五話・帰路
ロデーヌを出た頃にはすでに陽は傾きかけていた。
だから、調査を終えて帰り着く頃にはもう星が出ていた。
今日の探索を終えたアッシュは思い返す。
ベルムの森は、全く酷いものだった。
殺しても殺してもきりがないほどに魔獣が溢れ、時にはロデーヌを襲撃した群れに近いレベルの集団と遭遇することさえあった。
余りにもとめどなく魔獣が押し寄せるものだから、時折探索という目的を忘れそうになったほどだった。
閉じられた城門の横の小さな扉をくぐる。
街の中に足を踏み入れる。
突然現れたアッシュを見て、門番らしき男はぎょっとする。
しかし話が伝わっているらしく呼び止められることはなかった。
城門から少し歩くとロデーヌの市街に入る。
夜なだけはあって人通りはかなり少なく人の気配はない。
みな家に帰っているのだろう。
家々につけられた木製の鎧戸から、時たま朧げに明かりが漏れているのを目にする。
おそらくはランプだろう。
しかし灯すには金がかかるし、そこまで明るくもないので人々は夜には仕事をやめて家の中で時間を過ごす。
なので夜警を除いて夜の街を人が出歩くことは少ない。
例外は勇者と盗人くらいだろう。
そんな静かな街を歩いて、街灯に行き当たったアッシュは立ち止まる。
街灯、つまり高く吊るされたランプの燃料は魔獣の油だった。
連中の奇妙な質感の肉は、煮詰めれば燃料の油を多くもたらす。
この街ほど襲撃を受けているのならあり余っていることだろう。
個人的には一匹残らず消え去ってくれることを願っているが、それでも夜の光源は魔獣が支えていた。
とはいえ魔物のアッシュはかなり夜目が利くため、実際そこまでの恩恵を受けているわけではない。
「…………」
光の下で脱いだ上着の汚れ具合を確かめる。
案の定汚れきっていることにげんなりする。
これは井戸なりで水を浴びる必要がありそうだった。
そう考えながら足を早める。
向かう先は騎士団の宿舎だった。
グレンデルの話によれば、この街での宿はそこになるはずだった。
ひっそりとした街を一人で歩いていると、どこからか食事の匂いが漂ってきた。
夕食の時間というには少し遅いはずだったが、それでアッシュは夕食を食べていなかったことを思い出す。
食堂はもう閉まっているだろう。
居酒屋ならまだ開いているだろうが、わざわざ行く気もしなかったので考えを打ち切った。
―――
夜の街をしばらく歩いて、アッシュは騎士団の施設に辿り着く。
兵舎に訓練場、貯蔵庫、作戦司令部……全てを内包するその施設は、夜目に見ても壮観だった。
天を衝く石の見張り塔を擁し、巨大な堀に囲われている要塞には跳ね橋がかかっている。
見回りをする兵士たちのためにか、どこそこに篝火も焚かれていた。
アッシュが跳ね橋に近づくと、橋の番と思しき兵士に呼び止められる。
「失礼ですが、あなたは?」
丁寧な物腰を見るにこちらでも話は通っているようだ。
しかし流石に確認無しで通してくれるほどには甘くないようだ。
例のごとく金細工を見せると、兵士は敬礼して道を開ける。
そして去り際に少しだけ言葉を交わす。
「すまないが、井戸が近くにあれば教えてほしい」
「い、井戸ですか……。お待ちください、案内いたします……」
アッシュが怖いのか、兵士は血の気を引かせつつそう口にする。
少しだけ申し訳なくなったので、その必要はないと答える。
「持ち場を離れなくていい。場所を教えてくれれば十分だ」
その言葉に目に見えてほっとした表情を浮かべる。
だが兵士は、態度には出さずに井戸への道を教えてくれた。
「助かる」
礼を言ってすぐにその場を離れた。
兵士が教えてくれた通りに歩くと、井戸はすぐに見つかった。
そこで外套を脱ぐ。
さらに鎧姿で何度か水を被った。
血を落とすためだった。
外套の方にも水を含ませて、きつく絞る。
それを何度か繰り返して、丁度すぐそばにあった篝火で水気を乾かそうと思い立った。
「…………」
濡れそぼった外套を火に当てる。
汚れは大して取れていないが、とりあえず洗い流せて水気が飛ぶだけマシだろう。
そんなことを思いつつ、気を抜いて火に当たるアッシュの近くを、哨戒の兵が訝しみながら通り過ぎる。
眠いのかあくびを噛み殺して歩いていた。
まだ若い彼は、ずいぶん呑気な様子だった。
戦役中に人間同士の争いが起こることは稀であり、事実今もあらゆる紛争が凍結されている。
だから夜間の施設内の巡回も、敵の間者の侵入や機密の漏洩を警戒してではない。
どちらかというと物資を盗む盗人やらを捕まえるためで、気が緩むのも仕方がないところはある。
見回りの彼と十二回ほど顔を合わせた頃、アッシュはそれなりに乾いた外套を羽織る。
そしてもはやアッシュに目もくれず、ぶらぶらと歩いていた彼に声をかけた。
「夜遅くすみません。宿舎の場所を教えてもらえませんか?」
先程までの反応を見るに、まだアッシュの正体に気がついていないようだった。
面倒を避けるために、なるべく丁寧な口調で教えを乞う。
