二十七話・罪の魔王(2)
駆け寄って剣を振り下ろす。
すると魔王は反応してきた。
隙だらけの所作から一転、弾かれるように左の剣を振るう。
アッシュの攻撃を防いで見せた。
「…………」
その技量は落ちていた。
先程までよりは劣る。
だが開戦時から見れば上がっている。
最初は本当に、ただ棒切れのように剣を振り回すだけだった。
この差について考える。
理性のない、獣のようだった敵は、死ぬ度に強くなり続けた。
並外れた技量を見せ、魔法を使い始めるまでに。
だが突然元に戻った……かと思われていたが、最初よりは少しだけ強い。
振り返ってみると、どうも奇妙な変化だった。
単純に殺す度に力を増す、という訳ではないのかもしれない。
前の『聖地蹂躙』の怪物とは違い、どこかのタイミングで弱体化するからだ。
となると、強化の法則と、弱体化の法則を知る必要がある。
また、どうすれば完全に殺せるのかも。
だから、様子を見るためアッシュは軽く剣を合わせた。
そして下がって観察に集中する。
弱い状態から、強くなる瞬間を見極めたかった。
すると、アッシュの代わりにノインが前に出た。
鋭い気合の声と共に渾身の横薙ぎを放つ。
ガードして、魔王は数歩下がる。
そこでさらに追撃が来た。
無数に展開されたシドの『氷矢』が、全方位から魔王に殺到する。
しかしすぐに、彼の舌打ちが聞こえた。
魔術が命中しなかったのだ。
「…………チッ」
押し寄せた『矢』は、全てが双剣により撃墜されてしまった。
魔王は次々に氷の魔術を切断していく。
粉々に砕けた氷が、かすかな煌めきを残して消え去っていった。
そして魔王は低く構える。
次の瞬間には地を蹴って、前傾の姿勢で駆け抜けてアッシュに肉薄してきた。
「……っ」
拷問刀と処刑刀による、独特の剣技が迫る。
低く低く構え、下からの攻撃を放ってきた。
さらに常に前進し、自らが刺されようとも敵を傷つけるような捨て身を纏っている。
それは魔王の不死という性質と噛み合っている。
が、脅威とは別に哀れを感じずにはいられない太刀筋だった。
体に染み付いたような捨て身の動きから、どんな人生を送ってきたのかが少しだけ分かった。
なにか悲壮を滲ませる刃だった。
「…………」
助けてくれと、そう言っていたのだと不意に思い出す。
感傷も同情も浮かばない。
躊躇うことなど論外だった。
だが、それでもこの怪物にとり救済とはなんなのか。
剣を振る脳裏にそんな考えがちらついた。
と、そこでノインがうろたえた声を上げる。
「アッシュ様、どうすれば……!」
「すまないが、まだ分からない」
殺してもいないのに、魔王が能力を増しているのが分かったのだろう。
シドの『矢』の援護と数の優位が合わさり、今のところは優位を保てていた。
しかし相手が力を増し続けるとすれば、これから先どうなるかは火を見るより明らかだった。
魔王を殺す方法を考え続けていると、不意にミスティアが語りかけてきた。
「一応言っておくけど。この魔王に関する逸話とかは何もないよ」
「そうだろうな。分かっている」
この魔王は、名もないロスタリアの民だったのだから。
「………」
だが、ふと思い当たりアリスに視線を向けた。
逸話がないのなら、彼女に読み取らせることはできないだろうか。
すると、視線を感じ取ったのかアリスがすねたような声で口を開く。
「……なんですか。前見ないと死にますよ」
「別に」
「私になにか意地悪しようとか考えてませんよね?」
「お前は鋭いな、本当に」
しかしその考えはすぐに捨てる。
魔王の思考に感応などすれば、どんな悪影響があるか分からない。
また、狂人の思考など読めるかも定かではなかったからだ。
無駄に危険な橋を渡らせる意味もない。
だから、代わりの案を口にする。
「考えがある。魔王に致命傷を与えないようにしてくれ」
「どうするつもりだ?」
まず言葉を返したのは、予想よりも乗り気な様子のシドだった。
小さく頷いて答える。
