■第12章『帰り道にて』
あいにく、二人の家は正反対の方向だった。
校門を出ると、二台の車がようやくすれ違えるくらいの狭い一般道が左右に伸びている。左は井の頭線の久我山駅方面で、道沿いに約二〇分くらい歩くとトシの自宅がある井の頭団地が見えてくる。反対に右へ曲がると、やがて緑に覆われた玉川上水の小さな土手に沿った道へ出て、そこから井の頭公園へは徒歩で十五分くらい。カレンの家の方角だ。
「カバン、持つよ」と、トシ。彼女は、学生カバンとバドミントンのラケットと着替えのバックを持っていた。
「大丈夫よ」「三つも大変だろ」。トシはカレンのカバンへ手を差し伸べた。と、彼女の白い指に触れた。すると電気が走ったようにしびれた。顔を上げると眼が合った。お互い何か恥じらいを感じた。指に触れただけなのに。黙ったまま重さの半分を引き受け、右側の道へ視線を向けた。
「ありがとう。送ってくれる?」
「もちろんだよ」
気軽に応えたが、彼の胸中は何かしっくりこなかった。
学校以外の場所で二人がいっしょになるのはこれが最初だった。いっしょに帰る約束をして、校門の前でかばんを持って、彼女を送るために井の頭公園のほうへ。それは、付き合い始める儀式としてならば、トシはとても自然な気がしていた。しごく当たり前の普通の高校生のように。でも……。チラリと、視線は校庭脇に横たわる体育館の巨体へ。
どうして彼女は、あれほどまで急いでいたのだろうか。
しかも、突然に。すべては、あの体育館から始まった。
高校生活という大きな地図のなかに、まるで異質のものを張り合わせたように、そこだけまったく異なる景色が存在していた。尺度や色合い、すべてにおいて違って見えた。あの体育館での出来事は、彼にはどうしても違和感を覚えるのだ。二人のごく自然の成り行きとしてみた場合に、あそこだけ取って付け足したような感じだ。
あれから、夏休みをはさんで三ヵ月以上が経った。なのに彼にはまったくもっていまだに分からない。彼女のカバンと同様、何かずっしりとした重みが感じられた。しかし、それは教科書とかノートとか定番の小道具ではなく、トシにはまったく考え及ばない未知なる要素がからんでいるような気がしてならなかった。それが何なのか見当もつかない。考え過ぎかもしれないし、やっぱりそうでないかもしれない。しかし……。一方で、現実を受け入れている自分がいるのだ。
「行こうか」「うん」二人は並んで歩き始めた。彼女はバドミントンのラケットと着替えが入ったバッグを、彼のほうは二つのカバンを両手にそれぞれ持って。
夕暮れどき、しかも雨上がりは、とても気持ちが良かった。雑念を飲み込み、それから吐き出すかのように深呼吸をしてみる。あこがれの人と帰る。その夢心地を彼は噛みしめたかったのだ。
見上げる空は、オレンジから紫色へ変わっていく。
ところが、寄り添うように歩き始めたのはいいけれど、話がなかなか進まない。今、彼女は何を思い、何を考えているのだろう。さっきから黙ったまま。二人の足音だけが聞こえる。すると両手に持ったカバンがやけに重たく感じられた。少しバランスを崩して、体が彼女の肩に触れる。
「ご、ゴメン」
チラリと互いを見て微笑む。でも、それだけ。なかなか話が進まない。
(カッコつけろよ。気の利いた台詞でさ)
突然、もうひとりの自分が現れた。そして、彼の代わりに話しかけてくれた。
(空、きれいだね。僕は夕暮れが好きだな。疲れた体や心を癒してくれるから)
少し間を置いてから、彼女がポツリと呟いた。
「そうなんだ」
「う、うん」
何だかぎこちない。
するとまた、もうひとりの自分が語るのである。
(なんかさ、今日もがんばったと思える瞬間。ホッとできて気持ちが落ち着く。夕暮れはそんな雰囲気かな。そう思えるから、いちばん好きだな)
紫色の夕空は、やがてダークブルーの夜空へと変わろうとしていた。
「トシ君って意外にロマンチストなのね。私は、朝のほうがいいけれど」
やっと彼女が話しかけてくれた。
「うん。そういう人多いよね。でも、朝は疲れちゃうな。雨降らないかなって天気予報を気にしたり、鏡とにらめっこして、遅刻しないように腕時計を見て、早足になったりさ」
「ふーん、そんなものかな。夜更かしし過ぎよ、きっと」
「うん。夜中の三時くらいまでいつも起きているから。ひとりでいろいろ考えることがあってさ」
「いろいろ、ね。そうなんだ。何だかトシ君の一面が分かった気がするわ」
