婚約破棄された訳あり聖女は仮面をつけている〜「こんなはずじゃなかった」と言われても、もう訂正できません〜
『──……その令嬢が目元を覆っている仮面を静かに外すと、あまりの美しさに、大広間にいる者たちはみな息を呑んだ。
仮面をつけている令嬢のあるがままを受け入れ、何よりも彼女の心根のすばらしさに惹かれて、いままさに求婚すべく、令嬢の前にひざまずいていた王子もまた、予想外のことに目を見張った。
誰もが、令嬢がいままで仮面で素顔を隠していた理由は、顔にある傷を隠すためだと思い込んでいた。
しかし、そうではなかったのだと、その場にいたすべての者が理解した。
令嬢は素顔を隠すことで、真実の愛を見つけたのだ──』
数年前、隣国で発行された一冊の恋愛小説は、このスラウゼン王国でもまたたく間に話題となり、貴族のみならず、平民にも多くの愛読者がおり、いまや王都の歌劇場の演目でも何度も演じられるほどの人気を博していた。
今夜、まさにその仮面を外す場面を彷彿とさせる出来事が目の前に展開され、建国パーティーのために王城のきらびやかな大広間に集っていた大勢の者たちは、みな固唾を呑んで、その行方を見守っていた。
大広間の中央、ぽっかりと人垣に囲まれるように立っているのは、目元を覆う仮面をつけたひとりの若い令嬢、──アマーリエだった。
彼女がつけている仮面は、滑らかな光沢をもつ絹地に、鳥や花などを模した繊細な刺繍が施されている。
アマーリエは、このスラウゼン王国の教皇庁に所属する”聖女”だ。
聖女の象徴である白百合を連想させる、雪のようなホワイトブロンドの髪の毛と、金色と緑色が複雑に混ざる瞳をもつアマーリエは、数百年に一度現れるとされる”聖女の現し身”といわれている。
アマーリエの前には、この国の王太子で、アマーリエの婚約者でもある、一際目を引く容姿のレナルド・スラウゼンの姿が見える。
赤毛に濃い紫色の瞳をもつレナルドは、確信をもって、
「──それほどまでに言うのなら、見せてやろう!」
興奮気味に叫び、迷いなく、アマーリエの仮面をはぎ取った──。
「──ほら、美人だろう! 私の目に狂いはない!」
レナルドは、幼少期に自身が一目惚れした仮面に覆われる前のアマーリエの素顔を思い浮かべながら、高らかに声をあげ、すぐさま賞賛を求めて周りを見回す。
しかし──、予想に反して大広間に響いたのは、悲鳴と戦慄の声、全体をざわつかせるほどの激しい動揺だった。
みな恐怖に慄き、ある者は青ざめ、仮面をはぎ取られたアマーリエの顔から目をそむけ、ある者は邪悪な魔法でもかけられたかのように、彼女の顔から目をそらせないでいる。
レナルドは、不穏な空気にハッと後ろを振り返る。
「──ひっ!」
レナルドは悲鳴をあげ、我が目を疑った。
アマーリエの右目の周り──、そこには、爬虫類の鱗のような禍々しいあざが浮かび上がっていたのだ。
それを目にするなり、レナルドは背筋が寒くなるほどの恐怖に襲われ、その場に崩れ落ちそうになるほど膝をガクガクと震わせた。
はぎ取ったばかりの仮面が、彼の手から滑り落ち、カツンと床に落ちる。
恐怖に駆られた大勢の視線を一身に受けるアマーリエは、右目元に右手を当て、少しでもそのあざを隠そうとする。
「で、殿下……」
震えながら声を出し、か細い左手をレナルドに伸ばす。
しかし、
「さ、触るな──ッ‼︎」
レナルドによって、乱暴に振り払われてしまう。
レナルドは、血走った目をアマーリエに向けると、すさまじい形相でにらみつけ、
「──私をだましたな! アマーリエ‼︎ その醜い顔はなんだ‼︎」
あたりはしんと静まり返る。
すると、凍りついたように誰ひとり動けずにいた人垣の中から、ひとりの令嬢がさっと進み出て、大広間の中央にいるレナルドに駆け寄る。
「──レナルド殿下! 大丈夫ですか!」
そう言って、レナルドの体を支えるように背中に手を回したのは、この国の宰相を務めるダラム公爵家の令嬢だった。
公爵令嬢は、レナルドを気遣うようにしながらも、
「このようなことになって、レナルド殿下がお怒りになるのも無理もありません。あの者は殿下を長年にわたり謀っていたのです! なんと罪深いことでしょう! いくら聖女とはいえ、あのような者がこのまま未来の王妃になるなど、許されるはずがありません‼︎」
声高にアマーリエを激しく非難した。
レナルドは、公爵令嬢を唯一の味方かのような眼差しで見つめる。
ややあってから、恐怖と怒りでわなわなと震えはじめる。
かと思えば、ひとしきり大声で笑ったあとで、ハッと息を吐き出し、
「──アマーリエ! もはやお前が、この国の王太子である私の婚約者などあり得ない! この場をもって、お前との婚約は破棄する‼︎」
まるで剣の切先を突きつけるかのように、自身の人差し指をアマーリエに突きつけた──。
***
スラウゼン王国の教皇庁に所属するアマーリエは、”聖女”と呼ばれていた。
なぜなら彼女が、聖女の象徴である白百合を連想させる、ホワイトブロンドの髪の毛と、金色と緑色が複雑に混ざる瞳をもつ容姿に生まれたからだ。
数百年に一度現れるとされる”聖女の現し身”として、アマーリエは赤ん坊のときに教皇庁に保護という名目で引き取られた。
以来、アマーリエは聖女として育てられ、物心つく前から聖女として、日々神に祈りを捧げ続けた。
八歳を迎える頃になると、教皇庁が管理する救済院や孤児院などを陰ながら手伝い、民のために献身し、ときに民の救済につながる施策などを国王に申し出るなど、聖女としての務めを一心に果たすようになる。
そして、アマーリエが十歳のとき、婚約者ができた。
相手は、この国の王太子である、二歳年上のレナルドだった。
レナルドは、国王と同じく赤毛で濃い紫色の瞳をもち、同世代の貴族の中でも一際整った容姿をしていた。
王国では聖女を娶ると国が栄えると言い伝えられており、折よく年齢が近かった国王のひとり息子であるレナルドが選ばれたのは自然な流れだった。
当初レナルドは、言い伝えで婚約者を決められたことに不満をあらわにしたが、アマーリエの愛らしさに一目惚れしたことで、婚約関係は順調に進み、心配していた国王や教皇庁の長である教皇はほっと胸をなで下ろした。
聖女であるアマーリエは、引き取られた赤ん坊のときから教皇庁の中ではことさら大切に扱われてきたが、教皇庁に所属するどの聖職者とも異なる特別な立場になるため、周りからは一線を置かれ、本当の意味での愛情を知らずに育った。
そのため、婚約者となったレナルドの好意を最初の頃はうれしく感じていた。
しかし、いつからか、レナルドはアマーリエの容姿しか見ていないことに、アマーリエは気づいてしまう。
さらに、レナルドは王太子でありながら、政や民の暮らしに関心が薄いようだった。
アマーリエが、国内で発生した作物の不作や災害、それによる民の苦境、支援策などについて話題にしても、彼は面白くなさそうに聞き流すばかりだった。
そんなレナルドの態度に、アマーリエは将来この国をふたりで背負うことへの不安を覚えるようになる。
そして、アマーリエが十二歳を迎えた頃、アマーリエの右目の周りに、爬虫類の鱗のような禍々しいあざが浮かび上がる。
──古に伝わる、ドラゴンの呪いだった。
大昔、北壁に棲む凶悪なドラゴンによって支配された土地で、人々は常に怯えながら細々と暮らしていた。
しかしあるとき、あらゆる剣技を極めたひとりの青年がドラゴンに深手を負わせ、やっとの末にドラゴンの封印に成功する。
その後、北壁を含めた一帯の土地をスラウゼン王国として定め、青年が初代の国王として国を治めたことが、このスラウゼン王国のはじまりとされている。
それから長い歳月の経過とともに、ドラゴンの封印は次第に弱まっていた。
その影響により、数十年に一度、王族の血を引く女性の中にドラゴンの呪いが現れるようになった。
呪いが現れた女性は、みな短命だった。
ドラゴンの呪いを解くためには、今度こそ完全にドラゴンを退治するしかないように思われたが、そのためには、初代国王がかけたドラゴンの封印そのものを解かねばならず、封印が弱まりつつあるとはいえ、末裔であるどの王をもってしても、ほぼ不可能に近かった。