「こちらで魂を奪ってみる。大半の敵は剣で刻む方が早いが、こいつはそうもいかないようだ」
剣で刻んでも死なないのなら、魂を引き抜いて殺す。
そんな言葉に、ミスティアが驚いたような声を漏らす。
「魂を奪う……? そんな禁術があるんだね……」
驚きの中には、どこか呆れのような色もあった。
何も答えず、アッシュは魔王へ向けて走り始めた。
「……『六式』」
剣を収め、詠唱を済ませたところで両の手は禁術の光を纏う。
そのまま魔王に肉薄すると、ノインとミスティアも援護のため並んできた。
シドの、うんざりしたような声も聞こえる。
「……ミスティア、今の詠唱は忘れろよ」
どうやら、この魔術は彼にとっては忌むべきものに感じられたようだ。
それはともかく戦いは始まる。
魔王の、大振りの縦斬りを半身になってかわした。
続く横薙ぎを二歩ほど引いて空振らせる。
しかし攻撃は次々に繰り出される。
ふらりと避けながら隙を伺っていると、ミスティアの援護が来た。
「『星落とし』」
雷の飛び蹴りが放たれる。
同時に、ノインの大剣も振り下ろされた。
魔王は蹴りを右の剣で、大剣を左の剣で受け流す。
だがまだ終わりではない。
ミスティアは着地して正拳を繰り出した。
ノインは素早く斬り上げを重ねる。
二人はそのまま苛烈に攻め立てていた。
だが、魔王は見事な足さばきと巧みな剣さばきで柔軟にやり過ごす。
アッシュは機を伺うために傍観していたが、やがて魔術師の一手により決定的な機会を得た。
「『氷走』」
氷の波が戦場を駆け抜ける。
ノインとミスティアが退いた。
すぐに状況を把握した魔王は、両の剣を交差するように構える。
そして地響きと共に迫る氷の波を、凄まじい連撃で斬り刻む。
だがそこで、シドが鼻で笑った。
「……あまり舐めるなよ、魔王」
そして、次の魔術の名を唱えた。
「『氷矢』」
砕かれた氷の波の破片が、いくつもの『矢』に変わる。
完全な不意打ちだ。
まさか、砕いた魔術が別の魔術になるとは。
そしてその『矢』の全てが足へと向けられている。
予想外の攻撃に反応しきれず、魔王の足はズタズタに引き裂かれた。
彼に称賛の言葉を送る。
「いい腕だ」
氷の矢は刺さった後も砕けていない。
だから、刺さった矢が邪魔して足を再生できていない。
アッシュは今ならやれると判断し、即座に魔王の前に立つ。
拷問刀で斬りつけてきたが、足が動かないせいか踏み込みが足りていない。
遅い刃を、右手の鎧の装甲で軽く流す。
いま、鎧の騎士の姿で戦っているからできることだ。
続いて魔王の腕を取って、関節を固めて投げ飛ばした。
敵はすぐに立ち上がろうとするが、顔を膝で蹴って動きを潰す。
そして仰け反った相手の、無防備な腹に赤い光を纏う掌底を押し付けた。
だが、禁術を使用した手応えにアッシュは眉をひそめる。
「くっ……」
出力を全開にしてなおわずかしか削れない。
魔王の魂はあまりに強かった。
しかし零でないのなら望みはある。
そう信じてさらに連撃を重ねる。
体勢を整えた魔王を蹴って、肘打ちと手刀を続けざまに打ち込む。
徒手空拳の連打により、禁術の光を命中させていく。
これで少しずつ魂を削り、死に至るまで奪おうと攻撃を続けていた。
が、その時。
「…………!」
不意に、魔王の右の剣が動く。
紅い光を纏っていた。
それを、敵は自らの首に突き立てた。
ノインが声を上げる。
「自分で……?」
信じがたいとでも言うような声だった。
魔王は、自らの魂を喰らうという理解不能な現象を引き起こした。
そして力を失い、音を立てて倒れる。
「…………」
魂を失った抜け殻だ。
立ち上がるはずもないその姿を見つめる。
すると、動くはずのない体がぴくりと動いた。
「まさか……」
思わず声を漏らす。
魔王の器には、再び魂が満たされていた。
刺さっていた氷の矢は粉砕され、魔王の傷は瞬く間に埋められていく。
その姿を見てようやく、何が起こったのかを理解した。
つまり魔王は、足に刺さった『矢』が邪魔だったから自殺したのだ。