(いいぞ。その調子だ)
ちょっとカッコつけ過ぎたかな。緊張していたかもしれない。
「夏休みも……」。そう言いかけたそのとき、誰かが横を通り過ぎていく。バドミントン部の先輩たちだった。「お疲れさま、気をつけて帰るんだよ」と、手を振りながら過ぎていく。
(オー、すげぇ。バドミントン部の上級生ってカワイイ子が多いな)もうひとりの自分が、通り過ぎる先輩らに見とれていた。
「引っ込んでいろ」
トシは、彼に注意した。
「え、私のこと?」「あ、いや、違う」先輩たちのなかに、ちひろの姿を見かけたので、トシは「全然、かわいくねぇ」と息巻いてしまった。
彼女たちは三〇メートルほど先で立ち止まり、こちらを振り返った。そして、カレンに向かってまた大きく手を振った。
「さよーならー」
彼女は立ち止まり、背伸びをするようにして遠くの先輩たちに向かって持っていたラケットを上にかざして挨拶した。そのしぐさを見ながら、トシはユニフォーム姿を思い出してしまった。白のノースリーブにミニスカート。胸のふくらみ、引き締まった腰つき、太ももまで大胆に見えていた。
(さよーならー)と、もうひとりの自分。
「おい、おまえが手を振るんじゃないってば」
トシはカバンを道端に置き、両手で頭の上にいるもうひとりの自分を遮った。そうだ、エッチなことを考えているときの自分って、もうひとりの自分なのか、本当の僕なのか、一体どっちなんだろうか。彼はふと思った。
「トシ君、何をドタバタしてるの」
「あ、スマン。僕たちのこと、噂になっちゃうね」
もうひとりの自分が笑った。
「大丈夫よ。みんな優しい先輩たちだから」
「エッチなこと、想像したらダメだ」
ふと我に返った。いけない。また、自分の心の内を彼女に見透かされてしまう。話題を変えたかった。
さっき、夏休みのことを話そうとしていた。彼は、自分の気持ちを打ち明け、音沙汰のなかった彼女がどのように過ごしていたのか知りたかったのだ。が、必死に抑えた。二人のことに話しがいくとなると、結局は堂々巡りになって、なぜ付き合う気になったのかとか、体育館での出来事やら、上級生のことやら、触れてはいけないものに、例えば火鉢のなかに手を突っ込むとか、大きな蜂の巣をのぞき見るとか、危ないけれど何かやってみたい衝動にかられている自分の気持ちを抑えるのが、今は聡明のような気がした。
「それでさ、戸塚さんどうだった?」
カレンは、二人っきりで話した内容をすべて彼には話せまいと思った。嘘はつきたくなかったし、騙したくもなかった。ただオブラートに包み込むように秘密にしておきたい部分があった。
戸塚さんって、素直過ぎるくらい、正直過ぎるくらい、彼女自身の気持ちをカレンへ打ち明けた。既に彼と付き合っているという事実さえ眼中にないほど、そうした要因や邪念や憶測や嫉妬を取っ払い、真正面から心を開いている様子だった。でも、開き直っているという姿でもない。丸裸だった。きっと彼女は頭がいいのよ。カレンは、躊躇いもなく彼のことが好き、と告げる彼女が羨ましいとさえ思えた。そんな彼女とある約束を交わした。二人でがんばりましょう、といういわば協約だ。
「彼女、イギリスの語学留学めざしてるんだって。将来はロンドンに住んでみたいって」
「えっ、イギリスか!」
彼は立ち止まって驚いた。カレンも立ち止まり、彼へ向けて話を続けた。
「トシ君のハガキがラジオで読まれたじゃない。彼女、勉強しているときに偶然、聴いていたみたい。普段、あなたのことを遠くから想っていて、でもラジオを聴いて、告白しようって決めたそうよ。それでも、自分の夢と恋愛、どっちを取るかって迷ってね。悩んだみたいだけれど、あなたに告白したらきっと夢に向かってがんばれるって」
「そうか。彼女、頭いいから。夢が実現するといいね」
「そうね」
二人は、また歩き出した。 突然、カレンは持っていたラケットを振りかざしてトシの背中を強く叩いた。
「痛っ。何をするんだ」
「あなた、モテ過ぎよ」
彼女はいたずらっぽい目つきで、幼い少女がときおりするように舌を出し、さも嫌そうな顔つきを見せた。トシは、ただ肩をすくめただけだった。
再び、沈黙。
バドミントン部の先輩らが通り過ぎて、ぎこちなさが少しは取れたと思ったけれど、戸塚さんの話でまた会話が途切れてしまった。
でも、このままでいい。ずっといっしょに歩ければ、それでいい。彼は思った。階段の踊り場で会ったときのことを振り返った。あのとき引き返していたら、もしかしたら、戸塚さんといっしょに帰っていたかもしれない。
