■第1章『学校の花壇』
――――春、五月、そよ風。
クラスでは今、紙ヒコーキが流行っている。
昼休み、教室の窓を開け放ち、誰の紙ヒコーキがいちばん遠くまで飛ぶかを競い合っていた。
「ちょっと待て」窓辺に立った男子生徒のひとりが片方の手を軽く上げ、ほかのクラスメイトらを制した。その管制官役の一歩後ろに鈴なりになって待つ飛行部隊。男子は、窓越しから外をじっと見つめている。みんな待った。じれったそうに待った。周囲の気圧がぐんぐん上昇していく。
視線の向こうにあるもの。
それは校庭の隅に設置された白色のペンキで塗られた木製の百葉箱だ。年月が経ち、古びてはいるけれど、上部に取り付けられた風力計は、みんなの気持ちを受けて元気に回り始めた。
「南東の風、風速五メートルくらい。よし、今だ!」
開け放たれた窓からみんなが一斉に紙ヒコーキを飛ばす。歓喜の合唱とともに。
「それ行け!」
飛べ、高く、遠くへ。
他のクラスのことはよく知らない。が、ここ一年D組だけで流行している遊びのようだ。
「お願い!」
みんなの声は普段よりも一オクターブ高く、期待と希望に満ちて溢れていた。紙ヒコーキは一度、青空へ高く舞い上がるものの、しかし、すぐに落ちてしまう。あるいは最初からキリモミ状態で無残にも落下していく。
「ああー」
誰もが上手くいくというわけではない。あちこちから洩れる、ため息まじりの声。それは期待と希望から一オクターブ半落ちていた。
教室の後ろの席で、頬杖をつきながらその様子を見ていたトシは、小さくあざ笑った。彼にとっては、くだらない遊びのひとつとしてしか映っていなかった。
「流行なんて。みんなと一緒だなんて。自分は違う」紙ヒコーキなんかを飛ばす連中を見ていると、「みんな、まだ子どもだな」と思えた。
辻堂敏生、十五歳。通称、トシ。ボサボサの髪の毛、ぽっちゃりした頬、丸く柔らかい曲線を示す顔の輪郭は、まだ幼さを残している。背丈は一七五センチあって、ヒョロッとしたもやしのような体型がより一層、子どものひ弱さを感じさせていた。残念ながら当の本人は、その事実に気付いていない。もうひとつ特徴を挙げるとすれば、高所恐怖症の心理的な病を持っていた。
ここは、東京・吉祥寺。
七〇年代初頭。東京と高尾を結ぶ中央線と千葉方面へ向かう総武線(JRの前身である国鉄)、渋谷へ出入りする私鉄の京王井の頭線の三路線が走る駅ターミナルを中心に地域開発が進められ、急速に発展・変貌する街並み。その様相から少し離れ、緑豊かな井の頭公園を抜け、玉川に沿って約二〇分歩くと、彼が通う高校の白い校舎が見えてくる。小高い丘に光り輝いている。
校庭はサッカーグラウンドがひとつ収まるくらいの大きさで、その上の段に沿った傾斜の法面には花壇が横たわり、春の卒業・入学シーズンは白、紫、黄色、オレンジ色など、色とりどりの花が見られる。太陽の光をいっぱいに受け、花々が天を仰ぐ。
見上げると青い空、白い雲。
「デュワデュワ、パ、パ、パー」花々の歌声を文字に変換するとそんな感じ。小さな虫や蝶も楽しそうに飛びまわる。校庭は花の甘い匂いで、春爛漫の雰囲気が漂っていた。「デュワデュワ、パ、パ、パー」
校門を抜け、左にある体育館横の渡り廊下を通り、一本の大きな桜の木を左から右へ回りこむように弧を描くコンクリートの坂を上って行くと、玄関口にあたる。校舎は、一階が校長室のほか、保健室や更衣室、放送室や売店などの共用施設があり、一年生は二階、二年生はその上、最上階の四階は三年生の学年割りになっていて、トイレ・洗面所は各階にあった。向かって左の妻側、つまり玄関の上の二階にはメロディを奏でる音楽室があり、三階には創造を奏でる美術室、四階には思考を奏でる図書室がある。
トシの教室がある二階は、普通の二階ではない。結構高かった。四階建ての校舎は、花壇をはさんで校庭よりも小高い位置にそびえ建つ。
