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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第21章『屋上と花壇』

「オレの名は京介だ。早川京介。で、おまえは」


「トシです」


 残ったのは、オールバックのツッパリだった。紳士的な挨拶を二人は交わした。


 その距離、一メートル。


 殴り合いでも取っ組み合いでも、何でもできる距離だ。京介という男の距離。その場の空気を支配し、オーラを発し、世界を築く。独特の『間』を持っていた。


「彼女は困っていたよ。ここへ連れてきてゆっくり話しを聞こうと思った。でも、彼女は拒んだ。すると、息を荒くした一年生二人が割り込んできたんだ。だから、やった。邪魔だったからな。おまえが原因なんだろ」


 距離が近すぎて、ポマードの臭いが鼻につき、彼のツバがしぶきとなってトシの顔面にかかった。


 大きな瞳、切れ長の眉毛、高い鼻。髪をオールバックにして、時代劇に登場する侍のような、そういう役柄を演じられそうな男優のように凛とした雰囲気を持っている。男前のたくましいやつ。トシは、ちょっぴり羨ましくも思えた。こいつが、バドミントン部のキャプテンが言っていたカレンの彼氏だったのか。自分なんかより、可愛い彼女には似合っているかもしれない。そんな嫉妬心が込み上げてきた。


 すると後ろでリーゼント男が、「藤沢は、こいつの従妹なんだ」 知らなかっただろ、というふうに自慢げに話した。


「えっ」トシが驚く。「余計なこと言うな。知っていても言うな。軽口だぞ」彼は荒々しく言い放った。「スマン」リーゼント男が小さくなった。


 そうか。それで謎が解けてきた。バドミントン部のキャプテンは、こいつと勘違いしたんだ。従兄妹同士ならば、割りと頻繁に仲良くしていてもおかしくはないし、それを見て変な噂が立っても不思議ではないだろう。そう言われてみればこの男、何となくカレンに似ているかもしれない。


 あの体育館の壁に書かれた相々傘。京介と牧子。トシはそれを思い出し、話を切り出してみた。


「バドミントン部のキャプテンはあなたのことを」


 眉の間に二本の縦しわをこしらえて、京介は黙り込んだ。


 沈黙。 


 その場の雰囲気だけが空中を漂っている。ゆっくりと時間が過ぎていく。やがて、彼は口を開いた。


「おまえのほうこそ、カレンのことを」


 鼻の上に二本の横しわをこしらえて、トシも黙り込んだ。


 自分が言おうとしている意味を勘違いして受け止めたのかもしれないけれど、もしかすると、彼はキャプテンと何か関係がありそうだ。


「カレンと付き合うな。この前も昼休みに言っただろ。な、忠告しておく。自分が正義の側に立っていると思い込むなよ」


 なぜ。


 どうして付き合ったらいけないんだ。好きなんだから仕方ないじゃないか。


「なぜ」トシは心のなかで呟いた。すぐに答えが欲しくて聞き返そうと思った。が、やめた。「自分で考えろ」、と言われたくなかった。その代わりに、キャプテンについて突っ込んで聞いた。


「なぜ、キャプテンとは付き合わないのですか」


 彼もまた、黙り込んだ。しゃべっては黙り込む。相手の右フックに注意する。ジャブを放ち、後ろへ下がる。また前へ出て、左のジャブだ。一進一退の駆け引きだ。ボクサーの打ち合いに似て、簡単には手の内を明かさない。トシのほうも女子には弱いが、相手が男子ならば上級生とも互角に戦える。


「ここへ来る前、彼女と少し話しをしました。怒っている風でしたよ」「そうか。彼女は……」


 彼は少し考えた。そして言葉を続けた。「オレとカレンのことを誤解している。男はな、我慢しなけりゃいけないときだってあるのさ。おまえもそのうち分かる。オレは、アメリカへ行く」


 彼は気取った調子で言った。


「え、アメリカ?」


 京介は、黙って頷いた。


 どうして、とトシは問いかけたかったが、またやめた。何か理由があるのだろう。でも今、それを話す気はなさそうだし、ヤツと自分は、まだそれほど親しい間柄ではなかった。


 それでもなぜか、トシの心の琴線にふれた。


 突然、爆音が響き渡った。見上げると両翼のライトを光らせ、巨大なホタルがネオン輝く吉祥寺の方角へ飛び去っていった。やがて音だけが小さく残った。空は、暗黒というよりも半透明だった。いくつか小さな雲が風に乗って通り過ぎていく。その隙間から青白い月の光が彼らのいる屋上を明るく照らし出した。


