ep.3 一番星の薬草
満天の星空が見えるところ、今一番行きたい場所です。
夕暮れの町は、朝とは違う匂いに満ちていた。
家々の煙突から夕食の煙が昇り、市場では店じまいを始めた商人たちが声を掛け合っている。
石畳を進むにつれ、家の数が減っていく。
舗装された道はやがて土の道へ変わり、その先に深い森が広がっていた。
西の空は茜色に染まり、頭上には薄い群青が滲み始めている。
森へ足を踏み入れると、町の音が遠ざかった。
葉の擦れる音。枝を渡る風。どこかで鳴く小鳥の声。足元の土は柔らかく、夕方の冷たい湿り気を含んでいる。
私は慣れた道を進みながら、時折しゃがみ込んだ。
「月眠草は、まだ早いか」
丸みのある葉を指先で確かめる。
その隣には、小さな白い花を咲かせた薬草があった。
「白鈴花。こっちは使える」
必要な分だけ根元から切り、採取袋へ入れる。
前に生きていた世界のゲームなら、見つけた素材は片っ端から拾っていたかもしれない。
けれど現実では、籠へ入れられる量にも、森が与えてくれる恵みにも限りがある。
「ゲームみたいに、持ち物が無限だったら楽なんだけどな」
森では誰かに聞かれる心配もない。一人で呟き、少し笑ってしまった。
私には、日本という世界で高校生として暮らしていた記憶がある。
これがいわゆる前世ってやつだろうか。
私は物語の中を冒険するRPGが好きだった。
剣を持った勇者が魔物を倒したり、森で薬草を集めたりする。傷ついた仲間へ回復薬を使えば、失った力はたちまち元に戻った。
この世界で薬術師を目指すと決めた時も、最初は少しだけゲームのようだと思った。
もちろん、現実はそんなに簡単ではなかった。
同じ症状でも、誰にでも同じ薬が効くわけではない。薬草の量を間違えれば毒になり、判断を誤れば患者の命に関わる。便利な表示もなければ、失敗してやり直すこともできない。
それを身をもって知っていたからか、二つの世界の記憶があることへの戸惑いは、思っていたよりも早く消えた。
今の私は、リーンという名の薬術師だ。
日本で暮らしていた少女の記憶も、今では長い夢の続きを思い出しているように感じることがある。
それよりも、ずっと気になっていることがあった。
この世界で生まれてから、師匠であるローウェンと出会うまでの記憶が、私にはない。
ローウェンに拾われたのも、こんな森の中だったという。
なぜ幼い私が一人で森にいたのか。
なぜローウェンも、同じ場所にいたのか。
『行くところがないなら・・・・俺と来るか?』
差し出された手を見上げた時、その瞳には優しさと、どこか深い寂しさが宿っていた気がする。
気づけば私は、その手を取っていた。
それからずっと、ローウェンは私の師匠であり、家族だった。
ただ一度だけ、数年前になぜあそこにいたのかを尋ねたことがある。
『いずれ、時が来たら話す』
あの日の師匠は、いつものように不機嫌そうな顔をしていた。けれど、その声はひどく穏やかだった。
「……考えても、今は答えなんて出ないか」
私は小さく息を吐き、目の前の薬草へ視線を戻した。
日が傾くにつれて、木々の影は細長く伸びていった。茜色だった空が紫へ変わり、やがて深い群青に包まれていく。
星露草の群生地へ着いた頃には、森の輪郭も暗闇へ溶け始めていた。
昼間なら、ここに星露草があるとは分からない。
足元に広がっているのは、どこにでもありそうな細長い葉ばかりだ。
私は籠を下ろし、空を見上げた。
梢の向こうに残る夕暮れの光。
その中で、ひときわ白い点が静かに瞬いた。
一番星。
その瞬間だった。
足元で、淡い光が一つ灯った。
続いて、もう一つ。
ぽつり、ぽつりと、青白い光が草むらへ広がっていく。
葉脈に宿った光は、夜空に浮かぶ星へ応えるように、静かに揺らめいていた。
まるで空の星が、森へ降りてきたようだった。
「……きれい」
何度見ても、この瞬間だけは息を呑む。
星露草。
一番星が現れる短い時間だけ、世界樹の魔力へ反応して輝く薬草。
解熱や魔力疲労の緩和に使われ、リーフェ薬店でも欠かすことができない。
「今年もちゃんと光ってくれてよかった」
私はナイフを取り出し、葉を傷つけないよう根元近くから切り取っていく。
一つの場所からすべて採ってはいけない。
来年も芽吹くよう、必ず半分以上を残す。
「また来年もお願いね」
誰に聞かせるでもなく呟きながら、採取した星露草を布へ包んで籠に収めた。必要な量は十分に集まった。
空を見上げると、一番星の近くに、もう一つ小さな光が現れようとしていた。
「まずい。師匠に怒られる」
私は立ち上がり、籠を背負う。
その時、群生地の端にある一株が目に入った。
他の星露草が淡い光を宿す中、それだけが暗い。
「……あれ?」
光る時間が遅れているのだろうか。
近づいてしゃがみ込んでみた。
葉へ触れると、指先に乾いた感触が返ってきた。
葉の先が黒く変色し、茎も力なく地面へ倒れている。
「枯れてる……?」
星露草が一株だけ枯れること自体は、あり得ない話ではない。
虫に食われることもあれば、土の状態が悪いこともある。
けれど、葉の黒ずみ方が妙だった。
表面だけではなく、葉脈に沿って内側から色が失われているように見える。
私は土へ触れた。
湿り気はある。
周囲の株は問題なく光っている。
「病気かな?」
明日、師匠へ見せるため、枯れた葉を少しだけ持ち帰ろう。
そう考えてナイフへ手を伸ばした、その時だった。
――カンッ!
森の奥で、硬い音が響いた。
金属と金属がぶつかり合うような、鋭い音。
私は動きを止めた。
気づけば、鳥の声が消えている。
風も止まっていた。
急に森全体が息を潜めたように静まり返る。
――カンッ!
先ほどよりも遠く、小さな音がもう一度響いた。
「……何だろう?」
私は暗い木々の向こうを見つめた。
その時には二番星が、夜空に浮かんでいた。




