■プロローグ
時は、ただ過ぎ行くのではなく繰り返されている。打ち寄せる波のように、車輪のごとく、何かものすごく大きくてダイナミックな動きで回転してる。歴史も、地球も、お金も、社会も、季節も、この世のすべてがぐるぐる回っている。一見、その回転は支配的で秩序がありそうだけれど、誰もコントロールできない圧倒的な力。その力の源を探ってみようとしても、数値を横に並べただけのデジタル表示の計算式では到底計りしえない。そうして世界が、時代が回るなか、生き物もまた、生まれ、育ち、死んでいく。人間だって回転している。そして、また春に会おう。
十二月のある日、電車から降りたちひろは、肩をすぼめ、足取りは重く、気の毒に思えるほど冴えない表情をしていた。
もうすぐクリスマスなのに一体、どうしたのだろう。
季節は移り変わり、冬の到来と年の瀬の慌しさのなかで、彼女は過ぎ行く時の物寂しげな雰囲気を何となく感じ取っていたのか、パートの仕事と家庭のやりくりで目が回るほど疲労困憊していたのか、身体は虚脱感、脱力感に陥っているようで、でも、彼女の心を蝕んでいたのはどうやらそれだけではなさそうだった。
「黄色の線の内側を……」というアナウンスが響き、電光掲示板は次の列車の到着時刻を知らせているが、ホームの人だかりはなかなか前へ進まない。改札口へ向かう長い行列の最後尾についた彼女は一度、顔を上げて周囲を見渡す。コロナの影響でマスク姿が日常化し、『テロ対策実施中』などと注意を促す掲示板のテロップが流れるなか、前の人も、その前の人も、もっと先の人もみな、凍りついたように下を向いている。まるで亡霊のように。
ちひろは、息が詰まる思いで改札口を通り抜け、駅前広場へ出るやいなやマスクを取り「酸素、酸素」と言った。そして、立ち止まった。
見上げると、遥か西の空はオレンジ色に発色し、放射状に広がる千切れ雲が陽光で紫色に染まり、北北東へゆっくりと流れている。その美しい光景に瞳を輝かせ、深呼吸した。
空気は冷たかったが、少し元気を取り戻せた。
空は、子供のころから変わっていないに違いないと思った。
人は多いが、空間はある。ここ東京の郊外、八王子・南大沢には二度と戻らぬ風が吹き、緑よりもっと深い大地があり、空には境界線はなく、野鳥は翼を広げ自由な歌をうたっている。それが唯一の空であった。車は多いが、自然はある。それが唯一の救いだった。
人々は「環境、環境」と言った。
青色をさらに爽やかにしたターコイズ色の天空をはさんで東のほうからはダークブルーの世界が近づいている。日本が暮れるとき、彼方のどこかで夜明けを迎える。そんな遥かなる光景を思い浮かべることができたなら、どんなに素晴らしいだろう。自然は、世界は、そして地球は壮大で美しい。ちひろは地上に初めて降り立った異星人のように辺りを見渡す。彼女は詩人でも宇宙人でもなく、平凡な主婦だったが「仕事と家事の二つを切り盛りする私のほうがずっと偉大よ。なーんてね」と、主婦の見本のようにスーパーで買い物を済ませ、若者らで賑うアウトレットモールを横目で見ながら、メロディになっていない鼻歌をうたい、勾配のある長い陸橋を渡って家路を急いだ。
途中、公園で五、六人の男女高校生が音楽に合わせ、楽しそうに踊っていた。
軽快なステップとジャンプの連続、両手の動きが周囲の空気をかき回す。全員が一寸の狂いもなく、全身を使って同じ動作を繰り返す。同期と反復。それはワイルドかつ繊細であり、ユニゾンのコーラスのように美しかった。後になって、ヒップホップとか呼ばれているダンスだと、ちひろは知ったのである。
彼女は「外向、外向」と言った。
さて、駅から二十分ほど歩くと、十二階建てのマンションが見えてくる。建物は森と公園に囲まれ、彼女の住む八階のバルコニーからは、晴れた日、西の方角に富士山の雄大な姿が(といっても頂上付近の一部分だけだが)見えるし、夜になれば満天の星空だ。住めば都、と人はいう。悪くない。
ときおり低空飛行していくジェット機の爆音が耳を劈く。「あら、やだ」彼女は空を仰ぎ、あれさえなければ、と思う。そう遠くない森の中から野生の雉が雄たけびを上げた。それは鶏の鳴き声よりも太く大きく、でも哀しそうだった。
