■第16章『キャプテン』
夕暮れ迫るなか、開け放たれたいくつかの扉から金色の光は一定の角度で外へもれている。それは彼を招き入れるようにきらびやかに輝いて見えた。
体育館。
二人を結びつけるいちばん強い場所。誰が何と言おうと、ここしかなかった。
館内では、女子バドミントン部が練習をしている。二人1組になってシャトルを打ち合っていた。ときおり先輩らしき口調で、ステップの取り方やラケットの構えの位置やら、後輩たちへキツイ声が飛んでいる。先輩の声は、ラケットよりも鋭く館内の空気を切り裂いているかのようだった。女子と言えども、部活は大変そうだ。普段なら、軽快なステップとともに床を擦るシューズの音は、彼女たちが奏でる独特のシンフォニーのように聞こえるはずが、今の彼にはただ意味もなく苛付かせるだけの悲鳴のように聞こえた。
中に彼女の姿はない。それでも、確認せずにはいられなかった。
「カレン、いや、沼澤さんはいないか?」
息を荒らして、トシは近くにいた部員の背中越しに尋ねてみる。振り向く彼女。ぶっしつけな問いかけに相手は驚く。彼のこわばった表情を見て、さらに驚く。クラスメイトで、しかも隣の席のアイツだった。トシも驚いた。
「シマッタ」
「どうしたの、辻堂クン」
ちひろ、だ。シュートカットに切った髪型、それも五分刈りに近い。スポーツ刈りと言ってもいい。が、男子の五分刈りのようにソバ立ってはいない。短いにせよ、赤ちゃんのような柔らかい髪質で、芝生のようにフサフサ波打っている。顔立ちもベビーフェースで、頬から顎にかけて丸みがあり、ショートカットのせいで、顔から下がスッキリし過ぎていた。ぽっちゃりした肉付きのいい体型――――他人によっては巨乳だというが――――を際立たせている。必ずしも太っているわけではない。かと言って、中肉中背という表現もできない。お世辞にもカワイイとは言いがたい。むしろ、その逆でクラスメイトの男子からはイジメの対象物としての値打ちしかなく、女子から見ても悪い見本としての価値しかないように思える。大柄でぽっちゃり。不細工でネクラで近寄りがたい存在。クラス中の陪審員たちも彼女に有罪の判断を下している。
「いや、別に……」
嫌なやつに声をかけてしまって、苦味が口のなかに広がっていくようだった。彼女ならばカレンの居場所を知っているかもしれない。が、彼はどこから話を切り出せばいいか、慎重に考えた。
カレンとちひろの二人は、トシにとってまったく正反対の存在だ。「カレン」。彼は彼女のことを呼び捨てにしている。それは、本人の同意のもとであるとともに「付き合っている」という証明でもあった。一方、早坂ちひろのこともときどき「ちひろ」と呼び捨てにすることがある。本人の同意などない。おかまいなしだ。「カレン」の場合は「カ」にアクセントがある。そして、明るい口調で「カレン」と言う。でも「ちひろ」は三文字とも平らな発音になる。仮に彼女と彼を知らない人が見たら、まるで親密な間柄のように思えるかもしれない。でも、実際はまったく違うのだった。「嫌っている」という証し。当の本人は呼び捨てにされるのを別に気にはしていないようだ。
「カレンちゃんを捜しているのね」
先に切り出したのは、彼女のほうだ。
「うん」
トシは頷いてみせる。
「なぜ?」
「質問したいのはこっちのほうだよ。僕は急いでいる」
彼女は黙って、そして、考えている風だった。その思案顔は、まるでトシと関わることが良いのか悪いのか、どのくらいの距離感で接したら良いのか見当もつかないという感じで、日ごろ、教室内では隣同士のくせに、そのことは頭にないようだった。
「ちひろ、彼女の居場所を教えてくれないか。お願いだから」
「分からない。教えていいものなのか、どうか」
「知っているんだね」
「ええ、まぁ」
彼女はポツリと呟いた後に再び、重苦しい顔つきになってしまった。
ちひろは、カレンちゃんの居場所を教えてしまうと彼が何か騒動に巻き込まれてしまうのではないか、と案じていた。だから、別の違う話題に変えたかった。
「頼むよ」
「ねぇ、辻堂君って何か考え事をしているときとか、困っていたり迷っているときには、必ず指で下唇を触る癖があるのね」
「はぁ?」
突然、妙なことを言い始めて、彼の頭のなかは少し混乱してしまった。
確かに。無意識のうちに。
そんなことどうでもいいじゃないか。
意識して人差し指を口元から下ろすと、クスッと小さな笑みを浮かべた。
「辻堂君のしぐさって、かわいい」
コイツ、やっぱり気持ち悪いぜ。
ちょうどそこへ三年生の先輩らしき女子がやってきた。ちひろは、場所を譲るように後ずさりしながら、そうしてトシの視界から消えていった。
「どうしたの?」入れ替わるように目の前に入り込んできたのは、さきほど、キツイ口調で下級生を叱っていた先輩だ。声質ですぐに分かった。先輩はこちらを見て、まるで館内の照明のように明るい表情になった。
