■第19章『変身その1』
「おい!」
近づきながら、低く太いトーンの声で呼んだ。やつらが一斉にこちらへ振り向き、そして互いの顔を見合わせながら、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
その距離、一〇メートル。
「何しに来たんだ」例の、リーゼント頭の痩せた男が一歩出て言い放った。
相手は五人。
冷静に考えても勝ち目はない。どうする。どうやって戦う。いい案が思いつかない。とにかく強気でいくしかない。
「いい度胸してるじゃねぇか。ひとりで来たのか」
少し高くて細い声だった。
両手をポケットに突っ込んで、彼は何も言わずにそこに立ったまま、こちらがどんな人間なのか見極めようと、カマキリのように三角形をした顔をかしげている。ツッパリは笑い顔を見せた。愉快そうな笑顔ではなく、少々違う種類の笑顔だった。
「おまえ、一年生だな」そう言いながら、上着のポケットから櫛を取り出し前髪を撫でるようにとかした。
トシの表情はかなりひきつっていた。リーゼント姿にビビったのではない。何か異様な、まるで魚の腐ったような臭いがしたからだ。
「親友の仇を」そう言うと男に笑われた。今度はハッキリと鼻であざ笑っている。
「レベルいくつだ。オレたちに勝てると思っているのか」
「たぶん」軽く頷いてみせる。すると、相手の笑顔がしぼんだ。
「この間は、泣きべそかいたって聞いたぜ」
「あれは、クラスのみんなが味方してくれたから。うれし泣きだった」
嘘を言ったらダメだ。どんなときでも、どんな場所でも、真実は強い。本当のことを話すときはいつでも、それは自分の強い味方になってくれる。「泣いてなんかいない」などと嘘をつけば、それがバレてしまわないか怯え、レンガが崩れるようにボロが出るのだ。
「ふん。甘ちゃんだな、おまえ。あのときは仲間が大勢いてくれてよかったな」
そう言って、その男は再び自分の髪、リーゼントを両手で整え始めた。トシはそのしぐさを見て、映画『エデンの東』(監督エリア・カザン。原作ジョン・スタインベック)のジェームス・ディーンを意識しているな、と感じた。と、同時に、こいつは優しい人間なんだと判った。
話しながら自分の体裁を整えるのは、こちらを意識している証拠だ。自分がどう見られているか気にする繊細で心優しい男なのだ。それが九十五パーセント間違っていたとしても、彼の人間性の残りの五パーセントくらいは優しさが眠っているのだと思う。上手く自分を伝えられない。だから、相手を気にする。でも、同情すると怒る。ちっぽけな男なのだ。もっとも、仮に九十五パーセントもの優しさを持つ男がいたら、ちょっと気持ちが悪い。
「ありがとう」トシは、九十五パーセントの不快感と五パーセントのお礼を込めて言った。
その言葉が相手には気に入らなかったようだ。
「女のために、ひとりで何ができるんだ。ふざけやがって」と、はき捨てるかのようにリーゼントのツッパリが言った。
「それは、こっちの台詞だ」声に凄みをきかせた。いつも群れを作っている、おまえのほうこそ、ひとりで何ができるんだと言いたかった。その代わりに問いかけた。
「この世でいちばん大切なものは何か知ってますか?」
「それは……」と、言いながら、ツッパリは片手で前髪を整えた。
そして、沈黙。
まさか、お金とか生命とか夢とか、当たり前の台詞でかっこつけるつもりではないだろう。
「いちばん大切なものは……」
気取ってばかりいる相手に業を煮やして、トシは後をひきとった。
「花です」
その台詞に、相手はニヤリと微笑んだ。
「そうかもしれない」
まったく奇跡的な偶然で、二人の思いは合致した。
「花の一種でしょ」
「欲望という花か」
「ちょっと違うかも」
二人は見つめあったまま、次の台詞を探している。
「この世でいちばん大切なのは……」
「それは、サルビアの花ですよ(※『もとまろ』という三人組の女性フォークグループによって一九七二年に大ヒットした。元々は早川義夫のオリジナル曲)」
トシがそういうと、少し間を置いてリーゼントがほとんどメロディになっていない鼻歌を歌い始めた。どうやら音痴らしい。小さな笑い声とともに後ろがざわめいた。「俺はケイスケ。八津佳祐。お前とは縁がありそうだな」