「ねぇ。人はみな、ハッピーエンドに向かってがんばっているのよ。私も幸福になりたい。ねぇ、トシ君にとってハッピーエンドって何なの?」
彼女の言葉で、彼はまた立ち止まって考えてしまった。ハッピーエンドか。幸せって何だろう。夢を実現させること。好きな人と結婚すること。金持ちになること。でも、願いがかなわなかったら……。すぐに答えなど出るはずはなかった。
カレンは、口元に手をやり思案顔のトシを見つめながら、答えを待った。
「僕はね、ラジオの深夜放送で好きな歌が流れて、それを聴きながら感動して泣いちゃったりしてね。そうして朝を迎えられたらいいな。僕だけのハッピーエンドだな」
カレンは黙って頷く。昼間はいつも同じ悩みでいっぱいだけれど、夜になれば、ひとりになれば自分に戻れる。少しだけ泣いて、大好きなチョコレートケーキと温かいコーヒーがあり、そして朝までぐっすり眠れたなら、それがいちばんいいかも、と彼女は思った。
「ねぇ、夢ってコーヒーみたい。私、そう思うの」
また、唐突な言葉に驚く。彼女が今、何を考えているのか分からない。言葉の意味を探る前に、彼女が微笑んだ。だから、自分も小さく笑った。
「僕もコーヒー好きだよ」
「ねぇ、教えてほしいの。私と戸塚さん、どっちが好き」
この問いのほうが難しかった。
カレンは、二、三歩スキップして、前へ出て彼のほうを振り返った。まるでバレエを踊っているように楽しそうだった。明らかに、いい答えを期待していた。
「ウン、僕が好きなのは、えーと、大田黒久美だな」
「『飛び出せ、青春』でしょ。冗談はやめてよ。こっちはマジなんだから」
彼は「好き」という言葉を使うのをためらった。「好き」と言葉を口に出すと、何か心の中から気持ちが逃げて行ってしまうように思えた。相手に伝えるよりも、自分の内に大切にしまって置きたかった。それにこの間、体育館で言ったばかりじゃないか。少しの間、黙っていた。
「あ、そう。私のこと好きじゃないんだ」
「そういう分けじゃないよ」
上手く説明できなかった。答えを探すのに沈黙が続いた。二人は並んでゆっくり歩いていく。いつまでも静かに歩いていたかった。本当はそれだけで良かったのだが。
「野球部の人と付き合っちゃおうかな」
いきなりだった。彼女がドンドン遠ざかっていくようだった。並んで歩いているというのに、手を差し出せば届く距離にいるのに、お互いの心は、はるか遠くへ離れていく。楽しいはずの帰り道が、一転して苦痛に思えてきた。もしかすると、お互い反対の方向へ進んでいたのかもしれない。もうすぐ玉川上水の土手に差しかかる道に出るところで、彼はそう考えたのだった。
黄昏が迫っている。
行く道は必ずしも平坦ではないだろうと思う。上ったり下がったり、曲がったり。ときにはつまづく事だってあるかもしれない。自分の進むべき道は、一体どっちなんだ。
(どうする?)もうひとりの自分も迷っていた。
戸塚さんが自分の夢に向かってがんばっている。なのに、自分は恋愛に没頭して夢を追いかけることを忘れてしまった。カレンのことは本当に好きだ。でも、それだけに夢中になってしまっていいのだろうか。中途半端はいけない。夢か恋愛か、どちらかに本気にならないと。
しばらく歩いてから、決心した。
「ここで。カバン返すよ」
「えっ」
驚いた様子の彼女にカバンを渡して、今来た道を引き返そうとした。
「ゴメン。野球部の人なんか関係ないわ」
トシは、彼女を背にして黙って反対へ歩き始めた。怒っているわけではなかった。何か哀しかった。戸塚さんのこと、野球部のこと、そして、大切な夢のこと。いろいろある。自分は一体、このまま彼女と付き合っていいのだろうか。そう考えると何だかとても辛かった。
カレンはどういう気持ちでいただろうか。
「やっぱり」
「えっ。やっぱりって何が」
すれ違い。あるいは誤解。もはや、その時が近づいたのかもしれない。
「トシ君……」
彼女の声が、フェードアウトして小さくなった。
トシの姿は、何も言わずにしだいに遠くなった。
カレンのほうからもう一言、何かあったなら、気持ちの修復が出来たかもしれない。帰り道が別れ道にはならなかっただろう。しかし、五〇メートルほど離れてからトシがチラっと後ろを振り返ったときには、辺りは暗く、すでに彼女の姿はなかった。




