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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第18章『聖戦を挑む』

 急に暗闇のなかに入ったせいで、何も見えなかった。


 懐中電灯の準備などしていないトシは、その場で立ち止まり、暗闇に眼が慣れるまでひとつのイメージをわき上がらせた。戦いのイメージだ。まず、手をほぐす。次に、肩を軽くまわす。そして、息を吐く。聞こえるくらい深く大きく。


 トシには大きな武器がある。懐中電灯はなくても、これがあれば大丈夫だ。


 ピストル。彼の秘密兵器。おもちゃなんかではない。こういうときのために、前々から準備していた。戦場のように、いつ敵が襲ってきても大丈夫なように、自分で自分の身を守るために。誰にも内緒だ。


 体中の筋肉が戦いに備え、引き締まっていくのが感じられる。そんなことを考えていると、しだいに周囲の様子が分かってきた。


 今、屋上の隅のほうに立っている。手すりに囲まれた殺風景な場所だ。


 吉祥寺のネオンサインが遠くに見える。辺りは闇に包まれ森に囲まれ民家はほとんどない。遠くのネオンと近くの街灯の明かりだけで、その僅かな光のなかを小さなコウモリが飛び交う。そして、風が吹いている。校舎の裏の森を揺らし、木々の枝や葉を擦り、ヒソヒソ話をするような音を立てていた。


 トシは静かに前へ歩を進めた。


 嫌な予感。


(怖いか)と、もうひとりの自分。


 黙って息をのむ。


「おい!」


 突然、遠くのほうで声がした。立ち止まり、声がしたほうへ注意を向けた。眼が暗闇に慣れてきたとはいえ、人影らしき黒いものが見えるだけだ。どうやら手すりにもたれかかっているようでじっとして動かない。身構えて、ピストルを撃つ代わりに「誰だ」と叫んでみる。


 耳を済ませてみたけれど、応答がない。一歩前へ出て、もういちど今度はもっと強く問いかけた。


「誰だ!」


 すると、前方十五メートル先のところ、角あたりに二、三人の影が薄っすらと見え、そのひとつの影がゆっくりと片手を上げて応えた。


「トシか」


「恵太か」


 駆け寄ると、恵太は白いペンキで塗られた鉄製の手すりに寄りかかり、そのすぐ横にはカツが座り込んでいた。そして、二人を心配そうに覗き込むカレンの後ろ姿もあった。彼女が振り返る。


「トシくん、来てくれたの」驚きと安らぎが交じり合った声。髪の毛が少し乱れていた。


「怖かった」


 彼は二、三歩近づいて黙って頷いた。カレンの姿を見つけて気持ちの上では安堵感が広がっていくのが分かったけれど、トシはそれを表情には出さずにいた。


「心配なんかしていない」


 心配させやがって、と言う代わりに眼で鋭く刺した。


「本当に、ゴメンなさい」


 彼女は眼をそむけた。そして、下を向いて指で軽く目頭をぬぐった。彼女の様子を見て、聞きたいことがたくさんあるけれど、今はよそうと彼は考えた。


 バカやろ、と言う代わりに彼女の肩へ手をかけた。


 カレンは彼の胸元へ顔をうずめた。そして、泣いた。彼女のほうは、トシの気持ちを理解し、話したいことがたくさんあるけれど、今はよそうと思ったかもしれない。


 彼女は考えていた。


 過去のこと、手紙のこと、上級生のこと。いろいろある。大事なことは、ここでメソメソ泣いている自分じゃなくて、ベッドのなかで泣いている自分でもない。みんなと笑っていたり、お母さんの料理を手伝ったり、「行ってきまーす」と元気に挨拶したり、トシ君といっしょにいたり、明日のことを考えている私よ。


 すべての新しい自分。それが大切なのね。


 恋愛というのは過去のことは問わない。今と、これからのことのほうが重要だ、ということを思い知らされた。


 トシのほうは、彼女の肩に手をかけたまま、横向きで手すりに寄りかかっている恵太に声をかけた。


「大丈夫か」


 外灯の明かりがわずかに、うっすらとその姿を映し出していた。恵太はうつむいていたが、やがて顔を上げるとトシを見つめた。


「ああ。上級生のツッパリだ。腹を殴られた。一発でノックダウンだ。あいつら、喧嘩慣れしている。顔や腕や足などは狙わねぇ。ボクシングと同じでさ、ボディーブローってやつだ。効いたよ」


 苦痛に歪んだ表情ではあったが、そのほか、外見は何事もなかったかのようだった。顔も腕も足も大丈夫だ。


「ジャズの先生がな、ピアノ弾きは手や指を大切にすべきだって。だから、オレは手出しはしなかった」


 恵太の言葉を聞いて、少しだけ安心した。


「やつらも顔にアザをつけたり、腕や足を折ったり、そんな傷害事件になるようなことはしない。たぶん、オレたちのレベルを見極めて手加減してくれたのかもしれない。一発だけ腹に。でも、それだけで十分でさ。あ、イタタ……」


「おい、話さなくていいからさ。少し休んでいろ。内出血していたら大変だ」


 彼女の体をそっと引き離した。そして次に、屈み込んでカツの表情を覗いてみる。薄明かりのなかで彼は、背中を丸め、膝を曲げ、顎を上げて頭を後ろへもたげ、顔を天に向けていた。暗い表情だったけれど、いつものように口をひきつらせていた。


