宗教講義
イシュカの正式な“訓練”は、基たちが夏休みに入る頃に始まった。その少し前から、基もクラレンスやイレインから“神修行”の講義を受けている。
「はじめまして、緒方樹です」
手を差し出してにっこりと笑う、株式会社あやかしの担当社員という者が女性でよかったと、基は少し安心した。
握手を交わして「よろしくおねがいします」と会釈するイシュカに、樹も「こちらこそ」と会釈を返す。
「魔法、使えるの? 本当に?」
「ええ。ここだけの話、私も異世界帰りなんです。あちらに行ってた時に魔法を習いまして。
とはいえ、魔法使いとしては中級にもなれない程度なんですけどね」
くすりと笑って舌を出す樹に、イシュカは「中級?」と首を傾げる。
例えば、長距離転移のような難しい魔術を使いこなせる魔術師が、自分は“高位”だと名乗ることはある。だが“中級”という言い方は初めて聞いた。
「魔力の扱いはきちんとできますから、大丈夫ですよ。それを魔法に変えるのは己の想像力次第だと、私の師匠は言ってました。これでも、十年以上は魔法使い兼剣士として働いたこともあるんです、任せてください」
イシュカは頷いて、もう一度「よろしく」と言った。
イシュカよりも一足早く、基もクラレンスから講義を受けていた。
「なあ、くらら。前もそんなこと言ってたけど、“鬼の国”ってたくさんあるんだよな?」
基の疑問に、クラレンスはしばし考える。
「――アーレスも地球もひとつだ。だが、こういう世界が他にもあるのかという意味なら、無数にある」
「無数?」
「ああ。地球の宇宙観で言えば……惑星というのは、この宇宙には無数に存在するのだろう? 我々の宇宙観による観測では、我々のような人間もしくは亜人が住めるかどうかを別にすれば、次元界は無数に存在する。もちろん、それらすべてを実際に確認した者はいないが、魔術師協会や知識神の教会には、さまざまな次元界についての報告もある」
「……へえ」
無数に、と繰り返して、基も考え込んでしまう。
平行宇宙とか、異次元とか、そういうものなのだろうか。まるでSFだ。
「そもそも、大いなる母たる女神のおわす世界も、“十天国界”という次元界だぞ?」
「へ? 天国? 天国って本当にあるの?」
「何を当たり前のことを。お前たちだって、“極楽”などと呼び称しているくせに」
クラレンスが呆れた顔になる。
そもそも講義の最初にその話もしたはずなのに、聞いていなかったのか。
「いや、それ、御伽噺とかだし……じゃ、まさか地獄もある? 本当に?」
「もちろんだ。アーレスでは“九層地獄界”と呼ばれている、邪悪なる悪魔たちの棲む世界だ。
だいたい、わたしやイシュカの存在自体が天国や地獄の実在を示しているし、楠姫や鳴滝様のような神もすぐそばにいるではないか。何を疑う」
「だって、神さまったって、天国じゃなくてここにいるし」
「ここ、というか、この世界が特殊なのだよ」
呆れ顔のまま、クラレンスは厳かに頷いてみせた。
仲間の魔術師によれば、この世界には魔法も次元渡りの技術もない。おまけに魔法嵐のような魔法災害もないくせに、“異世界帰り”が多過ぎる。
昔から“神隠し”というものが一定数起きている事実からすれば、恐ろしいほどに次元の壁が薄く破れやすい世界なのだろうとは、その魔術師の弁だ。
おまけに、ひとつだけでなく、実にさまざまな世界と繋がりやすくなっている。これで魔法が発展していたら、さまざまな次元に接続する中継次元としての役割も果たせたのではないか。
魔術師は相当に興味深い世界だなどと目を輝かせていたが、きっと彼の研究対象にでもするつもりだろう。
新たな次元界の発見は、その情報だけでひと財産になるものなのだ。
「基、そろそろ我が教会の教えについての講義をしたいのだが」
「それなんだけどさ」
いい加減雑談はやめて経典を、というクラレンスに、基は視線をイシュカに向けたまま続ける。
「信仰は強制されるものじゃないって言ってただろ。
俺、お前の神様の信者になったつもりないし、そもそも宗教とかあんま興味ないし、それなのに勉強しなきゃいけないわけ?」
クラレンスの目が細められる。
正直、宗教が絡んだ時のクラレンスは少し怖いが、基だってこのままなし崩しに新興宗教の教祖にでもされたりするのは困るのだ。
基は、そんな職業なのかもわからない地位より、もっと確固たる定職に就かなきゃいけないのだ。
きちんと稼いで独り立ち……できれば高給取りに、が基の現在の目標だ。
「お前の上位神は、大いなる母であり大地と豊穣を司る女神だ。お前がどう足掻こうとその事実は変わらん。