「あ、この間の彼氏ね。カレンちゃんといっしょに帰っていたわよね!」
先輩は赤色のポロシャツと白のスコート姿だ。ほかのみんなは上下とも純白なのに、私は他のみんなとは違う特別な存在なのよ、とでも主張しているかのようだった。
「キャプテンですか?」
「分かる?」
満足そうな表情をして見せた。
「はい。今、彼女を捜しているところなんです」
「カレンちゃん、部活休みよ。えーと、具合が悪いから今日は休みたい、と言ってさっき帰ったわ」
「そ、そうですか」
ひと足違いか。でも、帰宅したのならば少しは安心できる。何事もなければそれでいい。この後、どうしたものかと空中に浮かぶミクロの埃を見つめるようにしてその場に佇んでいたトシに、先輩は両手を彼の顔の近くで大きく振って合図を送る。
「どうしたの。そんな神妙な顔して?」
「実は……」そう言ってトシは口をつぐんだ。
どう言えばいいか迷った。ごまかしたくなかった。嘘もつきたくない。けれども、本当のことをすべて打ち明けるべきか、彼は迷った。カレンから手紙をもらい、その内容は切羽詰った思いが書かれており、自分としては彼女がどうかしてしまうのではないか、という一抹の不安がよぎった。そして、親友二人とともに自分は学校中を捜し回っているのだ。ということを伝えるべきかどうか。
そう考えているうちに、先輩のほうが切り出した。
「そう。言いたくないのね。分かったわ」
彼女は踵を返すように部活へ戻ろうとした。
「カレンが、彼女が危ないんです!」
自分の言葉が、背中ごしの先輩を突き刺さしたようだった。彼女はその場に立ち尽くし、頭をわずかに動かしたように見えた。振り返った彼女の顔は、深刻な表情に百八〇度変わっていた。
「どうして、危ないって分かるの」
「いや、そのー。何となくです」
手紙のこと、その内容については言わないほうがいいだろう。
「帰宅したのならば問題はないと思います」
自分が安心できたというのに、先輩のほうは視線が定まらずに少し困惑ぎみな表情をしていた。
「ゴメン。違うわ」
「えっ、何が違うのですか」
彼は、問い詰めた。先輩は、再び自分の前に立った。その肩越しの向こう側で、視界から消えたはずのちひろがこちらをずっと見つめている。彼は、自分の視線と気持ちを眼の前の先輩のほうへ焦点を合わせるように向けて集中させた。そして、しばらく口をつぐんで彼女が切り出してくるのを待った。
「あのね。彼女は帰ってなんかいないの。三年生の男子らとどこかへ行ったわ。ゴメンね。嘘ついて。だって、キミは新しい彼氏だから」
嘘。
上級生。
新しい彼氏。
彼女の言葉に、大きく動揺した。次の言葉が思い当たらないうちに、先輩はすまなそうな表情を作って、彼に説明し始めた。
「あのね。私は彼女のことをよく知っているのよ。あなたは知らないかもしれないけれど」
自分が知らないこと?
そんなことがあるのか。
さらに動揺した。カレンについて、トシはすべて知っていると思い込んでいた。いや、すべてではないにせよ、ほとんど、大体、ある程度は。うーん、少しは知っている。
喪失――――憎悪――――落胆。彼の頭のなかでそれが連呼されていた。
話を聞かされているうちに、トシは自分がとても惨めに、哀れに、小さな存在に思えてきた。
「私は、ちょっと聞いただけよ。だから、真相は知らないの。単なる噂かもしれないしね。あまり、他人には話せないことだけれど、ね」
彼女の弁明する様子に納得するも、自分の意識のなかからは、黒い塊がふつふつと培養され、火山のごとく、今にも噴出してきそうに思えた。
自分のことだって大して知らないくせに。カレンのことなど、これっぽちも理解していなかったかもしれない。彼女と付き合っているなどと、誇らしげに、自慢げに、カッコつけていただけなのだ。カレンくらいの女子ならば過去にいろいろあっただろう、くらいの想像はしてよかった。自分にとっては最初の彼女であっても、彼女にとってはそうではなかった。しかも、こんなときに知るなんて。それにしても自分をこれほど心配させておいて、上級生とどこかへ行ったというのが信じられない。あるいは、無理矢理に彼女を連れ去っていったのではないか。それもヤバイことに違いない。一体、何が真実なのか。
何も信じないぞ。
遠くのほうで、ちひろの物悲しげな表情がぼんやりと映って見えた。
誰も信じないぞ。
先輩の向こう側から、床を擦るシューズの音がしだいに大きく聞こえはじめ、やがて大きな波となってトシの心にうねるように押し寄せてきた。悲鳴だ。悲鳴が聞こえる。それが、自分の悲鳴なのか、カレンのものなのか区別がつかない。そして、体育館全体が、屋根ごと彼に向かって崩れ落ちてくるのではないかとさえ思えた。




