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トシとちひろと百眼の巨人  作者: 夏木カズ
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■第17章『急げ、走れ』

 もはや自分ひとりの力では、どうしようもないことを悟っていた。


「キミ、大丈夫なの。具合が悪いなら保健室へ行ったほうがいいわ」そう言って、先輩は周囲を見渡した。


 トシが「大丈夫です」と言いかける前に、彼女はちひろを呼びつけた。「いっしょに保健室へ。先生を呼んで。すぐ戻ってくるんだよ」先輩はトシを一度凝視した後、ちひろに目配せして部活へ戻っていった。


「ハイ。キャプテン!」ちひろが歯切れよく応える。


 打ちひしがれフラフラになりながらも、トシは何とか持ちこたえていた。


 果たしてカレンらは、先生に見つからないように学校の外へ出て行ったか。それとも教室へ戻ったか。そして、彼女を連れ去った上級生とは何者か。まさかあの野球部のツッパリたちではないだろうな。


 彼は考えた。冷静に。じっくりと。床に眼を据えながら考えていた。沈思黙考、といった感じだ。


「辻堂君、大丈夫?」


 ちひろの声には心配する気持ちが込められていたけれど、でも、再び自分と対面した喜びが含まれているようにも思え、彼には気に入らないことだった。無視するように腕時計を見ると、あれから十五分過ぎようとしていた。早くしないと。こんなやつにかまっていられないし、もらいたくもない。


「たいていの場合、自分が嫌いだと思えば、相手も同じことを思っているのよ。だから、できるだけ相手の長所や魅力を理解してあげなさい」


 母の小言を思い出す。


「人を好きになれたら、きっと相手もあなたのことを好きになってくれますよ」


 ちひろにおいてはどうしても好きになれない。母の教えは、たぶん何かの本の請け負いに違いない。理屈や頭では分かっていても、皮膚感覚が拒否反応を示すのだ。彼女の声を聞いただけで鳥肌が立つ。髪型といい、スタイルといい、自分のセンスに合わない。自分は嫌いなのだから彼女も自分のことを嫌っているかと思いきや、どうやらそうではないらしい。だから、余計に困るのだ。


 一度そう意識すると、もう頭から追い出すことはできなくなった。


 それは心のなかへ潜り、彼を悩ませた。しかも教室では隣の席である。意識すればするほど彼女のことが気にかかり、自分でもときどき、こっそりと彼女の様子をうかがうようになった。そして眼と眼が合う。彼女が微笑む。彼は眼を逸らす。視線をはずした後も、彼女はこちらを凝視しているのである。実に腹立たしい。この場面でも、ちひろは臆することもなく立ってこちらをじっと見つめている。


 もしかすると、彼女もまた母の教えのような境地に立ってこちらを観察しているのかもしれない。「人を好きになりなさい。そうすれば相手も自分を好きになってくる」……。人はだれしも理解されたいと願っているかもしれないけれど、自分を見透かされてしまうのは不愉快なものである。


 それでも、トシの心のなかでは何かしらの計算が働いていた。ここは取引きするしかない。


「今度デートしよう」


 思い切った約束だ。


「えっ、本当なの?」


 驚きの表情を見た。


「うん。約束するよ」


 嘘はつきたくない。


「私のほうもOKよ」


 取引きは成立だ。


「あっちへ行こっ!」


 ちひろに従い体育館を後にして、渡り廊下を通り校舎へ向かった。保健室に行くという振りをする理由もあったのだろうけれど、きっとカレンは教室へ戻っていったに違いないと、そのとき彼は確信した。


「校舎へ行ったのか」。「うん。私、見ていた」。彼女の言葉を信じよう。「この間、私たちの教室へやってきた怖い人たちがいっしょよ」と、彼女は告げた。


「やっぱり、そうか!」


 予感が的中して、かなり気合が入った。


「たぶん上階のほうよ」


 黙って頷いた。でも、正直言って、あまり気が進まない。この間、やつらにもう少しでぶっ飛ばされるところを、親友やカレンやクラスメイトに助けてもらったのだった。その次の瞬間、戦慄がトシの体の中を走り抜けた。