アマーリエは聖女ではあるものの、出自は平民のはずだった。
しかし、ドラゴンの呪いが現れたことで、アマーリエが数代前に平民と駆け落ちした末娘の王女の末裔で、王族の血を引いていたことがわかったのだ。
聖女である彼女にドラゴンの呪いが現れた事態を重くみた国王は、その事実はアマーリエ本人と、年の離れた王弟であるクライヴにだけ告げるに留め、ひとり息子でアマーリエの婚約者のレナルドには、慎重を期して時期を見て打ち明けることにした。
アマーリエにドラゴンの呪いが現れたあと、王弟のクライヴが目元を隠せる仮面をアマーリエにつけてくれた。
アマーリエにとって、大人で威厳のある国王はひどく緊張する相手だったが、クライヴは国王とは二十歳以上も年が離れていたため、国王よりは自分に近い存在に感じられ、安堵できる相手だった。
また、クライヴ自身、王弟でありながらも気さくな性格で、十一歳離れているアマーリエに対しても、早いうちから、クライヴ殿下だと堅苦しいからクライヴと呼んでくれていい、などと言ってくれたことも身近に感じられた理由だろう。
そんなクライヴが、アマーリエに仮面を用意したのはドラゴンの呪いを隠すためであることは、彼女にもよくわかっていた。
しかし、国王すらもアマーリエの顔を見て痛ましそうに一瞬目を背けたにもかかわらず、クライヴだけはじっと目を見て何事もないかのように微笑んでくれたのが印象的だった。
彼がつけてくれた仮面は、高価な絹地が使われており、色とりどりの鳥や花などを模した繊細な刺繍が施された特注品だった。
十二歳のアマーリエには少し大人っぽいようにも思われたが、禍々しい呪いが浮き出る素顔を見ることが苦痛になっていた彼女にとって、きれいな刺繍が入った仮面をつけると少しだけ心が和らぐ気がした。
国王はアマーリエが突如仮面をつけることになった理由について、王太子のレナルドには、アマーリエはこの国の聖女であり、王太子の婚約者でもあるため、しかるべきときまで身を守ることを優先して素顔を隠したほうがいいと伝えた。
レナルドは納得できない様子だったが、数日後、仕方ないと受け入れた。
そこには、当時流行り出していた隣国で発行された一冊の恋愛小説の影響もあった。
小説の中に登場する主人公の令嬢は、アマーリエと同じように目元を仮面で隠していたからだ。
何事もやや流されやすい性質のあったレナルドは、巷で話題になっている小説と同じように、素顔を隠した神秘的な婚約者も悪くないと思ったようだった。
ドラゴンの呪いの事実を知るのは、国王と王弟のクライヴだけ。
しかし、この仮面をアマーリエにつけてくれたクライヴは、その後出かけた遠征先で命を落としたと国王から聞かされた。
それを聞いたとき、アマーリエはあまりの衝撃に、その場に崩れ落ちた。
遠征に出かける前に見た、クライヴのやさしい笑みが頭から離れなかった。頭をなでてくれたあの大きな手が恋しかった。
そして、国王の右腕でもあった王弟のクライヴが亡くなったことで、アマーリエに降りかかるドラゴンの呪いの事実を知る者は、国王以外にはいなくなったのだった──。
***
それから五年の年月が過ぎ、アマーリエは十七歳になった。
アマーリエの右目周りには、いまだドラゴンの禍々しい呪いが浮かび上がったままだ。
そのため、目元はいつも仮面で覆い隠すしかなかった。
この仮面をつけてくれた、やさしい王弟のクライヴはもういない。
アマーリエは、ずっと心の中にぽっかりと穴があいたような気持ちをかかえていた。
相変わらず、王太子であり婚約者のレナルドは、政や民の暮らしにはさほど関心がもてないようで、アマーリエはますます不安を募らせる。
その上、王弟であるクライヴのいなくなった王城内では、宰相を務めているダラム公爵がますます力をつけているという不穏な動きもあるようだった。
教皇庁は政には介入しないという戒律があるため、教皇はダラム公爵の動きを一層警戒するも、それ以上踏み込めずにいた。
そんな中、恐れていた事態が起こった。
翌月に建国パーティーの開催を控えていたある日、アマーリエは、国王が床にふしているらしいと教皇から密かに聞かされた。
病に侵されたのか、または最悪の事態である暗殺未遂でも起こったのか──。
表上、国王は公務による疲労で大事をとって休んでいるとされ、真相は厳重に秘匿されていたが、いつまで経っても公に姿を見せない状況に、水面下ではさまざまな憶測がささやかれていた。
アマーリエ自身も、国王に最も近い王太子であるレナルドにそれとなく何度も確認するも、公務の疲労が溜まり、少し休養しているだけだと返されるばかりだった。
最初は何か隠しているのかとも思えたが、良くも悪くも考えていることが表に出やすいレナルドの表情を見ていると、嘘をついているようには思えなかった。
そして、不安な日々が続く中で迎えたスラウゼン王国の建国を祝う日──。
王城では、今年も建国を祝うパーティーが大々的に開かれ、大広間にはこの国に名を連ねる貴族や著名人など、大勢の者たちが一堂に会していた。
例年であれば、国王がみなの前で建国を祝うあいさつをするのが慣例だが、国王は不在だった。
建国パーティーに国王が顔を出さないなど、過去の歴史を振り返ってみてもあり得ないことだった。
国王の不在について、アマーリエは会場となる大広間に入る直前、レナルドから聞かされた。
レナルドはやや心配そうに、
「……少しまだお加減が優れないようだ」
とつぶやいた。
その横顔は、たしかに父親を心配する息子の顔だった。
レナルドのエスコートで、アマーリエは左右に開かれた大扉から大広間へと足を踏み入れた。
レナルドとアマーリエが入場し、しばらくしたあとで見計らったかのように、宰相を務めるダラム公爵が娘の公爵令嬢をともなって、あいさつに来た。
「スラウゼン王国の光、レナルド王太子殿下にごあいさつ申し上げます」
ダラム公爵は胸に手を当て、敬意を示す。
その横では、公爵令嬢が優雅に淑女の礼をした。
「ああ、ダラム公爵か、よく来てくれた」
気安そうに、レナルドが声をかける。
ダラム公爵は愛想のよい笑みを見せたあとで、すっとアマーリエに視線を移し、
「──我が国の聖女さまにも、ごあいさつ申し上げます」
アマーリエは、形式どおりに微笑み、
「白百合の祝福がともにありますように」
と言葉をかける。
聖女であるアマーリエが、貴族も平民も関係なく、すべての者にかけるあいさつの言葉だ。
白百合の祝福、つまり聖女の祝福がともにあるように、という祈りが込められている。
ダラム公爵は、ふっと口端を上げ、
「ありがたく存じます。しかしながら、聖女さまの素顔を拝見できないので、祝福もいささか半減しそうですな」
不敬とも取れる言葉を発する。
さすがに、レナルドも耐えかねたように、
「公爵、言葉が過ぎるぞ」
と釘を刺す。
ダラム公爵は、
「大変申し訳ございません、少しワインを飲み過ぎたようです」
と言って深く頭を下げたものの、やや思案するそぶりで、ことさら痛ましそうに、
「……しかし、聖女さまの素顔については幼少期に一部の者が拝見して以来、誰も拝見しておりませんので、近頃さまざまな憶測が飛び交っていることを殿下はご存知でいらっしゃいますでしょうか? 口さがない連中の戯言だとは思いますが、噂が大きくなればなるほど、民は不安にかられるでしょう」
レナルドは眉間にしわを寄せ、
「噂だと──?」
「ええ、誠に残念ながら……。巷では数年前から隣国の恋愛小説が流行っておりますが、それを利用して、表には出せない本当の姿を隠しているのでは──、と言う者もいるようで……」
ダラム公爵は、アマーリエにだけ見えるように、にやりと口元をゆがめた。
その瞬間、アマーリエは背筋を凍らせる。
(もしかして、わたしの素顔を知っているの……? まさか──)
そこで、アマーリエは、はっと気づく。
いつだったか、教皇庁の敷地内にある庭園を歩いているときに、急な夕立に降られたことがあった。
全身がびしょ濡れになり、アマーリエは建物の陰に身を隠すと、そっと仮面を外して濡れた顔をハンカチでぬぐった。
そのとき、周りには誰もいないはずだった。
(でも、もしもあのとき、誰かに見られていたら──?)
