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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第22章『近くの野原』

 翌朝、トシはかなりの勢いで家を出た。


 太陽はすでに空にあって彼の背中を照らしていたが、それは目玉焼きのようではなく、赤色の絵の具を水に溶かしたように、ぼんやりとしていた。


 いつもの母の小言などおかまいなしだ。宿題はやった。朝食代わりのバナナも食べた。でも課題が残っている。やることが山ほどあった。学校へ急いだ。


 昨夜のことについて、恵太とカツには話せることは話し、話せないことは黙っていようと考えた。彼らの体調も気になっていた。そして、カレンといろいろ話しをしたかった。手紙のこと、上級生のこと、これからのこと。たくさんある。上級生らとも会えたらいい。対決するのではなくて、もう少し膝を付き合わせた話し合いがしたかった。京介さんから彼女のことをもっと聞かせてもらえたらいいし、自分の気持ちも伝えられたらいい。まぁ、前者は積極的に、後者は消極的に。その中間で、ちひろとのデートの約束がある。あれは自分にとって失策だったけれど仕方がなかった。それからバドミントン部のキャプテンにも伝えたいことがある。さらに、戸塚さんや柳田さんらと制服問題の件も話し合わなければならなかった。二つ、三つと指折り数えて、彼は首を横に振った。大きなくしゃみをしたら、どれかひとつくらいは忘れてしまうだろう。


 ふと、どこからともなく進軍ラッパが聞こえてきた。彼は耳を疑った。


 井の頭団地を抜けると、学校へ続く一本道に出た。そこは、通学路になっている。大勢の学生(トシの通う私立高校以外にも、付属の中学や彼が昔通っていた市立の小・中学校が近所にある)がひとつの塊になって、パレードのように行進していく。軍隊のように足取りは規則正しく、速度も一定していた。誰かが「いち、にい、いち、にい」と叫んでいるようだった。ときには、おもしろそうに意味もなく競争して走り出す生徒もいる。


 トシは思い出していた。


 半年ほど前まで、この辺は広々とした野原で、その隅には全長わずか百メートルくらいの小川が流れていた。両端は土砂で堰き止められていて、いちばん深いところでも子どもの膝くらいまでしかなかった。たぶん、玉川上水か神田川の支流から地下を潜って流れてくる水道みずみちだったのだろう。そこにはザリガニやカエル、ゲンゴロウなどが生息していた。小魚もいた。きれいな水があるところには、自然が生きている。水草に隠れていた蛇に驚いて悲鳴を上げたり、ザリガニを捕まえようとしてハサミにやられたり、うっかり滑って靴が水浸しになったり、苦い経験がいくつもある。自然という神様は、子供たちに絶好の遊び場を提供してくれた。


 恵太とカツとトシの三人は、その小川や野原でよく遊んだ。三人が楽しそうにしていると、次にクラスメイトらがやってきて、友だちの友だちが集まり、そのまた友だちもやってきた。さらに見知らぬ女子もいて、トシはなぜか胸がドキドキした。でも、顔見せ程度ですぐに女の子たちが帰ってしまうと、誰かが「フン」と鼻で唸った。


 少年たちは野原を走った。誰かが転んだ。みんなで笑った。やがて追いかけっこになり、鬼ごっこになり、戦争ごっこになった。泥団子の投げ合いで誰かが投げた小石が当たり、「反則だ」と叫ぶ。にらみ合い、言い合い、取っ組み合い、気まずい空気に包まれると、誰かの「オレ帰る」の声で幕引きだ。


 気がつけば夕暮れ時。みんなが帰り、元の三人になっていた。野原に平和も戻った。恵太とカツとトシは大の字に寝そべり、宙を見上げた。はじめは星を数え、次には月を語り、そうして時を越えた。「宇宙の果てはどうなっているのかな」「でかいよな」三人は互いに見合ってから、大きなため息をつき、無言になった。しばらくの間、誰も声を発しなかった。いつまでも忘れられない心に残るシーンというのは、きっとこのときのことをいうのだろう。無口になったのは、彼だけでなく恵太やカツも同じ気持ちでいたからなのかもしれない。静かな野原にカサカサと小さな音がし始める。やがてキャロル・キングの『きみの友だち』を奏でるために、虫たちが三人の周りに集まってきた。