ゆえに、わたしにはお前を教育する義務がある」
またそれだ、と基は内心で溜息を吐く。
仲間が来て女神の力とやらを間近に見て以来、クラレンスは思い出したかのように宗教の人になってしまった。基にも、義務だのなんだのとうるさく言って、こういう宗教講義を押し付けるくらいには。
「義務教育は中学生までだっての。だいたい、女神本人が俺に向かって直接従えって言ってるわけじゃないのに」
「何を言うか。下位神となるお前の振る舞いが女神の評価に直結するのだぞ」
――今日はクラレンスだけだからまだマシだが、ここにイレインが加わると収拾がつかないほどになる。
こっちは、普段宗教なんて意識したことのない日本人なのだ。勘弁しろ。
「そういえば、イレインさんは今日はいないんだな」
「ああ、彼女は和泉と買い物に出ているはずだ。昼には戻ると言っていた」
「ふうん」
最初に話した時、イレインは人間で、見た目通りの歳なのだと言っていた。
彫りの深い顔立ちと白い肌、黒褐色の髪に淡い茶色の瞳は、こちらで言うところの、いわゆる白人種に当たるだろう。
美人でいいなあという和泉に、けれど、イレインは複雑な笑みを返す。
「ふふ……クラレンスを探してる間に婚期なんて吹っ飛びましたからね。別に恨んではいませんが、もうすぐ三十なんですよ、私。三十とか、地方にもよりますけど、下手したら娘が結婚して孫ができたりなんてことすら考える歳なのに、私、もう後添いも断られるような年齢のまま独身なんですよ。モテたことなんてありません」
「え……」
「大いなる母は結婚と子宝を司るはずなのに、その司祭である私が独り身とか、どんな冗談なんでしょうね」
こちらでは通訳のための魔法の道具を使っているというイレインは、立て板に水のようにひと息に言ってのけた。これは、相当に溜め込んでいたのだろうか。
ちらりと見やれば、クラレンスは思い切り目を逸らしている。
剣道部男子からはタラシと呼ばれるクラレンスだ。たぶん、迂闊なことを言って責任取りたくないんだろう。
基と祥真は、あーあという表情で顔を見合わせる。
「イレインさん大丈夫! 婚活はまだ間に合うから!」
「こんかつ、ですか?」
「こっちに住むんですよね。なら、イレインさんくらいの歳はまだまだ余裕です! 婚活すればいいんですよ!」
「……本当に? こっちって、そんなに遅いの? だって、アーレスで人間女三十歳なんて、もう正直ババァ扱いで見向きもされないのよ」
「ババァって……いやそりゃないんじゃ……」
呆れた顔で祥真が呟く。
基は思わずもう一度クラレンスを見るが、肯定も否定もしていなかった。していない時点で、どう考えているかはダダ漏れなんじゃないのか。
「イレインさん、婚活しましょうよ」
「うちの姉ちゃん結構合コンやってるみたいだし、今度聞いておきましょうか」
「ごうこん?」
ぽかんと首を傾げるイレインに、和泉は力強く頷く。
「イレインさん美人なんだし、化粧と服でばっちり決めていい人見つけましょう! だから、時間があるときにでも、買い物行きましょうね!」
「はあ……」
じゃあ、あの時の買い物の約束を、今日果たしているってことか。
ふうん、と考えながら、基はじっとりとクラレンスを見た。
「なんだ?」
「いや……ふと思ったんだけど、俺、もしかしてくららより立場上? くららの言葉通りなら、俺って神なんだよな」
「何を言うか。そもそも、己の信者のひとりもいないくせに堂々と神を名乗ろうなどとは、非常に烏滸がましいことだぞ」
「でも、くららのやってることって、本社役員捕まえて支店社員が上から指導してやろう、ってことじゃないのかよ。そんなんでいいのか?」
クラレンスは眉間に皺を寄せて、これ見よがしに吐息をこぼす。
「――それを言うなら、お前は本社役員などではなく、単なるコネ入社の新入社員に過ぎんぞ。しかも、お前をコネ入社させた女神はとても公正でおられる。むやみに依怙贔屓などはしない」
難なく例えについてくるクラレンスは、相当こちらに馴染んでいるに違いない。なら、日本人の宗教感覚にも馴染んでくれたっていいのではないか。
「基」
「なんだよ」
「話を逸らそうとしても無駄だ。始めるぞ」
ちぇ、と軽く舌打ちをして、基はノートを開く。
ぶつくさ文句を言いつつも、こうして逃げることはしないのだから、基は生来真面目なタチなのだろう。
クラレンスは日本語に翻訳した女神教会の経典を渡しながら、この生意気さがもう少し抜ければよい神の使徒となるだろうに、などと考えた。