アマーリエは、レナルドのほうを急いで見る。
レナルドは機嫌を損ねたように、
「そんな噂があるのか? 事実無根だというのに……」
と言葉を漏らす。
「ええ、しかし、みな聖女さまの素顔を知らないのですから、そう思ってしまうのも無理もありません」
ダラム公爵は畳みかけるように言う。
気づけば、周りにいた者たちは一歩、また一歩下がり、アマーリエたちがいる大広間の中央だけ、不自然にぽっかりと空間ができていた。
レナルドが、アマーリエを見下ろす。
その目は自分の持ち物の価値を疑われたように、不快感をあらわにしていた。
アマーリエは、本能で危険を察知し、とっさに下がる。
しかし、アマーリエの手首をレナルドがぐっとつかみ、引き止める。
レナルドは、不自然なほどやさしく微笑み、
「アマーリエ、ここまで言われてしまっては、隠しておくこともないだろう。きみの愛らしさ、美しさは私が一番知っているが、いい機会だ、そろそろ公にしてもいいと思わないか?」
アマーリエは青ざめた顔で、
「──い、いけません!」
と叫び、レナルドにつかまれていないほうの手で仮面を押さえる。
しかし、アマーリエの言葉はレナルドの耳には届いていなかった。
レナルドは、ぐいっと強引にアマーリエを引き寄せ、
「──それほどまでに言うのなら、見せてやろう!」
興奮気味にそう叫ぶと、迷いなく、アマーリエの仮面をはぎ取った。
「──ほら、美人だろう! 私の目に狂いはない!」
レナルドは高らかに声をあげ、周りを見回す。
そうして、アマーリエの素顔は、公の面前にさらされた──。
***
「──衛兵、いますぐあの者を捕えろ! 牢屋にぶちこんでおけ‼︎」
アマーリエの禍々しいドラゴンの呪いを目にしたあと、一方的な婚約破棄を突きつけたレナルドは大声で叫んだ。
「──で、殿下! これには訳が……!」
アマーリエは必死に声を張り上げたが、すぐさま衛兵らによって取り押さえられる。
レナルドは、汚らわしいものを見るような険しい視線をアマーリエに向けている。
アマーリエは苦しげにレナルドを見上げ、祈るように言った。
「……っ! どうか、国王陛下にお尋ねください──!」
しかし、レナルドは心底呆れ果てた様子で、
「陛下はつい先頃から大事をとってお休みになられている! 陛下に尋ねろだと? 時間稼ぎのつもりか、ふざけた真似を! 早く連れていけ──‼︎」
と言い放つ。
アマーリエは、衛兵らの手によってなかば強引に立ち上がらされる。
思いもよらない事態に、大勢の者たちは戦々恐々としながら目で追う。
(どうして、こんなことに──)
アマーリエは、唇を噛みしめる。
目には涙がじわりとあふれる。
視線の先、そこには床に落ちている自身の仮面があった。
目元のあざを隠すため、人前ではかたときも仮面を外したことはなかった。
それなのに、王太子であり、婚約者であるレナルドの手によって、こんな形で公の目にさらされるなど誰が予想できただろう。
(でも、あの仮面だけは──)
アマーリエは衛兵らに腕を拘束されているにもかかわらず、体をねじり、もがくようにして、ぽつんと残される仮面に手を伸ばそうとする。
せめて、あの仮面だけは、手元に持っておきたかった。
(──ごめんなさい)
心の中でつぶやく。
(──誰にも素顔を見せないと約束したのに)
アマーリエは力を振り絞って、衛兵らの拘束から逃れようとする。
衛兵らはアマーリエが逃げ出そうとしていると思ったのか、痛いくらいに力を込めて押さえようとする。
揉み合いになったせいで、アマーリエを取り押さえている衛兵のひとりが体のバランスを崩し、落ちている仮面を勢いよく踏みつける。
その瞬間、バキッ──、といやな音がした。
見るも無惨に、仮面は真っ二つに割れ、滑らかな絹地には薄汚れた黒い靴跡がべったりとついている。
アマーリエは、あまりの衝撃に言葉を失う。唇が小刻みに震える。
金色と緑色が複雑に混ざる彼女の瞳から、とめどなく涙があふれる。
「──おい! 何をしている! さっさとつまみ出せ‼︎」
いらだちを抑えられないように、レナルドが叫んだ。
そのとき──。
背後にあった大広間の大扉が、勢いよく左右に開かれた。
大広間にいた者たちは、弾かれたように一斉に目を向ける。
開かれた大扉を通り抜け、猛然と駆け寄ってくるのは、ひとりの男性──。
(まさか……、そんな……)
アマーリエは、大きく目を見開く。
そこにいたのは、五年前に遠征先で亡くなったと聞かされた、国王の弟、クライヴ・スラウゼン、その人だった。
赤みを帯びたブラウンの短い髪の毛に、鋭さの中にもやさしさが覗く濃い青色の瞳。
険しい表情を見せているものの、精悍な顔立ちは昔とまったく変わっていなかった。
アマーリエは信じられない思いで、クライヴを見つめる。
大広間にいる者たちも、死んだはずの王弟が突然現れたことで、驚きと動揺を隠せないようだった。
するとひと呼吸遅れて、大扉の向こうから、もうひとりの人物が姿を現す。
「──そこの衛兵らよ! 聖女から手を放せ!」
威厳のあるよく通る声でそう言ったのは、床にふしているとされていた国王だった。
アマーリエを押さえていた衛兵らは、衝撃が走ったかのように勢いよくその手を放す。
アマーリエは、その場にへたり込みそうになる。
その瞬間、アマーリエのもとにたどり着いたクライヴの大きな手が彼女の華奢な体を支える。
アマーリエは夢でも見ているような気持ちで、クライヴの顔を見上げる。
「……本当に、クライヴさま、なのですか……?」
クライヴは申し訳なさそうに目尻をやや下げ、
「……黙っていてすまない」
そう言ったあとで、素顔をさらしているアマーリエの顔を昔と同じようにじっと見つめ、やさしく微笑むと、
「でももう大丈夫だ。きみにかかっているドラゴンの呪いを解く方法を見つけたんだ」
とはっきりと言った。
***
アマーリエは、大きく目を見開き、目の前のクライヴを見つめ返す。
クライヴは、やさしい微笑みをアマーリエに向けている。
アマーリエは、信じられない気持ちでいっぱいだった。
先ほどまでは、王太子で婚約者のレナルドに仮面を無理やりはぎ取られ、禍々しいドラゴンの呪いを公にさらしてしまっただけなく、レナルドからは一方的な婚約破棄を突きつけられ、拘束されるという絶望の淵に立たされていた。
それが一変して、死んだと思っていたクライヴにもう一度会えただけでなく、ドラゴンの呪いが解ける方法までも見つけたと聞かされ、何もかもが夢の中の出来事のようだった。
ふと、クライヴの後ろに視線を向けると、そこにはひとりの女性が立っていた。
長く腰まで伸びた艶のあるゆるやかに波打つ黒髪、黒曜石のような黒い瞳。
女性は、体の曲線を強調するような真っ黒のドレスに身を包んでいる。
どこか浮世離れした美しさに、アマーリエは思わず見惚れてしまう。
「眠りの魔女だ」
クライヴは、アマーリエに告げる。
アマーリエは、女性を凝視する。
魔女が存在したといわれるのは大昔の話だ。いまとなっては、物語の中でしか耳にしたことはない。
「北壁の近くにある森に棲まう魔女だ。百五十年に一度しか目覚めることがないため、眠りの魔女と、そう呼ばれている」
クライヴはそう言うと、魔女に向かって、
「眠りの魔女殿、彼女がドラゴンの呪いを受けているんだ。頼む」
魔女は、カツカツとアマーリエに歩み寄り、アマーリエの右目周りに現れている爬虫類の鱗のようなあざ、ドラゴンの呪いをじっと覗き込む。