蘇生を引き起こせば、より強い再生により氷の矢も排出できる。
そして、その手段が偶然『自らの魂を喰らう』という行為だったというだけだ。
こいつは状況を仕切り直すために、あっさりと自殺するような存在なのだ。
「……化け物が」
アッシュは呟いた。
肉体も、精神も、余りにも理解の範疇を超えた存在だった。
さらに、魂を奪っても死なないことが確定した。
次の手を考えなければならない。
だが考えつく前に、魔王はこちらへと刃を向けていた。
その処刑刀は、強烈な赤の光を纏っている。
魔王が自分の魂を喰わせたからだ。
仕切り直して再生するのと同時に、処刑刀への生贄が成立したことになっているのだろう。
爆発的に膨らんだ、赤の光が放たれる。
「『氷盾』!」
しかしその光はシドが作った氷の盾が防いだ。
当然、壁は粉々に粉砕される。
だがほんの一瞬でも攻撃を防いだことで、なんとかアッシュは逃げ出すことができた。
「っ……」
間一髪防御が間に合わなければ、死んでいただろう。
転がるように避けたあと、すぐに立ち上がる。
戦線に復帰しようとした。
すると、そこで魔王の動きが止まる。
「『拘束……!』」
またシドの魔術だ。
追撃を仕掛けようとした魔王を、なんらかの方法で止めている。
とはいえこれも二秒ほどで振り切られた。
しかし、その二秒でアッシュはミスティアやノインと合流できた。
また三人で戦うことができる。
「大丈夫ですか?」
ノインが問いかけてきた。
短く返す。
「問題ない」
それから言葉を続けた。
魔王の魂は奪えないということ伝えるために。
「悪いが失敗した。魔王はどうやら、魂ごと復活するらしい」
自分の魔法に喰わせて、蘇ったのだ。
アッシュの手で削り切ることはできなかったが、試みる意味がないことは明らかだった。
そんな報告に、ミスティアが腹立たしげに答える。
「嘘でしょ? ……全く、一体どういう手品なの」
彼女の声をよそに、剣を構える魔王の姿を見ていた。
だが、やはり蘇生の仕掛けは読めそうになかった。
そこで、ノインが張り詰めた声を上げる。
「……来ます!」
同時に、魔王が駆けてくる。
右の剣に紅の魔法が宿っていた。
アッシュは小さく舌打ちをして口を開く。
「このままでは埒が明かない。……シド、あれを跡形もなく消し飛ばせるか?」
三人で、なんとか相手をしながら問う。
すると彼は、一瞬の間を空けてアッシュに答えた。
「……ギフトを解放して、ミスティアと二人なら」
「ギフト。そうか、君にはそれがあるのか」
使徒が神より授かる固有の能力だ。
これが彼にもあるのだ。
シドは言葉を続ける。
「詳しく説明する暇はない。実演してやるからそこを退け」
すぐにアッシュたちは退く。
独り言のようにアリスが呟いた。
「さて、どんなものですかね。クソガキ……あっ」
彼女は、その声が虫に拾われているとは思わなかったのだろう。
うっかり全員に聞こえてしまったようだ。
取り繕うように咳払いをしていたが、誰も反応はしなかった。
「行くぞ。……『詠唱破棄』」
シドがギフトを発動する。
直後、とてつもなく巨大な蒼い雷の塊が目の前を横切った。
魔王に命中する。
一拍遅れて、衝撃が巻き起こす風が頬を撫でた。
「…………」
そこで、ようやくあの塊の正体に気がつく。
数え切れないほどの数の『雷杭』の群れだったのだ。
「この通り、僕はしばらくの間詠唱なしで魔術を使える。……だが、肝心なのはそこじゃない。このギフトを使えば、僕は遺失した魔術をも使うことができる」
唐突な攻撃に対応しきれず、雷に打たれた魔王は焦げ付いていた。
しかしまだ死んでいないようだった。
弱々しくもがく姿を横目にしつつも、追撃はしないことにする。
下手に殺してまた強くなったら作戦に支障が出るかもしれない。
魔王の動きを警戒しながら、さらに問いを重ねる。
「それはどういうことだ?」
どうして、詠唱を破棄することが遺失した魔術を使うことにつながるのか。
