■第20章『変身その2』
「ちょっと待て」
すると五人の中でいちばん大柄な男が前へ出てきた。一歩、二歩、三歩と近づいてくる。いちばん力もありそうだった。レベル五〇以上で、クマのような男だ。
「ひとりだ。しかも年下だろ。やるのは簡単だ。おまえ、なぜ、やられるのを覚悟で来たんだ」
クマのようなそいつは、いちばん大柄なだけではなく、いちばん力がありそうなだけでなく、いちばん頭も良さそうだった。――――トシよりも経験値は高いに違いない――――もし、彼がプロレスラーなら毎回試合を見に行ってもいいだろう。
「俺の名はリュウ。川崎亮」
二人は、二メートルくらいの距離をあけて向き合った。クマのような体つきだったから、二メートル離れていても、あたかもくっついているような気がした。
トシは、死んだふりでもしようかと思った。
「怖いか、逃げたいか。なぜ、そうしない。何か持っているのか」
クマは、語気を荒くして言った。
「武器ならある」
でも、何かは言わない。
「ほーっ」
言葉になっていない声を発した。一対一で戦うにしても、こいつだけは避けたいとトシは思った。勝てる相手ではない。
「クマを相手に戦うには、ピストル一丁くらい持っていないと」
ついうっかり口が滑った。シマッタ、と思った。余計なことをしゃべってしまった。
するとみんなが大声で笑った。
「クマだとよ。クマのプーさん」
後方から声が聞こえた。違う意味で彼らは笑ったのだった。
「誰だ。余計なことは言うな!」
「プーさん」と言ったそいつは、男に睨まれてシュンとなった。遥か彼方の井の頭公園のほうまで吹き飛ばされたかのように小さくなった。とても惨めだった。
ひと呼吸置いて、そのクマは人の言葉で話し始めた。
「そうか。ピストルがないと戦えないのか」
「そういう訳じゃないけれど、力ではかなわない。そういうことは分かる……」
しゃべり過ぎたかもしれない。
ん、もう。せっかく秘密兵器にしておこうと思って内緒にすべきだったことを話してしまった。しかし、ここで弱気を見せてはいけない。トシは身構えた。さあ、どうする。
「やってみないと分からないだろ。蜂の巣みたいに体中穴だらけになるのはそっちかもしれないぜ」
と、クマはニヤリと笑った。
胸元で熊手のような両手を合わせ、一方の手で握り拳を作り、もう一方の手の平でグリグリもんでいる。トシは唾を飲み込み、息を吐き、次の展開を読んだ。
右のボディーブローだ。
勘は的中した。一歩踏み込みながら下からえぐるようにトシの腹へ打ち込んできた。風を切る音がした。思わず体をくの字に曲げる。腹筋が硬くなる。「もうだめだ」と思った。一撃で恵太やカツと同じように、なすすべもなくやられてしまう。
トシは身ごもった。痛いよ。苦しいよ。胃袋が裂け、内臓から骨やら何やらすべてがバラバラになり、肺大動脈と下大静脈管が破裂して、大量の血が体内で噴水のように飛び散る。吐き気が襲う。血だ。内出血だ。その一発で、肉体的にも精神的にも腐った柿のようにグチャグチャになってしまう。自分という人格や人生までも、あらゆるすべてのものがメチャメチャになるのである。
ところが、はたと気がつけば彼の拳は腹に当たる寸前で止まっていた。
「おまえの親友たちにも同じことをしたよ。ほんの僅かこの鉄拳を腹に当てただけで二人とも簡単に倒れたぜ」
大きな握り拳をもう一方の手で擦りながら、ニヤリと笑った。
「戦いというのは力だけじゃない。勝つためにはここを使わなきゃ」
今度は、人さし指で頭を突くようにして「ここだよ」と言った。
黙って頷く。
本当は、思い切り腹を殴って倒してほしかった。そうすればこの場に倒れ、すべてが終わっていただろう。倒れて気絶してしまえば楽になれる。負ける者の安堵感だってあるのだ。
トシは息を吐き、そして、吸ってみた。
でも、やっぱり、殴られないほうがいいな。普通に呼吸ができて、普通に食べて、普通に動けるのがいい。そう思った。
「おまえはいい根性している。ひとりでやってきた時点でそう思ったよ」
ちょっぴり照れくさかった。
風が吹き、彼の髪を撫でつけていった。
「うぬぼれるなよ。ピストルとか嘘ついてもオレには分かっている。ナポレオン・ソロ(※一九六〇年代後半、日本でも人気を博したアメリカのスパイもののTVドラマシリーズ)の見過ぎだ。それともフィリップ・マウロー(※レイモンド・チャンドラーの小説に登場する有名な探偵の名前)の真似か」
トシは黙っていた。
「あの二人は、自分がそんな目に合うはずがないと思っていた。だから、そういう目に合うんだ」
恵太とカツのことを考えた。騒動に巻き込んでしまった責任は自分にある。そう思うと、彼らが倒れてしまったのは大げさだったかもしれないけれど、二人に非はない。まったくひどいことを言うやつだと思えた。
「僕の親友たちだ」と、キッパリ。
「な、おまえ。この世には二種類の人間しかいない。オレのようなやつとバカなやつさ」
「バカなほうで結構。クマといっしょにはされたくはない」
「なんだと!」
かなり怒っていた。わざと怒らせたのだ。一度、カッコつけて殴る振りをして見せ、「頭を使え」と大見得を切ったのだ。感情にまかせて暴力に出ようものなら、自分は頭が悪い、と白状したようなものだ。もはや、実際に手を上げることはできない、とトシは踏んだ。
「あいにく、犬の気持ちは分かるけれど、クマの気持ちなど分からない」
二人の眼が激しく絡み合った。
「へんしーん」男は叫んだ。またかよ。
プーさんが変身すると何になるのか、非常に興味深かったが、結局、クマはクマであり、プーさんはプーさんである。それがいちばんだった。
「言葉遊びはもういい!」
クマの背後で、オールバックの男が鷹のような眼つきでトシを睨んでいた。
「オレの女にちょっかいを出しているのはおまえだったな」
「カレンのこと……」
「その通りだ」
彼は落ち着いて言った。
プーさんのほうは、砂浜に作った山のように波にさらわれて跡形もなくトシの視界から消えてしまった。――――トシのレベルは七〇に上がっていた。
不良グループを仕切っているのは、こいつだ。トシの直感が働いた。