すると、すぐさま、ひどくくさいものでも嗅いだように顔をしかめる。
「──ええ、たしかに。ドラゴンの呪いね。いやなにおいがプンプンするもの」
そして、事の重大さに対しては不釣り合いなほど軽やかに肩をすくめ、
「まあ、大丈夫でしょう」
と、こともなげに言ってのける。
魔女はドレスのポケットから、真っ黒な液体が入った小瓶を取り出し、その小瓶をアマーリエの口元に押しやる。
「飲んで。これで呪いが解けるはずよ。なんせ呪いをかけたドラゴンの心臓から作った解呪薬だから」
アマーリエは、ひゅっと息を呑み、ためらった。
しかし魔女は気にせず、解呪薬の小瓶をアマーリエの口元に押し当て、強引に口の中に注ぎ入れる。
「え、あ、あの……、んぐっ──!」
アマーリエは心の準備もできないまま、解呪薬をすベて飲み干す。
どんな恐ろしい味がするのかと思ったが、舌触りは滑らかで、はちみつを溶かしたように甘かった。
するとまもなく、アマーリエの右目周りに現れていたドラゴンの呪いが徐々に薄れていく。
しばらくすると、何もなかったかのように、すべて消え去った──。
魔女は、自身の手のひらをアマーリエの前に掲げる。
と同時に、手のひらがキラリと光り、まるで鏡のようにアマーリエの顔を映していた。
アマーリエは、震える指先で自分の右目もとに触れる。
呪いが現れた十二歳のときから今日までの五年間、ずっと目にしてきたものがきれいになくなっていた──。
とても奇妙な感じだった。
その場に居合わせた全員が、あまりの大きな変化に息を呑む。
アマーリエの右目周りにあった禍々しいあざが消えると、そこには聖女の象徴である白百合を連想させる、ホワイトブロンドの髪の毛と、金色と緑色が複雑に混ざる瞳を引き立てるような、透き通った白磁の肌をもつ美しい少女がいた。
クライヴがアマーリエの顔を覗き込む。
呪いが消えたことを確認すると、安堵するように、ゆっくりと大きく息を吐き出す。
「……長い間、すまなかった」
アマーリエの小さな肩に頭をのせ、震える声で言った。
アマーリエは恐る恐る手を伸ばし、クライヴの短い髪の毛に触れる。
はじめてのことだった。
いまなら触れても、許される気がした。
アマーリエの瞳から大粒の涙がこぼれる。
「クライヴさま、生きていてくださって、本当によかった……。本当にありがとうございます……」
***
アマーリエとクライヴの行方を見守っていた国王は、床にふせっている噂があったとは思えないほど、しっかりとした足取りでみなの前に進み出る。
大広間に集う全員の顔をさっと見回したあとで、息子である王太子のレナルドに目を止める。
レナルドは久しく向けられたことのない、父である国王の険しい視線にたじろぐ。
「──レナルド。アマーリエのことをお前に話していなかった私にも非がある。しかし、こともあろうにアマーリエの仮面を勝手にはぎ取り、ドラゴンの呪いを公にさらしただけでなく、彼女に一切の非がないにもかかわらず、一方的に婚約破棄を突きつけるなど言語道断!」
厳しい声音でレナルドを責める。
そして、宰相であるダラム公爵にスッと鋭い視線を向け、
「ダラム公爵を捕らえよ!」
国王の背後にいた騎士たちが、すぐさまダラム公爵を取り押さえる。
「──陛下! な、何を⁉︎ 血迷いましたか⁉︎ こんなことをして──っ!」
ダラム公爵は、騎士たちの手から逃れようと暴れながら叫ぶ。
国王は冷ややかな目で、床に押さえつけられているダラム公爵を見下ろし、
「ダラム公爵。そなたには、王太子であるレナルドを利用し、私を毒殺しようとした大罪を償ってもらう」
そこで、レナルドがひゅっと息を呑む。
「──毒、殺?」
そう言ったあとで、さっと顔を青ざめ、
「──あ、もしかして、あの……、ワインに……」
思い当たる節があるようにつぶやいたあとで、わなわなと震え、キッと公爵をにらみつけ、
「公爵──! そなたが私に献上したワイン、あれに毒を入れていたのか⁉︎ 父上を殺そうとするなど──‼︎」
ダラム公爵は、はっと笑い、
「気づかぬほうが愚かというものです、殿下。あなたは、私の言うとおりに動く駒にすぎない。それなのに、失敗に終わるとは──!」
嘲笑するように吐き捨てる。
レナルドは、憤りに体を激しく震わせる。
知らず知らずのうちに、父親である国王毒殺の片棒を担がされていたのだ。
国王が声を発する。
「公爵、そなたはレナルドに私を毒殺させたあと、レナルドにその事実を告げ、おおかた裏から国政をほしいままにしようと目論んでいたようだが、私の命まで奪えず、残念だったな」
ダラム公爵が、鬼の形相で国王をにらみつける。
国王はその視線を受け流し、レナルドのほうへと目を向ける。
レナルドの隣には、いまだレナルドの体に手を置いているダラム公爵の令嬢がいた。
「──ダラム公爵令嬢。そなたがこの件にどこまで加担しているのかは追って調べさせてもらう」
ひっと、公爵令嬢は声をあげ、レナルドの体から手を離し、ガクガクと震え上がる。
国王は、呆然と立ち尽くすレナルドに向かって、ほかを圧倒する厳しい声を発する。
「レナルド、事の重大さはわかっているだろう。自分がなんのためにその立場にあるのかも理解せず、政をおろそかにし、民の暮らしにも目を向けずにいる振る舞いは、もはや許されることではない。さらに、ダラム公爵のような国に害をなす者の思惑に振り回されたこと、愚かで浅はかにもほどがある。よって、この場をもって、お前の王位継承権は剥奪する──!」
「ち、父上──! お待ちください──‼︎」
レナルドは、悲痛な叫び声をあげる。
国王は、レナルドにはもう目もくれず、
「北部の領地でもう一度、自分を見つめ直すがいい。私がお前にかける言葉は、もうこれ以上ない」
無慈悲とも言える冷たさで言い放った。
レナルドは、へなへなとその場に崩れ落ちる。
しかしすぐに、はっと気づくように、アマーリエに視線を向ける。
そこには、幼い頃に目を奪われた少女が美しく成長した姿があった。
これこそまさに、レナルドが求めていた完璧な理想像だった。
レナルドはすがるような目でアマーリエを見つめ、狂ったように大声で叫んだ。
「──こんなはずじゃ! こんなはずじゃなかったのに‼︎ アマーリエ、私は本当にきみのことを──‼︎」
国王は小さく左右に首を振り、
「……連れていけ」
と騎士たちに告げる。
アマーリエは、レナルドの視線から逃れるように、クライヴの背後に隠れる。
つい先ほどまで、レナルドは血走った目のすさまじい形相でアマーリエをにらみつけ、ひどく非難し、罵倒した。
しかし、ドラゴンの呪いによるあざがなくなったとたん、手のひらを返すように、まるでかつての恋人を見るような目で見つめてきたのだ。その視線が何よりも怖かった。
クライヴが、ぎゅっとアマーリエの手を握ってくれる。
大丈夫だと言ってくれているようなあたたかさに、アマーリエは、ぽっかりと空いたままだった自分の心が少しずつ満たされていくのを感じていた──。
***
「北壁のドラゴンの呪いだ……」
国王からその言葉を聞いたとき、クライヴはがく然とした。
目の前には、まだ十二歳になったばかりの幼い少女が不安げに立ち尽くしている。
クライヴは、彼女を怯えさせないよう細心の注意を払い、なんでもないことのように微笑んで見せた。
少女の右目周りには、愛らしい彼女には不釣り合いなほど、禍々しい爬虫類の鱗のようなあざが見える。