分からなくて尋ねると、すぐに答えが帰ってくる。
「簡単に言うと詠唱が必要ないからこそ、詠唱が不明の魔術も使えるということだ。そして、この力で僕は『薄氷』を使う」
するとそこで、アリスが若干驚いたような反応を見せた。
「薄氷ですか……」
『薄氷』はかつて剣騎士と呼ばれた古い英雄が使ったのだと謳われるルーンだ。
ルーンの形のみは知られているものの、使える者がいないため詠唱は失われ、詠唱の再発見も為されていない。
故に遺失魔術であるとされている。
そして、それを使えるとシドは言う。
「とはいえ、ほとんど情報のない魔術を再現するんだ。無理があるから、消費はオリジナルとは比べ物にならない。……だから僕が術を組んで、自前の力で身体強化したミスティアに使わせるって訳だ」
自前の力……つまり、使徒の眷属たるミスティアのギフトだ。
どうやらそちらは身体能力の強化らしい。
これを使って術の負荷に耐えるということだ。
手はずは十分理解できた。
「なら、頼んだ。準備の間は俺とノインでなんとか抑え込む」
アッシュの答えを聞いて、ノインが口元を引き結んだ。
過酷な戦いになると考えているのかもしれない。
そんな彼女をよそに、またシドが声をかけてくる。
「三分でいいぞ。自分で使うなら詠唱は要らないが、ミスティアとの調整にそれだけかかるんでな」
「分かった」
と、そこで。
ちょうど再生を終えた魔王が剣を構える。
同時に、ミスティアが準備のために下がって行った。
アッシュは前を向いたまま彼女に語りかける。
「こちらは任せてくれ」
ノインも続いた。
「なんとか、時間を稼ぎます」
直後に魔王が動いた。
二人になったのを好機と見たのかもしれない。
左の剣に闇を纏わせて、こちらへ駆けてきた。
アッシュは、ノインとタイミングを合わせるために声をかける。
「行こう」
「はい!」
ノインを見て、次に魔王を見た。
続けて一瞬だけ思考し、アッシュは彼女に声をかける。
「俺が前に出る。君は一歩引いてカバーについてくれ」
「えっ」
虚をつかれたような声だった。
もしかすると、彼女に魔王の相手は任せられない……などと判断したように思われたかもしれない。
だから一応、もう一言付け足しておく。
「……信用してない訳じゃない。俺の方が堅いからだ」
今は三人ではなく二人だ。
この状況でノインを前に出すことは、戦力の損耗に繋がりかねないと判断した。
装甲を持っていて、場数も踏んでいるアッシュが前に出るべきだった。
しかしもう話している暇はなさそうなので、最後の言葉を伝えておく。
「とにかく二人で、三分間生き残る。機会があっても不用意には攻め込むな」
「わかりました」
返事を聞き届けた。
戦いが始まる。
眼前に迫る魔王に、まずは魔術を放つ。
「『炎杭』」
爆炎が視界を遮るのを恐れて出力は抑えた。
魔王を一瞬でも見失うのは怖い。
だが出力を抑えた魔術でも、魔王の足を少しだけ遅らせることができた。
その隙にアッシュは剣を捨て、『土』のルーンを刻んだ槍に持ち替える。
やはり守りに徹するのなら、剣の間合いでは不安があった。
「…………」
槍を構え、魔王の前に出る。
得物には既に『構造強化』を施してあるので、攻撃を受け流すだけなら多少は耐えられるだろう。
そんなことを思いつつ、次々に繰り出される刃をかわす。
右から、左から、かと思えば下から。
変則的で、かつ高度差のある優れた連撃だった。
それを後ろに下がってやり過ごしながら、槍の先でも剣をあしらって凌ぐ。
とはいえ、本来一人で前に立ち続けることなどできるはずもない。
だがノインが上手く動いてくれた。
「援護します!」
血の刃が飛んだ。
一歩引いた位置から、的確に援護してくれていた。
魔王は、血の刃自体はたやすく回避してみせる。
しかしかすかに立ち回りが乱れる。
その隙を利用し、すぐに波状攻撃を仕掛けた。
「……っ」
だが、槍の刺突は左の剣で防がれてしまった。
反撃を予感してアッシュは下がる。