「ビビった」


 ガス欠の車のように、その場に座り込んだまま、身動きせず苦笑している。


「あ、あ、あいつらとここでバッタリ出会った。彼女を放してくれ、と頼んだけれど、笑われた。チキショー。悔しかったよ。彼女の困惑した表情を見て、二人で顔を見合わせイチかバチか闘うしかないと考えたんだけれどさ。フッ。や、やられた。でも、彼女は無事に取り戻せたよ。な、こ、これでいいだろ?」


 カツの口調は、とても苦しそうだった。


「スマン。こんなことになって」謝りながら、上級生らに対する憎悪が赤黒い溶岩のごとく腹の底から噴出してくるのが分かった。


「仇を討ってやる!」彼はさっと立ち上がった。


「トシひとりじゃ、無理だよ」「やめておけ」


 もはや二人の忠告には耳を傾けてはいない。彼はかなり怒っていた。親友をこんな目に合わせたやつらが憎かった。


「ダメ、行かないで!」カレンの声の調子が変だ。「たくさんいるのよ! 対決なんてやめて」


「これはジハード(聖戦)だ」


 対決をするのではない。復讐をしにいくんだ。トシは彼女のほうへ目配せして、強い意思を示そうとした。こそこそせず、おどおどもしない。


「分かってる。大丈夫さ」


 彼は短く微笑みを浮かべながら、次にはこう言い放った。


「爆弾を持っている!」


「えっ」


 沈黙が辺り一面を覆った。


 トシは、自分の学生服の胸あたり、ちょうど心臓のところへ手を当て三人に黙って頷いて見せた。そうして顔を上げ、息を吸い込み、胸を張り、落ち着きのある態度を示した。


「爆弾じゃないさ。ピストルさ」


「なぜ、ピストルなんか」


「やめろよ」


「ここの問題さ」と言って再びトシは胸ポケットのところへ手を当てて見せた。


「バカな真似はよせよ!」


 恵太が言い放った。


 最後の言葉に、ちょっぴり悲しみを覚えた。友情とか正義なんていうものはどうでもいい。そんなことを考えながら、ヘンリー・フォンダより誠実で、アラン・ラッドよりも孤独で、マーロン・ブランドよりも強い気持ちで、彼はひとり聖戦を挑むことに決めた。


「ここにいてくれ。二人を頼む」


 気持ちの半分はカレンのため。というか、彼女の手前、かっこつけたかった。それが本音だった。でも、残りの半分は違っていた。それが重要だった。


 暗がりの中、腕時計を顔に近づけて見ると七時になろうとしている。


「行かないで」


 彼女の声を背に受けた。もはや振り向くことはできない。ここで「やめた」などと立ち止まるほど、軟ではない。歩き始める。振り向きなどしない。


 屋上へ出てきた扉の裏手、反対の妻側にやつらは潜んでいるに違いないと思い、手すりを辿りながらゆっくりと確かな足取りで歩きはじめた。


 一歩、また一歩。手すりを掴む手に力が入る。


 白いペンキがところどころはげていてざらざらした感触だった。一度、立ち止まり息を吐く。彼は勇気が沸いてくるのを待った。そして、勇気が出るとまた進んだ。


 腰の辺りまでしかない低い手すりには、あちこちに『危ない。寄りかかるな』という注意書きの札が取り付けてあり、簡単に下を覗き込むことができるので彼の気持ちをいやおうなく不安にさせた。


 見たくない。そう思うと、つい見たくなる。


 恐る恐る下を覗いて見る。暗くてよく見えない。見えないことがより一層、恐怖心をあおる。


 次の瞬間、トシは自分の眼を疑った。あれは一体何なのか。


 眼下に広がるのは夜空だった。高い山の頂きから見える雲海のごとく、トシの立っている屋上の下に夜空が存在している。


 あの輝くものは一体何だ。


 真下に、隊列を組むように直線的に伸びる星座が見える。ひしゃく状の形で並ぶ北斗七星でもなく、すばるのように一塊となって存在している星団でもない。それはオリオン座の三つ星のごとく校舎と並行してまっすぐなラインで光っている。


 それは地獄の星座だった。


 学校の敷地を区画するために境界線に並ぶ鉄柵である。先端がひし形の尖っていて、光り輝き、鋭利の刃物のようなそれが屋上にいる彼のことを下から冷たく見つめている。


 考えたくもないのに、落ちていく自分の姿が見えた。


 落ちる。落ちる。どんどん落ちていく。


 そして、鉄柵の先端に体がグサリと突き刺さった。


「うわ」


 そんな光景がイメージされた。それは戦いの結末を暗示しているかのようでトシは思わずひるんでしまった。


「下を見たらダメだ」


 息を飲み込み、震える足で何とか校舎の真ん中あたりまでたどり着くと、しだいに暗闇に眼が慣れて、遠くのほうが少しだけ見えるようになった。それでも暗闇は暗闇だ。彼は左手を手すりに置き、もう一方の右手で暗闇のなかを泳ぐようにかきまわしながら、ゆっくりと進んだ。


 すると複数の声。いくつかの体が揺れている。地べたに胡座あぐらをかいて、談笑している。一、二、三、……五人いた。


 野球部のツッパリ連中だ。

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