少女は数百年に一度現れるとされる、このスラウゼン王国の聖女だ。
人々から敬われる存在にもかかわらず、ドラゴンの呪いを受けることになってしまったのだ。
そしてそのことは、あるひとつの結論をクライヴに示唆していた。
──王族の血を引く女性。
ドラゴンの呪いは、王族の血を引く女性にのみ現れるとされている。
唯一思い当たる可能性は、数代前に平民と駆け落ちした末娘の王女、その末裔がアマーリエではないか──。
すでにその結論に行き着き、確信を得ているであろう国王は、深く息を漏らした。
「……聖女であるアマーリエが、じつは王族の血を引いており、その上、ドラゴンの呪いを受けてしまったなど、公にはできぬ。事はあまりにも重大だ。いまはまだ、お前の胸のうちにだけ留めておいてくれ。……そうだな、レナルドにはいずれ時期を見て話すことにしよう」
国王の意見に、クライヴも頷くしかできなかった。
それから数日間、クライヴは思い悩んだ。
祖先である初代国王が封じたという北壁のドラゴン。
その封印は長い歳月とともに弱まりつつあり、その影響で王族の血を引く女性にドラゴンの呪いが現れるようになった。
当然ながら、そのことはごく限られた人間しか知らない。
そして、呪いが現れた女性は、いずれも若くして亡くなっている。
アマーリエは聖女ではあるものの、王族として生を受けたわけでもなく、聖女であること以外はごく普通の少女だ。
それなのに、本人が知らぬまま王族の血を引いているというだけで、不幸にも呪いをその身に受けてしまった。
本当なら、聖女として、王太子であるレナルドの婚約者として、ひとりの女性として、これからしあわせな未来が待っているはずだったのに──。
クライヴは拳を強く握りしめ、決心する。
翌日、朝早くから国王を訪ねたクライヴは切り出した。
「兄上。ドラゴンの封印は弱まりつつある。それはつまり、遠くない未来にドラゴンが目覚めることを意味しているんじゃないのですか? ならば、いましかない。封印が切れ、力を蓄えたドラゴンが最悪の形で目覚めれば、この国は甚大な被害に見舞われます。そして、何よりもこれ以上、アマーリエのような不幸を背負う女性が出ないよう、ドラゴンの呪いが繰り返されることはここで断ち切らねばならない、違いますか──」
揺るぎない決意を国王に告げた。
国王は険しい表情で、大きく息を吐き出す。
それは、国王も長年考えていたことだった。
「……たしかに、お前は、王立騎士団の団長として長年にわたり私を支えてくれ、この国唯一の剣を極めし者でもある。しかし、いくら剣を極めし者のお前だとて、初代国王がかけたドラゴンの封印を解き、なおかつドラゴンを退治するなど、無謀以外の何ものでもない。それをわかっているのか?」
クライヴは深く頷く。
「はい、誰よりも──。ですから、私のことは死んだものと思ってください。ドラゴンの封印解除と退治、そのふたつを成し遂げるためには想像もできないほどの困難が立ちはだかっているでしょう。ましてや、生きて帰れる可能性は限りなく低い。王弟である私が、死んでいるのか生きているのかわからない状態では、後継者争いの火種を生みかねません。それだけは、いずれ国王としてこの国を支えるレナルドのためにも、避けなければならないはずです」
国王はゆっくりとクライヴに歩み寄ると、弟である彼の体を正面から抱きしめた。
「──すまない、お前にそんな決断をさせてしまったことを、私は詫びることしかできない」
クライヴは、兄である国王の背中をやさしく叩く。
二十歳以上も年が離れているため、兄というよりも父のような存在だった。
「兄上、あなたはただ私に『行け』とだけ言ってくれればいいのです。王族に生まれたときから、この身は民のためにあります。ただひとつだけ、お願いがあります。アマーリエにも、私は死んだと伝えてください。ドラゴンの呪いが解けるかもしれないと淡い期待を抱かせたものの、裏切ることになれば、その絶望は計り知れないでしょうから」
国王は、静かに頷いた。
「……わかった、そうしよう。だが、私はお前のことはけっして諦めない。レナルドに王位を譲り渡すときになっても、お前が戻ってこなければ、私は老体に鞭打ってでも地の果てまでお前を探しに行くからな」
クライヴは頬をゆるめる。
「ええ、そうならないよう、肝に銘じておきます」
そうしてクライヴは、表上は遠征に行く準備をはじめた。
騎士団の中でも手練れの数名の騎士を選び抜き、ドラゴン退治に力を貸してもらえるよう協力を仰いだ。
遠征という名目で出発する前日、クライヴは一時的に王城で預かっているアマーリエを訪ねた。
国王はこのままアマーリエを王城に留め置くことも考えたが、事情を知らない教皇や教皇庁の者たちから、すでにアマーリエの帰りを待ちわびているという催促の手紙を何通も受け取っており、やむなく断念したという。
クライヴは、アマーリエの前に片膝をつけて屈むと、懐からハンカチに包まれたあるものを取り出す。
ゆっくりとハンカチを開き、アマーリエに見せる。
好奇心をもった瞳でアマーリエがクライヴの手元を覗き込み、
「……仮面、ですか?」
顔を上げて尋ねる。
それは、クライヴがアマーリエのために特注で作らせた目元を覆う仮面だった。
光沢のある絹地に、色とりどりの鳥や花などを模した繊細な刺繍が施されている。
「ああ。これからは素顔が誰にも見られないよう、隠しておかなきゃいけない……」
クライヴは苦しげに言葉を吐き出す。
アマーリエは、小さくコクンと頷いた。
幼いながらも聡い彼女は、クライヴのその一言だけですべてを理解し、何も言わず受け入れているのだ。
クライヴは、ぶつけようのないやるせなさを必死で堪え、
「すまない……」
懺悔するように漏らす。
先ほどからアマーリエは、クライヴを気遣い、小さな右手を自身の右目に当てている。禍々しい呪いができるだけ見えないようにしてくれているのだ。
その右手をクライヴはつかみ、そっと動かして退かすと、アマーリエの金色と緑色が複雑に混ざる美しい瞳を正面からじっと見つめ返す。
自分は背丈もある上にがっしりとした体格で、さほど愛想がよいともいえないため、女性や子どもからは怖がられることもある見た目だと自覚している。
クライヴはなるべくやさしく微笑んで、
「仮面の模様はどんなものにしたらいいのか迷ったんだが、前に鳥や花が好きだと言っていただろう? どうだろうか、少しでも気に入ってもらえるといいんだが……」
アマーリエは一瞬、きょとんとしながらも、おずおずと手を伸ばし、仮面にそっと触れる。
手に取って、じっくりと見つめる。
ややあってから、
「……はい、とても気に入りました。ありがとうございます」
少しはにかみながら、クライヴにお礼を述べる。
「そうか、ならよかった」
クライヴは胸をなで下ろし、その小さな頭をそっとなでる。
そのあとで、アマーリエの目元に仮面をつけてやる。
つけ終わると、アマーリエが、
「……どうですか?」
と心配そうにクライヴに尋ねる。
クライヴは再び微笑み、
「ああ、とても似合っている。きっとレナルドも褒めてくれるはずだ」
幸いにも、アマーリエの婚約者である王太子のレナルドは、アマーリエに好意を抱いている。
ドラゴンの呪いが解けず、この先その事実を知ったとしても、アマーリエのことを受け入れられるかもしれない、そんな期待もあった。