 彼とトシは再び、お互いをじっと見つめた。


「で、親友の仇は取れたか」


 彼が口を開いた。


 トシは心を開いた。


「少しだけですけれどね」


 すると、彼は優しく笑った。


「ピストルなんて、持っていないくせに」


 みんな大声で笑った。トシも笑った。


 昼間であれば 屋上は眺めのいい所に違いない。吉祥寺の街並みばかりか、東に新宿の高層ビル、西に丹沢の山々が横たわり、その向こう側に富士山の白い頭が見える。しかし、ここは常に鍵がかかっていて誰もが簡単に上がることはできない。ときおり、美術の時間に風景画を描くため、あるいは吹奏楽部が練習する場所として利用する程度だ。運が悪ければ高校生活三年間で一度もここへ来ることがない生徒もいるだろう。


「今夜の空は、星条旗みたいじゃないか」


 そんなことを考えながら、トシは夜空へ向かって星々を吹き飛ばすほど大きな息を吐いた。


 カレンとの関係や上級生の正体が何となく分かってきた。「付き合うな」と言われ、それも分からないわけではなかった。


 すると、自分の背後で人の気配を感じた。先に笑うのを止めたのは彼らだった。トシが振り返ると、そこには、カレンと用務員さんが立っていた。この前の夏休み、深夜に自宅のベランダで見たような、黄金色に輝く鎧兜で身を包んだ中世の騎士ではなく、用務員さんはごく普通の老人だった。暗闇のなかだったからよく見えなかったが、別段、気味の悪い顔ではなかった。


 一同を見渡した後、老人は口を開いた。「こんな遅くまで。しかも屋上は立ち入り禁止だぞ」


 いつものように汚い作業服を着た男は、暗がりのなか手にしたライトでひとりひとりの顔を照らした。一同、眩しそうに顔を背けた。


「学校のルールだ。守らなければならないものだ。同じように社会にも、どこにでも規則とか常識というものがある」


「あ、はい。どうもすみません」


 ツッパリは、懐中電灯に弱かった。


 用務員さんの隣にいたカレンのほうを見ると、雰囲気を察してかホッとした様子だ。トシは恵太とカツのことが気がかりだったので、わざと大きな声で用務員さんに向かってこう言った。「ほかにも屋上にいるかもしれませんよ」男は眉をひそめ、彼の言葉を理解しようとしているようだった。もろろん、そのために言ったわけではない。すると、カレンが用務員さんより先にトシの意思を理解し、反応してくれたので助かった。「もういないわ。ここに残っている人たちだけ。大丈夫よ」トシは黙って頷いてみせた。


「もう屋上へは来てはダメだぞ」用務員さんの言葉を聞いて、何か変だとトシは感じた。この男は、僕たちが屋上へ上がってしまったことを注意している。ここで何をしていたかについては、まるで気にしていない。問いただそうともしない様子だ。


 なぜ、屋上にこだわるのだろうか。


「屋上、屋上」。トシは、心の中で二度呟き、気になっている何かを探り出そうとしていた。ここから東西南北、四方八方、とても眺めがいいことは分かっている。病院へ行くほどではないにせよ高所恐怖症ぎみのトシにとっては、さっきは手すり越しに下を覗いたときに鉄の柵が見えてとても怖かった。が、あれは校舎の裏側だった。彼は一団から抜け出すように、表側、つまり校庭のほうを見ようと手すりへ駆け寄った。


「どうしたの、トシ君」


 カレンが怪訝そうな表情をした。


「待て、早まるな!」


 用務員さんもうろたえた。手にした懐中電灯でトシの背中を照らす。その一条の光りに誘われるように、小さな虫たちが飛び回っている。


 トシは、手すり越しに上半身を乗り出し、下を眺めた。校庭は水銀灯に照らされている。右手には体育館が見える。館内の明かりが消えているので、既にバドミントン部は、みな帰宅したのだろう。人気のない校内から、目線を真下へと向けた。