だが魔王は踏み込んできた。
左手の剣の闇をぞわりと蠢かせる。
そのまま大振りに構え、魔法を纏う刀身から闇の刃を解き放った。
そして斬撃が飛んでくる。
地を抉り、音よりも速く飛来してくる。
なんとかかわした。
すると魔王は地を蹴った。
「なっ……」
思わす声を漏らす。
何故なら誰もいない、離れた場所に魔王が去っていったからだ。
意図を図りかねていたが、すぐに気がつく。
魔王の目の前には一体の異形がいた。
アリスが始末しきれていなかったものだろう。
その体に、右の剣が突き立てられる。
「クソっ……!」
悪態をつく。
生贄の魂を取り込み、右の剣から赤い光が溢れ出した。
血のように赤い光が爆発し、眩いほどの極光となる。
そこで、左手の闇の魔法も呼応するように勢いを増す。
魔王はその、黒と赤の刃を交差するように解き放った。
アッシュは目を見開く。
「ノイン、避けろ!」
狙いはノインだった。
身動き一つ取ることもできていない。
敵の魔法が速すぎるのだ。
だが、停止した彼女を間一髪で付き飛ばすことができた。
「おい、アリス。異形の始末は任せたはずだ」
ノインを庇った後、立ち上がったアッシュは苦言を呈する。
アリスは実に面白くなさそうに答えた。
「いや。数多くなってますでしょ、どう見ても。私一人で次から次に始末しきれるはずもないじゃないですか」
言われて、アッシュは冷静になった。
確かに彼女を責める場面ではなかった。
自分はいま焦っていると自覚する。
「……確かに、悪かった。すまない」
確かに、降りてくる異形は数を増やしている。
彼女も真剣に対応しているのだろう。
無闇に責めるべきではなかった。
謝罪し、すぐに敵へと視線を向ける。
「…………」
すると魔王はその場に立ち尽くしていた。
魔法を放った場所から一歩も動かず俯いていた。
だが不意に顔を上げたかと思うと、唐突に不吉な絶叫の声を上げた。
「ぅあ、ぁ……アアアアアアア!! アアアアアアアアアアア!!!!!」
アリスがまたうんざりしたようにため息を吐く。
「……うるさいですね」
空気を震わすような叫びに対してなのか。
あるいは、別のなにかに対してなのか。
そんなことを尋ねる間もなく、やがて魔王の叫びが止んだ。
何かが起こるような……不吉な予感がして、アッシュは思わず声を荒立てた。
「今度はなんだ……!」
この疑問の答えはすぐに明らかになる。
魔王の叫びが止むと、ふらふらと彷徨っていた異形たちの様子が変わった。
明確な目的を感じさせる、統一した動きをとり始めたのだ。
すなわち、魔王のもとへと一斉に集い始める。
「…………」
無言になった魔王が、その赤い瞳でアッシュを見据える。
なんの感情も感じられない目だった。
ほんの一瞬だけ視線を合わせたあと、魔王が地を蹴った。
「どうします、アッシュさん?」
アリスの声だ。
恐らく、誤射を恐れての発言なのだろう。
魔王の周囲に異形たちが集まってきた以上、閃光で薙ぎ払えばアッシュたちも巻き込まれる可能性が出る。
魔王の一番近くで戦っているからだ。
「…………」
余裕のない頭を必死に回す。
そしてアリスに一応の返事をした。
「竜以外の召喚獣で、なんとか対処を頼む」
竜でなければ誤射はない。
影の兵隊を出して物量で対抗してもいいし、影の巨人の拳で叩き潰してもいい。
だが、細かい説明を口にする余裕はなかった。
魔王が剣を振りかざし、闇の刃を飛ばしてきた。
かと思えば、今度は接近して斬り合いを挑んでくる。
「っ……!」
苦しい声を漏らす。
集まってきた異形が邪魔だ。
しかし、魔王の気を引くためにも逃げるわけにもいかない。
シドの方に行かれたら、それこそ最悪だ。
だからノインと二人で、じりじりと追い詰められていくしかなかった。
しかしそこで、ノインの動きが変わった。
異形の群れを、巨大な血の刃で一息に斬り払う。
さらに何度も魔王と剣を合わせた。
アッシュは息を呑んで名前を呼ぶ。
「ノイン、君は……!」