***
翌日、クライヴは遠征へと旅立った。
そしてその半月後、崖から転落し死亡したように偽装し、その後、あらかじめ話をつけておいた数名の騎士をともなって、ドラゴンが封印されているとされる北壁へと密かに向かった。
辺境の地に行けば行くほど、王都の情報は少なくなる。
しかし、こんな辺境の地でも、聖女であるアマーリエの噂をよく耳にする。
「仮面をつけた聖女さまが、災害で亡くなった魂を弔ってくれた」
「王都の救済院で、聖女さま自らけがの手当てをしてくださった」
「長年見過ごされていた地域に、孤児院を建てるよう国王に進言してくださったらしい」
クライヴは立ち寄る町や村で、アマーリエのことを聞くたびに、決意を新たにした──。
その後も旅を続けるクライヴと元騎士の仲間たちは、ある日、とある小さな村に立ち寄った。
北壁の周りには、ほとんど人が足を踏み入れることのない広大で鬱蒼とした森があるといわれている。
村は、その森にたどり着く前にポツンとあった。
そこでクライヴは、村の年老いた村長から、ある言い伝えを聞く。
「ドラゴンは、恨みつらみによって人間を呪うことがあるといわれておりますな……。すでにその呪いを受けている人間は呪ったドラゴンがたとえ死んだとしても、その呪いは怨嗟となって残り続けるとも……。それがどのような呪いかは、この地で長年生きてきたわしどもにもわかりませぬが……」
村長は、かつて自身の父親から聞かされたであろう古い話を思い出しながら、そう語った。
それを聞いて、クライヴはがく然とする。
ドラゴンの封印解除と退治だけでも、成し遂げられるかわからない中、ドラゴンを倒すだけではだめだと、村長は口にしたのだ。
目の前が真っ暗になる。
しかし続けて、村長はわずかばかりの光となる話をクライヴに伝えた。
「呪いを解く方法があるとすれば、ドラゴンの心臓を用いて作られる解呪薬のみだという話も、わしどもは伝え聞いております……」
さらに、その解呪薬を作れる者がいるとするならば、北壁の近くにある森に棲まうとされる”眠りの魔女”だけだろうと付け加えた。
しかし、そもそもその魔女が実在するのか、森のどこにいるのかもはっきりとしたことはわからない。
その上、魔女が目覚めるのは、百五十年に一度だという。
「眠りの魔女さまが目覚めたとされるのは、そうですな……、いまから百年以上前といわれておりますが、果たして本当かどうかは……」
村長は、申し訳なさそうに首を横に振った。
クライヴは、落胆する。
人間にとって十年でも長い年月だ。とても魔女が目覚めるのを悠長に待っている余裕はない。
しかし、続けて村長は、ある話をクライヴに聞かせてくれた。
「これも本当かどうかは定かではないのですが、なんでも眠りの魔女さまとドラゴンは敵対する者同士らしく、ドラゴンの匂いがあるものを魔女さまはことさら嫌うといわれておりますな」
「……なるほど」
クライヴは、ある考えをひらめく。
そのためには、いずれにしてもまずはドラゴンの封印を解き、倒す必要があった。
***
そこからクライヴたちがその小さな村を離れ、広大な森を抜け、ドラゴンが封印されているという北壁にたどり着くまでに、季節が二度変わるほどの時間を要した。
その後、王家に伝わる文献の写しを頼りに、ドラゴンが封じられている場所を探し当てるまでに、また季節が二度ほど変わり、そこから初代国王がかけた封印を解くには二年もの年月がかかった。
封印から強制的に目覚めたドラゴンは、完全には覚醒しておらず、やや酩酊状態ではあったが、それでも倒すことは容易ではなかった。
三日三晩戦い抜き、お互いの気力が尽きかけようとした頃、ようやくドラゴンの息の根を止めることに成功する。
ドラゴンの硬い鱗をはぎ取り、心臓を取り出す。
ドラゴンの心臓は、アメジストのような深い紫色をした結晶だった。
ようやく手に入れたドラゴンの心臓を手に、クライヴは休む間もなく、眠りの魔女が棲まうとされる森へと向かった。
森に足を踏み入れたものの、鬱蒼とした森の中のどこに魔女がいるのかもわからず、長い間さまよい続け、焦りばかりが募る。
そんな中、ある日偶然、濃い霧が漂う森の中、わずかに霧が晴れる場所に小さな湖を見つける。
湖を覗き込むと、長い黒髪の女性が眠るように湖の中に横たわっていた。
(──眠りの魔女だ)
直感的にクライヴは思った。
迷いなく、ざぶざぶと湖の中に入り、懐からドラゴンの心臓である紫色の結晶を取り出す。
そして、魔女の顔の近くに寄せた。
その瞬間──。
「──ぶはっ‼︎ くさい‼︎」
勢いよく眠りの魔女が目を覚ます。
かなりのいらだった様子でクライヴに険しい視線を向け、指先で鼻をつまむ。
「──はあ⁉︎ あんた誰よ! でもって、そのくっさいのを早くどこかへやってくれないかしら?」
クライヴは、手元のドラゴンの心臓を見つめる。
「……まさか、本当に目覚めるとは」
正直なところ、ドラゴンの心臓で眠りの魔女が目覚めるかは半信半疑だった。
それに魔女はしきりにくさいと言っているが、クライヴや仲間たちにとっては、無味無臭のただの石の結晶にしか見えない。
「眠りの魔女殿で間違いないか」
クライヴは尋ねる。
「あら、わかっていて眠りを邪魔したのね。いけない子ね」
魔女は妖艶に微笑み、クライヴの頬に指先をスッと突きつけ、なでるように上へと滑らせる。
クライヴは魔女から目をそらさず、
「すまない、眠りを邪魔されるほどいやなものはないと理解している。しかし、ある少女の命がかかっているんだ。どうか、このドラゴンの心臓を使って、ドラゴンの呪いを解く薬を作ってくれないか」
魔女は目を瞬かせる。
ややあってから、子どものように大きく口を開いて笑いはじめる。
「あーはははっ! 眠りの重要さをよくわかっているなんて、できた人間じゃない。そうよ、お肌のハリとツヤを保つためにはきちんとした質の高い睡眠が必要なのよ。そこのところ、きちんと理解してくださる?」
クライヴはことさら真剣に頭を下げ、
「ああ、重々承知している。しかし、事は急を要する。ある少女の命を救ってほしいんだ。そのために、あなたの力を貸していただけないか」
魔女は、クライヴの真意をたしかめるようにじっと見つめる。
しばらくしてから、面白そうににんまり笑い、
「ま、いいでしょう。人間が訪ねてくるなんてずいぶん久しぶりだもの。でもただで力は貸さない、お礼はしっかりもらうから」
「ああ、私に差し出せるものであれば、望みのものを用意しよう」
「あら、魔女にそんな約束をしていいの? あなたの命をちょうだいって言うかもしれないのよ?」
クライヴはわずかに目を見張る。
クライヴの背後にいる仲間たちに緊張が走る。
ひと呼吸あってから、クライヴは、
「……ああ、望みとあらば差し出そう。ただし、その少女の呪いが解けたあとにしてほしい」
そこで、またも魔女は大きく笑った。
「あはっ! おかしな人間ね! 自分の命と引き換えにするなんて!」
魔女はひとしきり笑ったあとで、
「別に人間の命なんて、何の材料にもならないもの、いらないわ。それよりも久しぶりに目覚めたんだもの。王都には美容にいいものがいっぱいあるんでしょ? たんまり買ってもらうから!」
想像とまったく異なる魔女の言動に、クライヴは目を丸くする。
しかし、すぐに頷く。
「──承知した。そもそもドラゴンの呪いを受ける少女は王都にいる。呪いを解く薬ができ次第、一緒に王都へ行ってもらえるとありがたい」