あれは三ヵ月ほど前。
ちひろはマンションのエントランスホールで立ち話をしている近隣さんらに軽く会釈して足早にメールボックスへ向かった。ダイヤル式の暗証番号をまわすと中から主人宛の封筒や葉書がどっさり。雪崩れのように出てきた。慌てた。その中に一通だけ自分宛の手紙。結婚前の旧姓で届けられていた。「あら、やだ」ちひろはエレベータのなかで独り言を呟きながらその場で封を切ると、中から白い花粉のような小さな光りの粒が眼の前で弾け、飛び出し、宙に舞った。手紙は彼女をそういう幻覚に陥らせるのに十分な効果があった。
――――『同窓会のお知らせ』
「高校のね。でも、誰かしら?」エレベータを降り八階の開放廊下へ出て玄関先までくると、今度はメールが飛び込んできた。焦った。ポケットからスマホを出すとき、なかなか取れずにまごついたが、後は指先で器用にチェックできた。(遅くなるね)。娘からだ。「あら、やだ」ちひろは小さく微笑む。高校生になり部活(女子サッカー)に熱中してる。朝練のため六時半に登校し、夜は八時に帰宅する毎日。一年生にして都のベストイレブンに選ばれ、数日前、合宿を兼ねたアメリカ遠征から帰国したばかりだ。
ショートの髪を金髪に染めたのは、目立ちたがり屋な、あの子らしい。「昔、教室の片隅で小説ばかり読んでいた、物静かな自分とは正反対。あの子、ちょっと変わってる、なーんてね」。
今一度、自分宛の手紙を見る。「一体、誰から?」差出人の名前も住所すら見当たらない。消印もかすれて識別できない。いぶかしげに見てからスマホといっしょにポケットに忍ばせた。
「あのころは……」
彼女は昔を振り返る。幼少期から思春期を経て、中高年になった今、それは彼女自身の記憶の中枢に深く染みこみ、女性にもかかわらず喉仏のように身体の一部になり、当然のごとく存在する。しかし、日ごろ気にしたり、意識することは滅多にない。――――学生時代に丸暗記した古い歴史の年号はいつまでも覚えていたりするが、――――仮に歴史の意義とか重要性を見出すならば、それとは少し種類の違う、個人的な自分史。いわゆる古きよき時代。それが記憶の奥底、片隅にあって、今、長い眠りから目覚めようとしている。それを思い出しただけでも賞ものだが、手の中に収まるくらいのちっぽけなものかもしれないし、もしかすると背負いきれない何万トンもの重量物、危険物か分からない。
頭のなかで高校時代の思い出が、まるで海のように広がり、ひとつひとつの出来事が波のように打ち寄せていた。「クラスのみんな、どうしてるかしら」「学校の花壇はまだあるかな」「行ってみたいな」そうして手紙に関する疑問は、すぐに消え去ってしまった。いちど思い始めると、もう止まらない。心のカーテンを開けると、そこには……。
初恋の人。
彼に会いたい。もういちど。できることなら……。
過去のいちばん楽しかった時期。「トシ君」。ちょっぴり恥じらいながら、初恋の人の名を声にしてみる。彼女は、ひとり窓から外を眺め、彼の告白――――歴史上の名言と同じくらい重要で、流行語などよりも大切な言葉、かもしれない――――を思い出し、胸を熱くしながら、おぼつかない手つきで夕食の支度をしていた。あの頃は、いつも彼が中心だった。苦しく辛いことが多かったけれど、自分の思い出は彼自身の物語でもあった。
主人や娘が帰宅するまで、まだ時間がある。ちひろは書斎に入った。そこは壁を埋め尽くすほどのスチール製の大きな書棚があり、そのほとんどが大学教授である主人の学術的なタイトルの書物で埋め尽くされている。新刊も多い(出版社の知人から購入することが多い)が、半分ほどは七〇年代以前の古書のようだ。「どんな本を読んでいるかで、その人の人格レベルが分かる」という主人のお気に入りの部屋。彼女は机上に自分のノートパソコンをセットし、最初は頬杖をつき何やら空想に浸っている様子だったが、思い立ってネットで母校のサイトを検索し始めた。すると簡単に見つけることができ、大いに喜んだ。が、記憶とは違う学校の姿に少なからず驚かされた。年月が経ち、校舎も、体育館も、教室も新しくなっている。
