ぶち破れ
――ひとりで留守番なんて、本当に大丈夫か?
――大丈夫、私ももう十二歳よ? ひとりでお留守番くらいできないで、どうするの。
――だけど最近は、物騒だし。
――家の外には出掛けないから、平気だって。なんたって、家の鍵という鍵は、お父さんが作ったものなんだから。腕利きの鍵職人、ユーシス・ロックウェルの仕事ほど、信用できるものなんて他にないでしょう?
――じゃあ、夜までには帰るから。部屋、最近散らかしたままにしてるだろう。お父さんが出掛けている間に、片付けなさい。
――苦手なんだもの、お片付け。
――そういこと言わない。お土産を買って来てやるから、ちゃんと片付けて、良い子で待っていろよ。
――わかった、待ってるね。
――行ってきます、エリシュカ。
――行ってらっしゃい、お父さん。
それが娘との、最後の会話になった。
約束通り、片手にお土産のかぼちゃパイを携えて。
明かりの灯らない部屋に向かい、待ちくたびれて眠ってしまったのかとそっと覗き込んだ部屋は、空だった。
片付けられていないのか、荒らされたのか、微妙にわからない塩梅で乱れた部屋。まったく手の付いていない金品。いつまで待っても連絡も情報も、脅迫状の類さえ届かなかった。
何より、国一番とすら称されたユーシスの鍵を、誰が突破できたというのだろう?
誰が誰が誰が。
探さねば、見つけねば。
部屋に血痕はなかった。きっと最悪の事態は起きていない。
娘が行方不明になったことは、十分に最悪だけれども。
だけどまだ、どこかで、きっと生きている。
だからなんとしてでも、取り返さねば。
取り返せねば、ならないのに。
――ユーシス・ロックウェル、あなたをエリシュカ・ロックウェル失踪事件の容疑者として、逮捕する。
子どもに手をかける親はいる、惨いことに。
罪状をユーシスに突きつけた男は、悲しげに顔を歪めて言った。
――違う、そんな恐ろしいことなど、断じてしていない!
どんなに叫んでも、ユーシスの訴えは一切跳ね除けられた。
エリシュカの安否も分からないまま、ユーシスはエウリカ監獄へと送られた。
一体、何が。誰が。
二人の家の鍵をこじ開けて、罪を捏造して、娘とユーシスを引き裂いたのだろう?
* * *
煙の薄い床を這うように低くした体勢から、片手で体を支えて右足を振り上げる。
エウリカの髪を掴んでいた腕を蹴っ飛ばし、着地と同時に看守に足払いをかけた。エウリカが床に崩れ落ちる寸前、その体を受け止める。
息を止めているから、呼びかける代わりに頬を叩いた。先ほど思わずエリシュカの名を呼んだ時に、体内に残された空気の残量をだいぶ使ってしまった気がする。
「……ら」
うっすら涙を浮かべながら、エウリカは唇をわななかせた。
「……扉、北棟、がわ。そこから、出て」
入ってきた、金庫扉のような分厚い鉄扉のことだ。けれど扉は北棟側と接続する渡り廊下等と繋がっておらず、ユーシスも決死の思いで跳んで来た。
踏み込んでくる看守の姿に咄嗟に来た道を引き返したが、エウリカを抱えたままでは、とても。
「……エウリカは、ここにいなくていいのか」
子どもがいながらガス剤を撒いた看守どもの愚行には怒りを覚えるが、なにも積極的にエウリカに危害を加えるためだったとは限らない。ユーシスを捕えるための判断で、エウリカをきちんと保護し治療をするつもりかもしれない。
エウリカはしきりに瞬きをして、言った。
「ママに会わせてって、お願いした、だけなのよ。病気になったから隔離したって、言うけど」
小さな手がユーシスのツナギを掴む。腫れた瞼の合間から、涙がこぼれた。
「ママがどこかに連れていかれたら、どうにかして外に出なさい、って。言ってた、から」
どうにかして、どうにかして。そこにユーシスが、現れたのか。
エウリカを抱えたまま、無茶な体勢で扉を引っ張った。重たい扉の向こうから生ぬるい風が吹き込んで、刺激を含んだ煙と相殺し合う。見下ろせば、深い闇が広がって――。
「……は」
ユーシスは目を見開いた。
足元、四階フロアの一部が飛び出していた。部屋を丸々一つ、ユーシスたちの足元に押し出したように。
「この、エウリカ監獄の構造を支配しているのは、私だと言ったでしょう」
エウリカは息を整えてから、手の中に握り込んだ小さな端末を叩く。背後で足並みの乱れる音と、驚愕する声が聞こえた。振り向けば、狭い通路にレーザーが張り巡らされている。
飛び出してきた足場に移ったところで、まだ外は遠い。相変わらず階下までの闇は深い。それでもこの場で望みを絶たれるよりは、わずかでも逃げ延びる可能性が高まった。
「でも、腕っぷしは自信がないの。だから、よろしくね?」
ユーシスの腕の中、まだ涙が滲む瞳を細めてエウリカは笑った。
「娘以外の子どもを、助ける予定なんてなかったんだけどな……」
一気に色を失う前の自分と同じで、エリシュカの髪は綺麗な黒髪だった。いつも見上げてくる瞳も黒く、笑うとえくぼができる愛らしい娘。
今、抱えている子どもは髪も瞳も栗色で、理知的だが小生意気な笑みを口元にたたえている。名前がどことなく似ているのは、きっと単なる偶然。
「監獄の外に出ても、この世には攻略しなければならない謎も困難も不条理も、山のようにある」
「あなたはそれに立ち向かいたくて、脱獄を繰り返しているというわけ?」
「そういうことだ」
この石の監獄よりもなお冷たく、暗く、堅牢な。闇という名の牢獄に、きっと真相が、そして娘が囚われているに違いないから。
「だったらそんなもの、ぶち破ってやりましょう」
面影一つ重ならないのに、それでも愛しい娘を思い出させる子どもを抱えて。
ユーシスは足元の闇、そこに突き出したわずかな希望へと飛び出した。