***
ドラゴンの呪いを解く薬が完成したあとで、クライヴは眠りの魔女をともなって、ようやく王都に帰還した。
王都を去ってから、すでに五年の年月が経過していた。
王都は変わらず、平和で活気にあふれていた。
その上、数日後には王城で建国パーティーが開かれるとあって、街は祝いの雰囲気一色だった。
兄である国王の統治がうまくいっていることを目にして、クライヴは深く安堵する。
しかし、国王に自分の帰還を知らせるため、密かに王城内部と連絡取ろうとしたところ、不穏な事実を知る。
──先頃から、国王は床にふせっている。
同時に得た情報には、宰相であるダラム公爵が怪しい動きをしているという内容も含まれていた。
危機感を覚えたクライヴは、すぐさま王城に潜入することにした。
幸い、魔女の手を借りて一時的に衛兵らを眠らせることができたため、王城への潜入はさほど難しくはなかった。
そして、国王の寝室へと忍び込んだクライヴが目にしたのは、いつ事切れてもおかしくない国王の衰弱した姿だった。
「……兄上」
クライヴはベッドに横たわる、兄である国王の手を取る。
わずかに国王が意識を戻したかに見えた。
「兄上、わかりますか。私です、クライヴです。ようやく帰還いたしました」
国王はぶるぶると指先を震わせ、わずかにまぶたを開ける。
「……ああ、待ちわびた」
と小さく息を漏らす。
しかし、すぐにまた眠るように目を閉じた。
おそらく夢を見ているとでも思ったのかもしれない。それほどまでに危険な状態だった。
眠りの魔女が興味深そうに、クライヴの後ろから国王を覗き込む。
「あら、ずいぶん強力な毒を盛られたのね」
クライヴは、ハッと後ろを振り返る。
そうだ、こちらには眠りの魔女がいる。
クライヴは急いで問いかける。
「解毒は可能だろうか」
魔女は艶やかな唇に人差し指を当て、
「──そうね、できるわ。ちょうど手持ちの薬があるの、調合するだけでいけるでしょ。本当はお金持ちに売ろうと思って持ってきていたんだけど、国王に恩を売っておくのも悪くないわね」
クライヴは頭を下げる。
「頼む。兄上は、この国になくてはならない存在だ」
その後、眠りの魔女にすぐさま解毒薬を作ってもらい、それを飲んだ国王は徐々に意識を保てるようになり、しばらくすると会話できるまでに回復する。
「さすがは魔女殿だな」
クライヴは、思わず感嘆の声を漏らす。
「あら、もっと言ってちょうだい」
魔女はにんまり笑う。
国王はベッドの上で、上半身をかろうじて起こした状態で、
「クライヴ、こんなことになって、本当にすまない……。眠りの魔女殿と言ったか、心から感謝申し上げる」
そう言ったあとで、自分の身に起こったことを語りはじめた。
ある日、国王は息子のレナルドから希少なワインが手に入ったという言葉とともに、一本のワインを受け取った。
数日後に、そのワインを飲んだ直後、ワインに毒が盛られていたことに気づく。
国王はその立場ゆえ、幼い頃から毒への耐性をつけていたが、それをもってしても、瀕死に陥るほどの強力な毒だった。
それでも、かろうじて命だけは取り留めたものの、いつまた命を狙われるかわからない。
薄れそうになる意識を必死に保ちながら、処置にあたってくれていた信頼できる医師だけをそばに置き、毒殺未遂の事実と自分の容態が外部に漏れることを防いだ。
その上で、医師を通じて真相を探った。
すると、レナルドにそのワインを献上したのは、宰相であるダラム公爵だという事実が浮かび上がったのだ。
そこまで聞いたクライヴは、想像以上に悪い出来事が起こっていたことを知り、表情をさらに険しくする。
国王はまだ少し息苦しそうな様子を見せながらも、続けて言った。
「──だが、レナルドから受け取ったワインによって私が毒殺されかけたことが公になれば、レナルドは国王殺し未遂の罪を問われ、処分は免れない。
しかし公にしなければ、いずれこの事実をもとにダラム公爵はレナルドを強請るだろう。そうなれば、ダラム公爵に逆らうことのできないレナルドは傀儡の国王に成り下がる……。
いずれにしても、ダラム公爵に優位に働くように仕組まれていた。そして、本当に私が命を落としていれば、いま頃はダラム公爵がこのスラウゼン王国のすべての権力をほしいままにしていたはずだ。考えるだけでも恐ろしい……」
「兄上……」
クライヴは、ベッドの上に置かれている国王の手に、自分の手を重ねる。
国王は顔を上げ、苦しげに、
「お前がいない間に、もしそんなことになっていたら、私は死んでも死に切れなかった……。それどころか、こうしてお前は身をていしてドラゴンを退治し、アマーリエの呪いを解く方法を見つけてくれたというのに……。ダラム公爵ならば、自分の野望のために王都へ帰還したお前に国王殺しや毒殺未遂の罪をなすりつけ、何がなんでもお前を消し去ろうとしただろう」
クライヴは事の深刻さを受け入れ、ただ黙って静かに頷いた。
たしかに、五年前に死んだことになっている王弟である自分が生きていたと知れば、ダラム公爵はどんな手を使ってでも邪魔な存在である自分を殺そうとしたはずだ。
「──クライヴ」
国王は、為政者たる強い眼差しをクライヴに向けた。
クライヴもその眼差しを受け止める。
ひとつ大きく息を吸い込んだあとで、国王は、
「私は、レナルドの王位継承権を剥奪する。ダラム公爵の罪をも明らかにする。そして、すべてが落ち着いたあとで、お前に王位を譲ろうと思う。──受けてくれるか」
確固たる声音で、はっきりと言った。
目の前の兄が、国王としてではなくひとりの父親として息子であるレナルドを大事に思っていることを、ずっとふたりを見守ってきたクライヴはよく知っている。
それでも、背負うもののためには情けはかけるべきではない、その国王の気持ちが痛いほどわかった。
しばらくしたあとで、クライヴは静かに頷いた──。
***
その後、王城で開かれる建国パーティーで、ダラム公爵が何かを企んでいるらしいという情報を得たクライヴは、国王と示し合わせ、国王はいまだ床にふしていると偽ることにした。
おそらくダラム公爵は、建国パーティーに国王が不在と知れば、いよいよ国王の容態は悪いのだとほくそ笑むだろう。
そうなれば、より大胆に行動するかもしれない。
そうして迎えた建国パーティー当日、クライヴの予想は的中した。
大広間の裏手ある一室に隠れ、事態を注視していたところ、ダラム公爵はレナルドにあいさつをするふりをして、揉め事を起こそうとしていた。
しかし、まさかレナルドがアマーリエの仮面を大勢の前ではぎ取る愚行に及ぶとは思いもよらなかった。
さらにレナルドは、あろうことか、アマーリエのドラゴンの呪いを見て慄くあまり、彼女を罵り、勢いに任せて婚約破棄まで突きつけたのだ。
クライヴは、怒りで我を忘れるかと思った。
だが、まだ事の行方を見守るようにと国王に強く制止され、身を切られる思いでぐっと堪えた。
しかし、アマーリエが衛兵らの手によって罪人のように拘束されるのを目にした瞬間、もう黙って見ていることはできなかった。
クライヴは、国王の呼び止める声も聞かず、すぐさま駆け出す。
背後から国王が、
「──仕方ない、クライヴに続けっ!」
と待機していた騎士たちに告げた──。
***
──国王の毒殺未遂という前代未聞の事件と建国パーティーでの一件のあと、国王は王弟であるクライヴに王位を譲ると宣言した。