時代は変わった。
失くしたものを探すようにパソコンの画面に見入る。それから視線を宙へさまよわせ、何かを思い出したようだ。「そうだわ。あの頃読んだ小説が……」棚の上段奥の列で、少しだけ埃をかぶりページが黄色くなった文庫本などが数冊、肩身を狭くするようにひっそりと並んでいる。ほとんど、いや、まったく読まれない書物は自然と手の届かない上段にあった。
ちひろはそれらを取るために、背伸びをして手を伸ばし主人の本を数冊抜き取った。と、次の瞬間、彼女はア然とした。淫らなポーズでソファに横たわる若い女性が表紙のアダルト雑誌を発見。表紙の子は色白で両手は頭の上にあり、上半身は何も身に着けていない。が、両乳首部分に後から編集されたと思われる黒色の星印が付けられていて、下半身は赤色のミニスカート姿。白いパンティーが少しだけ見えている。「あら、やだ」ちひろは驚きと同時にめまいがして、とてつもない不快感に襲われた(主人が巨乳好きだとは知らなかった)。雑誌だけでなく、アダルト、出会い系サイトや、まさか若い子と浮気とか……。しかしすぐに自分の気持ちを抑え、少しだけ寛容な笑みを浮かべる。それがそのときの最善策に思われた。怒りとともに雑誌を破り捨てれば後になって主人に気付かれるし、「所詮男はみな同じ」などと考えると女性として虚しさがこみ上げてくる。――――セックスレス。娘が年頃になってからというもの(それが主たる原因ではなかったにせよ)二人の間にそれはなくなった。彼女は「嫌い、嫌い」と言った。
今、相手ではなく自分の所為だと判って少なからずショックを覚える。
主人の秘密の本を無視すべく、深呼吸して気分を整え、棚の奥から彼女自身の本を引っ張り出してきた。「懐かしい!」ちひろが高校時代に愛読したものだ。それらを手にすると、自然に指が動く。ページをめくると紙ずれの柔らかな音がした。本は黄ばんで古臭くなってしまったが、手元にとって数ページ読みふけるとストーリーは色あせず、今、読んでもおもしろいと思えた。というのは、若い頃読んだときの印象とは少し異なっていたから。
「私が大人になったということ」
と同時に、あの頃の自分が愛おしくも思えた。
ふと思い立ち、自分が経験したエピソードを何か形にしてみようと、ちひろは彼にまつわる出来事をパソコンへ記録することにした。最初どういう形で残そうかと迷い、あれこれ考えた。研究リポートではおかしい。日記にするにはあまりに時が経ち過ぎている。「そうよ、小説よ。でも、上手く書けるかな」自信はなかったが、初恋の人がすぐ横にいるような気がして胸を熱くした。一方で、昔を振り返るのは歳をとり感傷的になっているだけ、と恥ずかしくも思えた。「主人や娘には内緒ね」。そうこうするうちに時は逆回転し、キーボードを打つ彼女のやつれた指先は、いつしか若い頃のみずみずしい白い指へと変わっていった。
彼自身の言動やアメリカへ転校した友だち、あるいはクラスメイトの噂が次々に頭をよぎる。「そうそう。学校の噂話よ。あれは一体何だったのかしら」それから父の話など、昔のことをいろいろと思い出した。
今の私は何かが足りないと思った。
いいえ、足りないのではなく、あまりに多くなり過ぎた(という表現のほうが正しい)。それらは重要であり捨てることはできないものもあれば、余計なものもあるけれど、多くを抱え込みすぎて自分にとって本当に大切な何かが欠けている(あるいは失ってしまった)ような気がするのだった。
それで彼女は、小説を書き始めた。
再生のドラマ。初恋の人を主人公にして、登場人物はすべて仮名。あの頃の出来事を振り返り、つなぎ合わせ、イマジネーションを働かせ、ひとつの物語にしていく作業は結構おもしろく、彼女を夢中にさせた。パートの仕事は小遣いや家計の足しにはなったが、自分の欲求を満たしてはくれない。
何か足りない。
何かをしたい。
らしい何かを。
何かわくわくすること。
一通の手紙がきっかけで、それをついに見つけたのだ。