第一話 君が聖女を虐めているという話は、もう聞き流せない
「君が聖女に嫌がらせをしているという話は、もう聞き流せない」
重厚な執務室に響いた婚約者の声に、公爵令嬢エレノア・フォン・ヴァレンティアは小さく息を吐いた。
やはり、この日が来たか。
窓の外では春の陽光が庭園を照らしている。しかし、この部屋の空気だけは真冬のように冷え切っていた。
目の前に立つのは、この国の第一王子であり、エレノアの婚約者でもあるアレクシス・レイフォード王太子。
彼は苦しげな表情を浮かべていた。
まるで、自分が正義を執行することに心を痛めているかのように。
「……それは、どなたから聞いた話でしょうか」
エレノアは努めて穏やかに問い返した。
「誰から聞いたかは問題ではない」
「私にとっては重要ですわ」
「重要ではない!」
アレクシスは珍しく声を荒げた。
「複数の者が証言している。君が聖女セシリアに嫌がらせをしている、と」
やはり。
エレノアは心の中でため息をついた。
聖女セシリア。
一年前に神殿から現れた、光魔法を操る少女。
慈愛に満ちた微笑み。
誰にでも分け隔てなく接する優しさ。
その姿に、国中の人々が魅了された。
そして――アレクシスも。
「私は、セシリア様に嫌がらせなどしておりません」
「では、彼女が嘘をついていると?」
「そうは申しません。ただ……」
エレノアは言葉を選んだ。
本当は言いたい。
あの女は嘘つきだ、と。
だが、そんなことを言えば、目の前の男はさらに激昂するだろう。
「彼女は、少々……誤解を招く行動をなさることがあります」
「誤解?」
アレクシスが眉をひそめた。
「君は、今さら彼女を悪者にするつもりか?」
「私は事実を――」
「事実?」
彼は机を叩いた。
大きな音が部屋に響く。
「庭園で突き飛ばした件はどう説明する!」
「私は触れてすら――」
「茶会で紅茶をかけた件は!」
「彼女が自ら――」
「階段から突き落とそうとした件は!」
「その場にすらいませんでした」
静寂。
アレクシスは苦々しげに顔を歪めた。
「……君は、何一つ認めないのだな」
「認める事実がありませんから」
「セシリアは泣いていた」
その一言で、エレノアはすべてを悟った。
ああ。
結局、この人は最初から私の言葉を信じるつもりなどなかったのだ。
幼い頃から婚約者として共に過ごしてきた。
王妃教育も受けた。
彼の好みも、苦手なものも、好きな紅茶の銘柄も知っている。
それでも。
たった一人の聖女の涙に、すべて負けた。
「……殿下は」
エレノアは静かに口を開いた。
「私が、そのような人間だと思っていらっしゃるのですか」
アレクシスは答えなかった。
その沈黙こそが答えだった。
胸の奥が、ひどく冷えた。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、諦めだった。
「分かりました」
エレノアは小さく頷いた。
「そこまで仰るのでしたら、殿下に一つだけお願いがあります」
「……何だ」
「私になってみてくださいませ」
「……は?」
さすがのアレクシスも目を丸くした。
エレノアは初めて微笑んだ。
それは淑女の微笑みではない。
長い長い我慢の末に浮かべた、諦観の笑みだった。
「殿下は私の言葉を信じない。でしたら、ご自身で確かめればよろしいのです」
「何を言っている?」
「私は、古い魔術を一つだけ知っています」
エレノアは胸元から、小さな銀色の結晶を取り出した。
それを見た瞬間、アレクシスの顔色が変わる。
「まさか……魂交換の秘術か?」
「ご存知でしたか」
「あれは禁術に近い魔法だ!」
「ええ。ですから、一生使うつもりはありませんでした」
けれど。
エレノアは静かに結晶を握った。
「殿下は、私が悪女だと仰る」
彼女はまっすぐ婚約者を見つめた。
「でしたら、一週間だけ私になってくださいませ」
そして。
初めて、その声に感情を乗せた。
「――私の人生を、生きてみてください」
銀色の光が、部屋を埋め尽くした。