そういうわけで、校庭のほうから見上げると、教室がある二階は、実質的には四階か五階くらいの高さだ。そこから風に乗せて、と言っても強い風ではなく、むしろ微風・軽風のほうがいい。風力計のまわり方を見ながら、ビューフォート風力階級で、三から五くらいの風に乗せて紙ヒコーキを遠くのほうまで飛ばすことができたなら、とても気持ちがいいに違いない。が、しかし、彼にとってはちょっと問題だった。
なぜ、紙ヒコーキごときに頭を悩ませていたかというと、トシの作るのはいつもどういうわけか、まっさかさまに落ちてしまう。悲鳴をあげるかのようにキリモミ状態で回転しながら落ちていくのだ。クラスメイトから失笑を買ってばかり。学校の成績と同様に、常に下へ落ちていくものだから、最近は、ほとんどやらなくなった。つまらないから。そして、やらないとやらない分だけ、勉強しないと勉強しない分だけ成績が落ちていくのと同様に、みんなからどんどん仲間はずれにされた。
彼のような生徒はほかにもいたし、イジメだってあった。それでも、と思う。――――吉祥寺は、静かで平和な場所だ。――――少なくとも世界から見れば。
三年前、一九六九年七月、アポロ十一号による人類初の月面到達は平和的意義を全世界にアピールしたものの、一方で六〇年代からアメリカが展開してきたベトナム戦争は、その大義名分も薄れ泥沼化、人々は「帰れ、帰れ」と言った。――――ほかにもビアフラ戦争、北アイルランド紛争、カンボジア内戦など。――――フランスでは焼身自殺してまで反戦・平和を訴えた少女がいた――――世界的(少数でも、ごく一部でもない)反戦運動は七〇年代に入っても依然続いてはいたが、戦争も反戦活動も、出口がさっぱり見えてこない。例えばヒッピーに象徴されるムーブメントは、麻薬や暴力への傾斜によって反社会的レッテルを貼られ(カルト教団マンソン事件が起こる)――――、国内に目を転じれば、高度成長、所得倍増、GNP世界第二位へと狙いを定め、団塊の世代を中心に大量生産大量消費という経済システム、マネーゲームへ走り始めた。地球全体が有能な指揮者不在のまま、不協和音を奏でていたのだ。
時代、世界、空気、水、人の心、あらゆるものが汚染されつつあったし、失ってしまったものも多かった。
トシは波打ち際にいて、『八重の潮風(※はるか彼方の海から吹いてくる風)』を肌で感じ、聞こえるか聞こえないか、遠い世界の小さなざわめきに耳を傾けていた。そして、はるか彼方へ視線を送った。時代の流れは、水平線に見える蜃気楼みたいなもので、彼には見えているけれど、そして少しは興味があるものの――――例えば、大勢の見知らぬ人々が『平和』というひとつのスローガンのもとに集まり、連帯するときに満ち溢れるエネルギーの放電、音楽的高揚感――――マーヴィン・ゲイのソウルフルでパワフルな、あるいはバート・バカラックの美しい旋律のような――――を味わってみたいと思っている。――――しかし、それはかなり遠くで起きている事象に過ぎなかった。対岸の火事みたいなもので、吉祥寺の片隅では、そういう時代のうねりとか変革とか社会状況とは縁遠く、まるで誰も気にもとめない鳥小屋のなかにいるようなもの。あるいは校庭の花壇に咲く花々みたいに小さなもの。
ただ、そこに吹く風と花の匂いがとても心地よかったのである。
いわゆる英国風というか、バーネットの小説ほどではないにせよ、こんなに美しい花壇のある学校はそう滅多にない。花壇を手入れをしているのは、用務員さんだった。
歳は六〇歳くらい。登校時、昼休み、下校時に花壇で熱心に手入れをする彼がいた。雨の日も風の日も嵐の日も。そればかりか、休みの日でさえ、部活や自主学習で登校する生徒は用務員さんの姿を見かけた。しかし、誰も、何も、気にしない。
トシだけは、そんな彼に興味を持った。