「そのひさしみたいな頭を直せば、ちっとは女の子にモテると思うけれど」適当な脅し文句が思いつかなかったのでちょっとアドバイスした。
「うるせぇ!」「倒せ!」「やっちまえ!」
いくつかの声が絡み合い、その場の空気が乱れた。
トシは身構えた。ツッパリ男が両手をぐるぐる回し「へんしーん」と言った。
一瞬、気が変になったのかと疑ったけれど、男の姿がみるみる変化していくのを見て、おかしくなったのは自分の眼かもしれないと思った。
男の身体全体が光沢のある黒色に変化し、両側面から棒のようなものがいくつも生えてくるではないか。そのいくつもの棒は針金のようにとても細くて硬そうに見えたが、ひとつひとつの棒は短かい無数の柔らかなビロードの毛のようなもので覆われている。
黒光りするその姿は、とても気味が悪かった。
リーゼント姿から、昆虫男へ変身したのである。
しだいに男の頭と首が身体のなかに沈み込むようにして消え、丸くて大きな眼玉だけがニつ、それが首の部分にニョキニョキと現れ、トシをじっと睨みつけた。左右の眼玉の間から長さ約一メートルもありそうな二本のヒゲらしき触覚が伸びて、その先端が何かを感知しようと空中をコソコソ動いている。それから両眼の間の身体の上部に小粒な口(と思われる)があり、その口は――――この世に不平不満があるかのごとく――――(つまらなそうに)への字に曲がっていた。そのヘンテコな口から無数の灰色がかった汚らしい泡がブクブク吹き出し、あたり一面を覆い、ヘドロの川のようにドロドロと流れていく。
「ぐわっ」
トシがひるんだその隙に、男の身体の両サイドに伸びていた棒みたいなもの、よく見ると左右にそれぞれ四本ずつあり、――――その先端は小さなハサミみたいに二つに枝分かれしている――――それらは明らかに手足の役目をしていて、にわかに動き出し、目の前のトシを突くようにして襲いかかろうとした。細い手足は不規則にうごめきながら、明らかにトシの身体に危害を加えようとしているのだった。
「○×√○÷△××…、○▲π○×△◎!」
ツッパリは、何語かを話している。日本語でも英語でもない。ロシア語や中国語でもない。もしかするとバスク語(※北スペインと南フランスの一部のみで話される、非常に難解な言語)だったりするかもしれないけれど、そんな難しい言葉を話せるわけはない。一体、何だろう。何を言っているのか分からない。でも、何かを言っている。話すというよりは鳴いている、いや、呻いているという表現のほうが正しいかもしれない。文字や台詞にすることはなかなかできなかった。
「オレが言いたかったのは、こういうことさ」と言って「グレゴール!」と叫んだ。今度はハッキリ聞こえた。
トシは、相手が繰り出す左右四本ずつ、計八本の手足の動きに翻弄されながらも、前後左右に身体を自由自在に動かし、昆虫男の攻撃をうまい具合に避けた。
さらに彼は、相手の攻撃をいなしながら冷静に考えることができたのである。コイツに勝てたとしても、次が出てくる。レベル三〇程度だとしても、五対一では無理だ。相手が三人なら少しは闘える。いや、やっぱり無理だ。ひとりだ。このなかのひとりにターゲットを絞るんだ。
いざとなったらアレを使うしかない。
いや、ダメだ。
ひとりひとり順番に出てきてくれたとしてもこっちの体力がもたない。テレビの時代劇のようにお行儀よく、段取り通りにはうまく事は運ばないだろう。
だったら、このなかのいちばん強そうなやつか、リーダーを最初にやらないと。そうすれば、後は何とかなる。経験値うんぬんなどと言ってはいられない。が、せめてレベル五〇以上で戦えたらいい。城へまっすぐ攻め込もう。
よし、やってやるぞ!
トシも「へんしーん」と声高々に叫んだ。
が、何も変化がない。おかしい。トシはトシでしかなかったである。
相手はちょっと気色悪いけれど、こういう男は結構、世間一般よく見かけるので――――共鳴できる部分もあったが――――甘やかしてはいけないと思い、初期設定に戻せなかったので、仕方なく殺虫スプレーをかけようとしたら昆虫男はビックリ仰天。不器用な足取りながら、一目散にグループの背後へ逃げて隠れてしまった。