 その光景は茶色に変色した写真のように遠い昔の記憶のように思え、ちょっぴり哀愁が感じられて彼は気に入った。


 それ以来、小川は埋められ(それでも、地下深くで清流は脈々と流れていると、トシは信じている)、野原は宅地開発され戸建てが建ち並び、塀で囲まれ、その脇にアスファルト舗装された道ができ、――――虫たちの歌声は聞こえなくなってしまったけれど――――みんなの通学路になった。毎朝、近くにある公立の小・中学校の生徒らも加わり、パレードを大いに盛り上げている。


 トシは歩いた。ゆっくりと。


 みんなの後ろ姿を見て、問題が彼の脳裏をかすめた。果たして、制服か私服か。もし自由化になったら、この道の様子も一変するだろう。好き勝手に奇抜な服装、髪型で登校する生徒が増える。「風紀が乱れる」という学校やPTA側の心配も分からなくはない。


 もしや学生服のパレードから、仮装行列になってしまうのか。


 トシは立ち止まって思案し、そして、また歩き出す。それを繰り返していた。パレードの中に加わって、彼は今いちど制服問題について自分の考えを整理してみる。そして、少し後悔した。彼は、一年生代表としてみんなの声を聞いてまとめ役となった。しかし、はたしてみんなの声をちゃんと聞けたのだろうか、と。例えば、中学生の意見も取り入れるべきだった。中学生はまだ子どもだから、という学校側やPTAら、大人たちの勝手な考えで『声』を排除してしまったのは良くなかった。「みんなの声を聞いていなかったな」


 しかし、後戻りはできない。


「おはよう。辻堂君、なに頭をポリポリかいているの」


 後ろを振り返ると、戸塚さんだった。


「おはよう。ちょっと考え事していたんだよ。キミを一等兵から中尉に昇進させようかってね」


 彼女は、トシの横へ並んで歩き始める。


「軍隊なの。でも、ちょっと嬉しいわ」


 黒ブチメガネの彼女は、相変わらず地味でまじめな優等生という雰囲気。一方で……、彼は自身を省みた。頭が悪く、劣等生で、だらしのない男。彼女と並んで歩くには不似合い、不釣合いだな、とちょっと引けめを感じてしまった。


 ボサボサの髪の毛を見ながら、戸塚さんはいぶかしそうな顔つきだ。


「刑事コロンボみたい」トシは軽く微笑み、「きみはペネロープだ」と言った。二人は眼を合わせて微笑む。それから三〇メートルほど無言で歩いた。が、ふと彼は思いついたように立ち止まり、振り向いて彼女へ声をかけた。


 トシは言った。「誰かが僕たちのことを」ペネロープは言った。「まさか」笑う彼女に、トシは制服問題について自分の思いを打ち明けた。自分が今どういうふうに思っているかを。


「そうねぇ……」彼女は彼の話を聞きながらゆっくりと空を見上げた。彼のほうも彼女の視線を追った。青空にちぎれた綿菓子がいくつも浮かんでいる。雲は彼らの眼の前にあって手に取れそうだった。


 戸塚さんが言った。「いろいろ難しいことがあるけれど」トシが頷く。「うん」「あとは投票結果に委ねるしかないわ」彼女は言った。「そうだな。雲みたいな気分だな」とトシが言うと、彼女はそっと肩を寄せた。そして小さく呟いた。「私、雲に……乗って……みたい」


 トシは黙っていた。


 二人はパレードに混じってゆっくりと歩いて学校へ向かう。雲はどこから来て、どこへ消えていくのか。雲の行方など、誰ひとり知らないし、気にも留めない。それでも、その下でパレードは続く。今日も明日も、明後日も。


「なるがままにか」


 彼女の横顔へ眼を移すと、メガネの奥の瞳は澄みきって晴れやかな印象だった。「あの空のようにね」振り向いてまた微笑んだ。


 生きていることが素敵に思える空だった。


 一〇年後、五〇年後もここがパラダイスであってほしい。たとえ時代が変わっても、ここだけは変わらないでほしい。トシがそう心に強く念じていると、どこか後ろのほうで彼らを呼ぶ声が聞こえたので、二度と元に戻らない風景のほうを振り返ってみた。それはちょうど車のバックミラーから見える景色そのもの。どんどん小さくなり、やがて消えて見えなくなった。


「どうしたの?」彼女が尋ねた。トシは答えた。「気のせいだ」

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