して見せた。


「男のバイブルだよな」


 トシは目の前に差し出された小説の装丁ですぐにそれが何か分かった。著者もタイトルも世界的に有名だ。


「大人の男のための」


 二人とも決して読書家とは言えなかったが、意外なところで共通項を見つけたことは小さな驚きであり、また親友として誇らしくも思えた。 


 話は進む。 


「どうだろう。相談なんだけれどさ」


 彼は、戸塚さんについて話し始めた。「学年で一、二位を争う優等生で生徒会の役員やっているし、まじめで誠実そうでいい子だと思うよ……」


 彼が戸塚さんのことを気に入っていたなんて。でも、トシの気分は複雑だった。「ま、そうだな」と、適当な返事をしながら、あの放課後のことを思い出した。


 階段の踊り場で立ち尽くし泣いていた寂しげな姿。そして、制服委員会のこと。頭の中でこれまでの経緯を考えた。高校を卒業したらイギリスへ留学したい、という彼女の夢のことも思い出した。


 その存在が、彼の中でしだいに大きくなっているのに気がついた。それは、告白されたことよりも同じ夢を追い求めている同胞としての意識のほうが強い。


 カレンと戸塚さん。比較してはいけないけれど、二人は対照的だった。カレンが太陽ならば戸塚さんは月だ。太陽は無条件で必要なものだった。日中、どんなに忙しいときでもカレンのことを忘れることはなかった。が、夜のしじまで物思いにふけるときに優しい月の光りがあったほうがいい。そして戸塚さんを意識する。星々のきらめきとともにゆらゆら揺れる優しい月明かりに照らされると、物静かな雰囲気を味わえて、心が何となく癒されるのだった。


 恋愛と夢の両天秤だ。トシは考えた。心のふれあい。結びつき。人間関係が重要なのだ。自分は今、太陽と月の間でフワフワ宇宙遊泳をしているのかもしれないと。


 さらに恵太の話は続く。


「いつだったか、日曜日に吉祥寺で偶然見かけたんだ。ジャズ喫茶『グルービー』でね。ひとりだったよ。私服だったから最初は気がつかなかった。でも、確かに彼女だった。黒ぶちのメガネをかけていたしね。驚いたね。うちの高校でジャズ聴く女の子なんか、なかなかいないもん」


「へぇー、ジャズ喫茶ねぇ。スゲェな」


 トシは、それまで一度も行ったことがなかった。でも、薄暗く、タバコの煙がもうもうとしている中で、コーヒーを飲みながらスピーカーから大音量で流れるジャズを聴いている店内の雰囲気は想像できた。


「トシもジャズ好きだったか」


 彼は、少し疑っているようだった。


「う、うん。少しだけ」弱気になった。あまり見栄を張るものではない。


「オレがジャズピアノを習っているの知ってるよな。日曜日はいつも帰りにあの店に寄るんだ。いやー、彼女がジャズファンだったなんて、ビックリしたよ。彼女がひとり席に座ってじっとジャズを聴いている姿が忘れられなくてね。それ以来、ずっと気になってさ。トシの力で、何とか紹介してもらえないかな」


 彼の口から明かされた新事実。戸塚さんは、何度か自分に音楽について尋ねてきたことがあった。ロックやポップスについては興味を持っているようだけれど、ジャズファンだったとは驚いた。彼女の意外な一面を見た気がした。女子高校生がひとりでジャズ喫茶に行くなんて不思議だ。が、よく考えてみると地味で物静かな彼女なので、イメージとしては結構ジャズは似合っているかもしれない。


 トシは少し考えた。親友の相談には乗りたい。が、しかし無理な話だった。


「恵太、悪いけれど戸塚さんには好きな人がいるみたいだ」


 彼女を紹介するわけにはいかない。恵太はガク然となった。


「だ、誰だよ。彼女が好きな相手っていうのは」


 答えられなかった。頭の中で言葉を探していた。まさか、それは自分だ、なんて言えない。


「教えてくれよ」


 教えられない。絶対に。


「内緒なんだ」


「どうしてだ。最近、おまえは変わったよ。親友のオレたちのことなど眼中にないって感じだぜ」


 恵太は長いこと、トシのことをきつい眼つきで睨んでいた。


 彼の言葉は、針を刺されたときのような痛みをともなってトシの胸に響いた。どういうふうに言えばいいのか分からなかった。自分の気持ちをうまく伝えたいのだけれど、戸塚さんについて言葉巧みにいろいろ説明したところで、言い訳にしか聞こえなかったろう。嘘もつきたくない。自分にとっては微妙な存在なのだ。


「少し保留にしておいてくれないか。僕のほうもいろいろあってさ」


「分かってる」


 恵太は、話しの矛先を変えた。


「トシよ。カレンとうまくいっていないんじゃないか」「そんなことないよ」「オレはな、彼女を悩ませている張本人は、あの上級生かもしれないって。何だか怪しいよ。いや、あくまでも勘だけれど。間違っているかもしれない。でも、おかしいよ」「髪の毛をオールバックにしているやつだろ」「おお、そうだったかな。それから、あの手紙のことだけれど。いや、内容は教えてくれなくていいよ。つまり、トシへ何らかの悩みを打ち明けておいて、さらに上級生と話しをしないといけないことが彼女にはあったんだと思う」「その通りだ」「だろ?」「あいつは、カレンの従兄らしい。自分でそう言っていた」「えー、まさか。初耳だぞ。おまえ、信じるのか。この間、野球部の試合に誘ったんだぞ。それから、なぜ、あいつはおまえを殴ろうとしたんだ。今、考えると訳が分からん」


「真相をいろいろ知っているやつがいるんだ。そいつと僕は会う約束を……」


 トシは、アメリカへ行くという従兄の話を思い浮かべていた。


 何やら物音が聞こえた。隣の席にちひろがやって来た。恵太は「チッ」と言って彼女に自分たちの話が聞かれてもいいものかどうか考えあぐねながら、両手をトシの机の角を押さえるように握ったままで顔だけを窓の外へ向けて黙り込んだ。会話の腰を折られた形になって、恵太はしばらくの間じれったそうにしていた。片方の人さし指で机の縁をコツコツ叩いている。


 二人とちひろの間にすきま風のようなシラけた空気が流れ、トシのほうは、正面に立つ恵太に顔を向けたまま右隣の彼女を横目で見るようにして様子を伺っていた。


 ちひろは、冷淡な顔をして席に座り、学生カバンを机の上へ置き、中身の教科書やノートやらを取り出して机のなかに押し込んでいる。横にいる二人の存在など何食わぬ顔だ。彼らとは反対側の机の横にある小さなフックにカバンを掛けてひと通りの作業を終えると、いつものように鼻を突っ込むようにして小説を読み始めようとした。


 と、直後、恵太に向かって尖った声で言い放った。「先週、私から取ったヘミングウェイを返して!」


 恵太とトシは、雪女でも見たような表情になった。


「チッ」と舌打ちして、恵太は渋々ちひろへそれを返した。


「何が大人の男だ。小説は彼女のだったんだ」トシはあきれてものが言えない。


 次に、ちひろはトシのほうへ向かってイヤらしい眼つき、不敵な笑みを浮かべた。


 嫌な予感。


「デートの約束、忘れないでちょうだいね!」


 その声は北極から届けられたように寒々としていた。


 恵太の顔が一瞬、ペンギンのような表情に変わった。


 トシは慌てふためき「トト、凍結だ」と言い放った。

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