それからさらに、一か月が経ったある日、
「──わたし、聖女を辞めます」
アマーリエは、断固として譲らない気持ちで臨んでいた。
教皇庁の敷地内にある庭園の一角。
目の前には、困り果てた顔のクライヴが見える。
アマーリエは、もう一度口にする。
「──ですから、クライヴさまのおそばに置いていただけないのなら、わたし、聖女を辞めます」
大人のクライヴにとって、十一歳も年が離れているアマーリエなど、子どもにしか見えないことは痛いほどわかっている。
でも、決めたのだ。
(もうクライヴさまを失いたくない。ずっとそばにいたい──)
だから、卑怯は承知でクライヴが断れないであろう言葉で、そばにいさせてもらう約束を取り付けようとしているのだ。
クライヴは両手をおろおろさせながら、まるで駄々をこねる子どもをあやすように、
「……アマーリエ、ドラゴンの呪いを解いたことを恩に感じているのなら、きみが気にする必要はないんだ。だから私のそばにいる必要はない。これからはきみの好きにしてくれればいい。それに、もし仮に聖女を辞めたい気持ちがあるのなら、そうだな、うん、かなり難しいとは思うが、私から教皇に相談してみることもできるだろう」
アマーリエは、頬をふくらまし、むくれたようにそっぽを向く。
「……そういうことじゃ、ないんです」
ますます子どもにしか見えないとわかっているが、自分の思いがまったく伝わっていないことが悔しい。
「そ、そうか、すまない……」
クライヴは弱りきった様子で髪の毛をかき上げる。
そのあとで、ふと、別の説得できる言葉を思いついたのか、
「でも、ほら、もうきみは王太子の婚約者でもなくなったのだから、無理をしなくていいんだ。きみの人生はきみのものだ」
アマーリエは、ますますむくれる。
このままふくらみ続ければ、リスのようにほっぺたがパンパンになってしまうかもしれない。
しかし、クライヴとの約束を取り付けるまでは引けない。
国王が王弟であるクライヴに王位を譲ると宣言したことを受けて、来年の建国パーティーでは、新たな国王としてクライヴが即位する予定だ。
そのため、次期国王として引き継ぎなどに追われているクライヴは、非常に多忙だった。
実際こうして会うことができたのも、アマーリエが教皇を通して願い出てから一か月後のことだった。
それほどまでに、ふたりの距離は遠い。
アマーリエは、長身のクライヴを仰ぎ見る。
(……クライヴさまが国王になれば、いずれその立場にふさわしい方を王妃として迎え入れることになるわ)
教皇庁の中でも、その話題で持ちきりだった。
本来なら、聖女を娶ると国が栄えるという言い伝えにのっとり、王太子であったレナルドと同じように、国王になるクライヴにも聖女であるアマーリエを娶ることが打診された。
しかし、クライヴがそれをやんわり断ったのだ。
こんなことになってしまったアマーリエへの最大限の配慮だということは、明らかだった。
そのため、適齢期の令嬢がいる国内の有力家門がいくつも、クライヴの婚約者候補として名乗りをあげているという。
アマーリエの金色と緑色が複雑に混ざる瞳に、じわりと涙が浮かぶ。
「ア、アマーリエ……、泣かないでくれ!」
クライヴは、必死でアマーリエをなだめようとする。
「……泣いてまぜん」
アマーリエは強がるようにつぶやくが、わずかに鼻声になっている。
そのあとで、気持ちを落ち着かせるようにふうと息を吐き出すと、
「クライヴさまを困らせたいわけじゃないんです……。クライヴさまがお忙しいのはわかっています。わたしのような者が、本当におそばにいられるとは思っていません。ただ、これからも、あなたにお会いできるというお約束をいただけるだけでいいんです、それでもだめですか……」
言葉のとおり、アマーリエとて、クライヴを困らせたいわけではない。
やさしいこの人は、無理だとわかっていても、なんとかして精いっぱい応えようとしてくれる。
聖女でなくとも、自分がクライヴの妻になるなど、年齢差だけでなく、あらゆる面であり得ないことだとわかっている。
だから、せめてクライヴが愛する人を見つけるまでのわずかな間だけでも、そばにいたい。
それが、アマーリエの唯一の願いだった。
──ただ一言、これからも会えるという約束がほしい。
アマーリエは、これ以上涙があふれてしまわないように、ぐっと唇を引き結ぶ。
すると、クライヴの大きな両手のひらがアマーリエのほっぺたを挟む。
アマーリエの顔が、くっと上を向く。
突然、クライヴの濃い青色の瞳が目の前に見えて、アマーリエは動揺する。
ふくらんでいたほっぺたは、すでにしぼんでいた。
クライヴが屈託のない顔で笑う。
「なんだ、そんなことでいいのか? それなら、いつでもきみの会いたいときに王城へ来ればいい。甘いお菓子でも用意しておこう」
アマーリエは、きょとんと彼の顔を見返す。
「……いいのですか?」
クライヴは不思議そうに首を傾げ、
「ああ、私もきみに会いたいし、でもこうやって教皇庁に来れる時間がなかなか作れなくてな。きみから会いに来てくれるならうれしい」
その言葉を聞いたとたん、アマーリエの透き通るような白磁の頬が真っ赤に染まる。
もう顔を上げていられなくて、思わず下を向く。
「え、どうしたんだ?」
クライヴは体を傾け、心配そうにアマーリエを覗き込む。
アマーリエは下を向いたまま、
「……毎日、行きます」
うれしさと恥ずかしさを精いっぱい隠しながら、小さな声で言った。
〜*〜*〜*〜
──一年後、開かれた建国パーティーで、クライヴは正式にスラウゼン王国の国王となった。
国王クライヴの隣にいるのは、未来の王妃となることが決まっている、聖女のアマーリエだった。
あれからふたりは少しずつ思いを通わせ、正式に婚約を交わしたのは半年前のこと。
周りにいる者たちは、年下のアマーリエのほうがかなり積極的だったと感じていたが、その事実は国王の名誉のためにみなそれぞれの胸のうちにそっとしまっているらしい。
さらに、隣国で発行され、この国でも大流行したあの恋愛小説の生みの親である作家が、スラウゼン王国の新国王と未来の王妃となるふたりの実話を、ぜひ小説にさせてほしいと頼み込んできたという話もあるとか、ないとか。
来年の建国パーティーでは、ふたりの挙式が盛大に行われる予定だ。
その後、聖女を王妃として迎え入れたクライヴ国王は、理想の君主として国をよく治め、のちに名君と呼ばれるまでになり、スラウゼン王国はより一層繁栄した──。
最後までご覧いただき、本当にありがとうございます!
少しでも楽しんでいただけるとうれしいです(*ˊᵕˋ*)
「面白かった!」「応援しようかな!」「別の作品も読みたい!」など思っていただけましたら、ブックマークや、下にある☆ボタンなどを押していただけると次回作の励みになります!よろしければ、よろしくお願いいたします(*´▽`*)
ちなみに、こちらの短編投稿時に連載していた作品が完結しました!
また違った内容・登場人物たちになっていますので、楽しんでいただけたらと思います。よろしければ、ご覧いただけるとうれしいです!
【完結】『死に戻りの仮初め伯爵令嬢は、自分の立場をわきまえている』
https://ncode.syosetu.com/n2956ik/
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