見れば彼女は、例の最大強化の魔術を使っているようだった。
白い肌をひび割れさせ、長大な血の大剣で魔王へと斬りかかっている。
「…………!」
大剣と双剣のぶつかり合いは、人外の怪力の衝突によって壮絶な音を伴っていた。
そこにアッシュも肩を並べる。
大剣の連撃の隙間を塗って、槍の刺突を浴びせかけていく。
たがそうして保たれていた、束の間の均衡はすぐに破れた。
魔王が周囲の異形を利用し始めたからだ。
異形を斬って赤の刃を解き放つ。
さらに、これに闇の魔法をも重ねてきた。
魔王は手数と攻撃範囲、そして火力をもってアッシュたちを圧倒し始める。
「はぁっ……はぁ……!」
荒い息を吐きながら、なんとか足止めを続けた。
アリスも異形を処理してはいる。
人影や、さらに巨人やらなにやらが集まって処理に奔走しているのだ。
だが、どうしても魔王の周囲の異形が枯れることはなかった。
そうして、拷問刀が黒を放つ。
処刑刀が赤を振るう。
この、尋常ならざる速度と切れ味を誇る魔法は、なによりも動作の手軽さが脅威だった。
一撃を放った後に、あるべき隙が全くなかった。
まさに撃てば撃つだけ有利になるような魔法だ。
それでいて、一撃当たれば即死する威力を秘めている。
こんな代物を剣技に交えて速射するのだから、もはや手がつけられなかった。
アッシュたちはなす術なく追い詰められていた。
しかし、そこでようやくシドの準備が整ったようだった。
「……悪い、待たせた。全力を叩き込む」
声に振り向くことはできなかった。
だがそれでも、肌を刺す膨大な魔力の蠢きが魔術の完成を知らせていた。
そばにいた、傷だらけのノインに声をかける。
「引こう」
なんであれ魔術師の切り札だというのなら、巻き込まれれば命はない。
示し合わせて全力で退却した。
当然、魔王はその後を追おうとする。
しかし、それより先にミスティアが前に出てきた。
「……!」
そして、その瞬間アッシュは見た。
ミスティアの右腕が、巨人の剣のように鋭く大きな蒼い雷光を纏っているのを。
彼女がシドに呼びかける。
「シド様、お願いします!」
……『薄氷』、当然ながらその魔術を見たことはなかった。
しかしあの腕を覆う雷光は、伝説に語られるだけの力を信じられるような輝きを秘めていた。
「『薄氷一閃……!』」
魔術が発動する。
魔王を前に、正拳の構えで振り抜かれた。
その一撃は雷を破裂させて、広間を真っ白に漂白する。
「っ……!」
生まれるのは音を超えた音と、衝撃を超えた衝撃だった。
もう知覚できるような域ではない。
ただ白く染まった光景の中で、余波で吹き飛ばされないように耐えるのが精一杯だった。
爆風が、広間の中でひたすらに荒れ狂っている。
解き放たれた雷の熱量は、離れた場所のアッシュたちすら刺すような痛みに感じられた。
そして、それから十秒ほど経過するとようやく蹂躙が終わる。
かすかな痺れと耳に残る甲高い雷鳴の名残りを残して、まるで天災のような雷が広間から消えた。
「…………」
光の氾濫が収まり、まず目に入ったのはミスティアの背中だった。
漂う煙の中で膝立ちになって、全ての力を使い果たしたように肩で息をしている。
アッシュは軽いふらつきを感じつつ口を開いた。
目や耳など、色々と感覚がおかしくなっている。
「……やったのか?」
その問いには誰も答えない。
答えないまま時が過ぎる。
誰もが無言のまま、煙が晴れるのを待っていた。
そして待った先で、やがて明らかになった視界の中に……もうすでに魔王はいなかった。
凄絶なまでの破壊の痕跡の上に立っていたものは、全てが肉片一つ残さず消えた。
異形も、そして魔王もだ。
見れば、信じがたいことに塔の壁にまで大穴が穿たれている。
随分久しく感じる、本物の夕陽の光が差し込んでいた。
「良かった。……やっと終わった、ね」
荒い息の中でミスティアが微笑む。
アッシュがそれに答えようとしたところで…………。
――――ふと頬を、血混ざりの風が撫でた。