すると兵士は怪訝な顔をしながらも答えた。
「ん? お前は……さっきから篝火の前に突っ立ってたやつか。……もう春なのに寒いのか?」
「いえ、服を乾かしていました」
「ふーん。で、お前誰なんだよ。黒髪黒目ならあれだな、北の方のやつか?」
どうやら話し好きらしく、いきいきと話し始めた兵士に困惑して頭をかく。
「まぁいいや。堂々としてるとこを見るに盗人ってわけでもさそうだしな。案内してやるよ」
兵士は困惑を見てとったのか、少し微笑んで先に歩き始める。
アッシュはその背中に付いていった。
「持ち場はいいんですか?」
「よかないけど坊主が黙ってりゃ誰も分からない。そういうもんさ」
「なるほど」
やはり話し好きなのか、兵士は先程の話を再開する。
「しかし北の方と言えばあれだな、女がきれいだろう」
「そうでしょうか」
特に覚えのない話だったのでアッシュは首を傾げる。
兵士はそれに人懐っこく笑った。
「ま、俺は行ったことないけどね。そうだ、あっちじゃ何食べるの?」
その問いに少し思い出してみる。
すぐに魔獣に滅ぼされたため、故郷で過ごした頃の記憶はあまりない。
それでも何を食べていたかと聞かれれば、最初に浮かぶのは芋だった。
寒い土地でもよく育ち、収穫量も多いから北の人々はよく食べる。
「芋ばかり食べてましたよ。あまり裕福ではなかったので」
アッシュがそう言うと、兵士は嬉しそうに指を立てる。
ころころと、よく表情の変わる人だと思った。
「芋は俺たちも食うよ。こっちじゃ潰して練って『もちもち』にするのが流行りなんだが、チーズなんかと合わせると結構イける」
「なるほど」
案内を気晴らしで引き受けたのではないか。
そう思うほどよく喋る兵士に、少し閉口しながらも騎士団の敷地を歩く。
そして、アッシュが金細工を見せようか悩み始めた頃、ようやく宿舎の付近に辿り着いた。
「んー、宿舎というとここだな。一応偉い人用のと俺ら兵隊の寮がある。どっちに用があるんだ?」
その問いにアッシュは少し頭を悩ませる。
なにしろどちらが割り当てられたのかアッシュは知らないのだ。
しかし各地から徴兵されたり志願した兵士たちと違って、騎士たちは街に屋敷を構える。
よって、よほどの緊張状態でもない限りは宿舎に泊まり込むこともない。
騎士の宿舎には空き部屋はいくらでもあるだろう。
であるならば、恐らくは士官用の宿舎が割り当てられたに違いないと当たりをつけた。
「騎士の方ですね」
「ああ、騎士ならあっち……って、マジか。そういえば……ん? ……もしかして、お前」
思い当たったように目を剥く兵士に、アッシュは礼を言い別れを告げる。
「案内、助かりました。ありがとうございます」
それから背を向けて、宿舎に向けて歩きだす。
建物の前に立った。
案内してくれた彼によれば、ここは騎士の宿舎だという。
見たところ四階建てほどの高さで、華美なところのない白亜の館だった。
華やかさはないが、いい技術を持った人が建てたと分かる宿舎だった。
木製の扉を開き、宿舎の中に足を踏み入れる。
その中にはいくつものランプが設置されていた。
しかしそれでも暗く、夜の帳が薄くあたりを包んでいる。
しかし、夜目が利くアッシュにはよく見える。
清潔で、品が良く、板張りの床もよく磨かれていて過ごしやすそうな場所だと感想を抱く。
別に、ここでだらだらとくつろぐようなこともないだろうが。
「…………」
アッシュが入った玄関口の広間のすぐの左手にはカウンターがあった。
そしてそこに初老ほどの管理人と思しき身なりのいい男性が座っていたので声をかける。
「夜分にすみません」
彼はランプを側に置いて、なにやら帳簿をつけていたようだった。
だがアッシュの姿を認めるとすぐに立ち上がり、上品な所作で礼をした。
「私はゴルドと申します。この宿舎の管理人の任を仰せつかっております。失礼ですが、そちらはアッシュ様ですね?」
「ああ。部屋まで案内してもらえるか?」
「承知しました」
ゴルドは椅子を机の下に入れて、それから歩き始める。
アッシュは黙って後をついていく。
「アッシュ様、よろしければもう少しだけお帰りは早い方がよろしいかと。このような時間では風呂もままなりません」
「そうだな」
「お夜食はいかがいたしましょうか」
「居酒屋にでも寄る。気にする必要はない」
手間をかけさせることはないと思い嘘をついた。
そんな風に話しているとすぐに到着した。
「こちらがアッシュ様のお部屋になります。お隣にアリス様がお泊りになっておられますのでご留意を」
「ありがとう。世話になった」
ゴルドはまた礼をして踵を返した。
アッシュは去る背を見届けてから自室の隣、すなわちアリスの部屋のドアを叩く。
「夜遅くすまない、入っても構わないか?」
アッシュが聞くと、少しの間を置いて声が返された。
「ああ、少しお待ちを」
遅くなったので怒っているかと思ったがそうでもないらしい。
ドアを開けてくれるのか、近づいてくる足音を聞きつつアッシュはそんなことを思った。