例えば、大通りに面した大きくて派手な看板を掲げたお店よりも、人影の少ない裏通りにあってしんみりとした佇まいの小さなお店とか、あるいは動物園で行列ができるほどの人気者よりも、誰も見向きもしない寂しげな小動物。そういうものにトシは好奇心を抱いた。みんながそっぽを向くもの、哀しげなものが好きだった。それがどうしてなのか本人でさえ説明できずにいた。
普段まったく気にも留めない存在の誰か(または何か)に意識や関心を向けてみる。すると意外に自分と密接に関係していたりする。ふとそれに気がついたとき、人はみな考え始め、理解し出し、関わり合い、交わっていく。まるで運命の糸で結ばれていたかのように。
「あのー、手入れ、大変ですか?」
ある昼休み、トシは思い切って用務員さんに声をかけた。
白髪の混じった男は手を休め、そばに立つトシの表情が見えるか見えないか程度に顔を上げたけれど、何も答えようとはしない。再び黙ったまま花壇のなかの雑草やゴミ、紙ヒコーキの残骸などを拾い集め始めた。彼の頭の上で、無数の小さな虫が飛び回っている。トシは思った。服装はお世辞にもきれいだとは言えないけれど、みんな外見だけで判断しているのかな、と。ひとりぼっちで花壇に佇むその姿は、何となく寂し気で悲しそうに見えたのだ。
すると、男がようやく声をかけてきた。
「トシよ、何を探している?」
やや低くて色気のあるバリトンの声。その落ち着きのある声に驚きつつ、自分の名前を知っていることに首をかしげ、最初の質問に答えていないことにちょっぴり腹を立てた。しかも、トシのほうを見向きもしない。
「いえ、別に何も」
「怒ることはない。夜明け前がいちばん暗いからな」
「夜明け前?」
飛び回る虫たちを片手で払いのけ、男は頭のなかで考えをまとめるように、ひと呼吸おいてから続けた。
「後になって気がつくことだってある」
男はもういちど言った。「夜明け前がいちばん暗い」と。そして、ゆっくりとこちらを見上げ、今度はじっと顔を動かさなかった。
「うっ!」
男の視線が向けられたとき、トシは唸った。戦慄が走った。衝撃的だった。まるで眼の前で爆弾が炸裂したような強烈なインパクト。鋭いビームだ。視界が眩い光に覆われ、周囲の世界が一瞬にして消滅した。まばたきせずに、太陽をじっと見つめたときのような感覚だ。真っ白だった。が、すぐ次には、彼は予期せぬ恐ろしいものに生まれて始めて遭遇したのだ。まさに悪夢だった。
「ご、ごめんなさい!」
トシは、別に悪いことをしたわけではないのに気づくと謝っていた。そして、後ずさりするようにしてその場から逃げた。「どうしよう。みんなに話したほうがいいかな。でも、やめておこうか」などと、悩みながら教室へ戻った。
窓辺で紙ヒコーキ遊びをしているクラスメイトらのところへ行き、戸惑いながらも、「ヤバイものを見てしまったかもしれない」と、そばにいる男子に重い口を開いた。
「うるさいな」と、その男子は軽くそう言うと口を閉じた。
「僕さ、花壇で見たんだよ」
「えっ、お化けでも見たの?」と、別の女子。
「もっとすごいものを」
「用務員さんのことなら気にするな。気味の悪いオヤジだ」と、男子が呟く。
「そうじゃないんだ。僕は見てしまったんだ」
「辻堂君、どこかおかしいの?」
女子生徒は、心の中で「変人」と囁いた。そうしてみんなから冷笑され、結局、相手にされなかった。
クラス中から仲間はずれにされたと思った彼は肩をがっくりと落とし、うなだれ、自分の席についた。机の上に置いた教科書を枕代わりにして窓から差し込む日差しにまどろみ、彼は思う。「もういいよ。誰も信じないなら。夢さ。たぶん夢だったんだ。僕の見たことなんか、たいしたことじゃない」そうしてタイムトンネルへ落ちていくように、彼は別世界へひとり旅立った。
教室内は紙ヒコーキの歌、お菓子の歌、噂話の歌でいっぱいだったが、かすかに昼寝の歌も聞こえた。