「あっ」


 彼は小さな声を発した。何かを見つけたのだ。校庭と校舎の間の法面にあるもの。そこには花壇が横たわっていた。


「忘れるものか」。彼はあのときのことを思い出した。後ろのほうでは、その場にいた全員が、トシが何を考え、何をしようとしているのか不安そうに見つめている。


 トシは用務員さんの立場で、あのときの彼の視点で、あの鋭い眼光で、何かを見ようとしていた。


 今、校舎の屋上から上半身を乗り出して恐る恐る真下を見ている。それはあたかも、強風が吹き荒れ、大波が岩にぶつかり白く砕け散る断崖絶壁に立っているような気分だった。果たして自分のやろうとしていることが、正しい行為なのか。しかし、最期どういう結果になろうとも、答えを出さずにはいられなかった。彼は息を飲んだ。手すりはとても冷たく、握りしめても、腕がやけに震えた。


 用務員さんはなぜか、懐中電灯を点けたり消したりしている。トシが手すりのそばで考え事をしている間、誰もが沈黙を守っていた。光りの点滅は催眠術のように、周囲のみんなを惑わせた。


「あのとき、何かを見た」


 トシは真下に見える花壇のほうから上を見てみようと、こちらからあちらへ、自分の意識を一八〇度ぐるりと反転させようと試みた。そうすれば、何かが分かりそうだ。いちいち花壇まで下りて行かなくて済む。でも、それは簡単にはいかなかった。頭と精神を集中させなければならなかった。


「花壇だ。あそこへ自分の体と意識を持っていくんだ。意識を反転させ、視点を逆転させろ。踏ん張れ。必死になれ。脳みそが汗をかくくらい努力しろ」


 トシは、ポオのような奇才でもなければひらめきを持っているわけでもない。授業中でさえこれほど真剣になったことはない。自分のイマジネーションを編集し、映像にし、目の前に実体化させる。これは、いわゆる一人革命、自分改革なのだ。


 今、彼の体は小高い校舎の屋上にあり、真下の花壇には、もうひとりの自分が立っている。そして、カメラをパンするように、花壇からもうひとりの自分が屋上の自分を見上げている。屋上からも花壇からも、そのどちらからでも自由に視点を移して見ることができる。眼と眼。顔と顔。姿と姿。自分同士で確認し、お互い頷きあった。


「やはり、あれは屋上だったのか」


 あの昼休み。花壇にしゃがみ込んでいた用務員さんの顔は自分のほうへ向きながら、片方の眼はまったく違う方向を見上げていた。あのときは、どこを向いていたのかさっぱり分からなかった。でも、今ははっきりした。花壇から屋上を見上げていたのだ。――――トシのレベルは、九〇に上がった。


「でも、ちょっと待てよ」。彼は呟いた。しかもそれだけでは終わらない。


 直後、トシは予期せぬ何かを見たのだ。


 ほんの一、二秒だったが、確かに何かを見た。花壇でかがみ込んでいた用務員さんは見ることができたかもしれないけれど、あのときの立ち位置からして、自分は屋上を直視することは難しかった。死角になって何もわからなかったはずだ。なぜなら自分の後ろに校舎がそびえ建っていたのだから。振り返りも見上げたりもしなかったのに、でも、なぜか背後の高い位置の屋上を見ることができた。何かを見た。見てはいけないものを。恐ろしい何かを。


 トシはどうやって、一体何を見たというのか。


「トシ君、何をやっているの」カレンの声に冷たさが感じられた。


「待てよ。えーと」彼がさらに答えを引出そうと懸命になっていたそのとき、「危ないから」と用務員さんが背後からトシの肩へ手をやり、その場から離れるように諭した。


 老人の手に温もりが感じられた。


 トシは我に返った。渋々黙って頷き、素直に従った。彼の思考回路がプツンと途切れた瞬間でもあった。


「今回、キミたちが屋上に来たことは目を瞑る。ま、扉の鍵をかけ忘れたのはワシじゃからな」用務員さんは仕方ないという表情を見せながら、見渡した。


「もう帰りますから」カレンの従兄は静かに応えるように、いそいそと引き上げていく。ほかの連中も後に続いた。彼らはうつむき加減でトシの前を通り過ぎる。


「争いごとはやめろ。引き分けでいいだろ」と、最後に用務員さんは告げた。すると、リーゼント頭の男がしんみりと言った。


「あ、はい。分かりました」


 ――――今だ、チャンスだ。トシは心のなかで叫んだ。「さよなら、ツッパリ」


 彼らの後ろ姿を見送りながら、すかさず右手でピストルの形を作り、力を込めて一発放った。

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