「シマッタ!」


「えっ、どうしたの?」


「恵太とカツが……」


 上階を探してくれ、と頼んだのは自分だ。二人がやつらと鉢合わせになっているかもしれない。カレンだけではない。彼らも危ない。もうひとつの憂慮すべき事態にジッとしてはいられなかった。


「行かないで」


 腕時計を見ると、既に二〇分も過ぎていた。


「親友が大変なんだ」


「ダメ、お願いよ!」


「キミには関係ない」


 その言葉は、ちひろを困惑させ、打ち負かし、絶望させた。


「行かないで」


 ちひろは、もういちど必死に懇願した。


 胸騒ぎがして、悲しくて、せつなくて、彼から離れたくない、と思った。


 でも彼は、風のごとく行ってしまったのだった。


 急げ!


 走り去る自分の後ろ姿を見つめる彼女の表情をちょっぴり気にしながら、トシは後ろ髪を引かれる思いで上階へ向かった。


 渡り廊下の壁に『廊下を走るな!』という注意書きが貼ってある。その低いところに、誰かが思いきり飛び蹴りをした靴底の黒い跡がついている。彼はそれを横目でチラリと見た。


 トシは駆け上がった。翼を広げた鳥のように。


 この程度の運動ならばサッカーの試合ではウォーミングアップ程度だ。呼吸も心拍数も変化はないし、汗ひとつかかない。何も変わらない。


 急げ、走れ。


 玄関口に敷き詰められたスノコが、トシが走るたびにバタバタ鳴った。伸び放題の髪はかなり乱れていた。今、すぐにでも切りたかった。また教頭先生に怒られるに違いない。さらに髪の毛以上に整えなければいけなかったのは服装だった。シャツが学ランからはみ出している。背中に至っては羽をうまくたためないでいるクワガタみたいに、だらしなかった。


 途中、下校途中の見知らぬ上級生数人とすれ違ったとき、彼らは一年生が血相を変えてどうしたのかと思ったかもしれない。あるいは事情を知っていて、でも黙認していたかもしれないし、いずれにせよ、自分が気にかけるよりも彼らのほうがトシを強く意識していただろう。


 四階の廊下へたどり着いたとき、上級生のひとりが呟くのだった。


「上で何かあったのか?」


 その上級生は、目線と顔を上へ向けた。その表情は暗黒の空を見上げるような不安と恐怖の色を漂わせている。


「上で?」


「一年生らしき二人が上った後、しばらくして女子の悲鳴と二人の叫び声が聞こえたぜ」。


 もういちど、その上級生は上を見た。トシもその視線を追いかけた。


 彼が眼で指し示したその方向は、薄暗いなかに階段が伸びていて、そのてっぺんはぶ厚い壁で行き止まりにはなっていたものの、頭を傾けて上体を屈めないとくぐれない小さな扉がある。そこが屋上への入り口だとひと目で判った。普段は誰も利用しないはずの開かずの扉がひっそりとこちらを見つめているかのように半分開いていた。


「いや、大丈夫です」咄嗟に出てきた言葉がそれだった。


「先生から言われて屋上の扉を閉めに来たんですよ。本当に大丈夫です」と、上級生に向かって言った。


「なら、いいんだけれど」


 大丈夫ではない。自分自身を安心させるように、ただ言い放っただけだった。何事もない。あってはならないのだ。祈るような気持ちで上級生には告げて、彼が首をかしげながらも階段を降りていく姿を見送った。反対にトシは屋上へとゆっくり上がり始める。


 三〇分経過。急がなきゃ。


 そこは、洞窟のようにひんやりしてとても静かだった。天国への階段を上り、地獄への入り口をくぐる。そこは、暗黒の世界。トシは前方を見つめながら息をのんだ。


 ここからは自分ひとりの力だけが頼りである。

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