三話・厄災の門
連れられて来た部屋には、飾るための物はなにもなかった。
最低限の設備で執務室の体裁は整えられている。
他にあるものといえば、壁に立てかけられたいくつかの武器のみだった。
しかし家具や建材の質がいいことは十分に伝わるため、質素というような印象はあまり受けない。
むしろ質実とでも表現すべきその部屋で、アッシュたちは応接用と思しき長椅子に腰掛けていた。
「しかし遅かったなぁ。あんまり遅いから俺は待ちくたびれて散歩してたんだぜ」
テーブルを挟んで同じように腰掛けるグレンデルが、背もたれに腕を回してくつろぎながら言う。
「すまない。道中の獣を掃除していた」
アッシュが寄り道の詫びを入れると、彼は納得したように頷いた。
「へぇ、それは頼もしいな。ともかくようこそ、ロデーヌへ」
歓迎するように両手を広げつつ、彼は微笑む。
アッシュの正体を知った上でこんな対応をする人物は珍しかったので、ほんの少しそれに戸惑う。
だが特に何も言わなかった。
「そういえばここ、騎士団長の部屋なんですよね? 勝手に入ってもいいんですか?」
先ほどまで物珍しげにあたりを見回していたアリスが、そんなことを口にした。
すると、グレンデルは困ったような顔で腕を組み、まぁ大丈夫だろ……と言葉を濁す。
「ここが一番快適だしな。信心深い親父は勇者殿が使ったと言えば怒りはすまいよ」
「へー。で、親父さんはどこにいらっしゃるんです?」
その問いに、グレンデルは少し考えて答えた。
「多分礼拝堂だろうなぁ。騎士団の中にあるんだ。もうじき夕の祈りだろう? 親父は日に四度祈ってるから」
アトス教には日に四度祈りの時間が設けられている。
しかしその内、信者たちに強制されているのは昼と夜の祈りである。
けれど忙しい身で朝と夕も祈るというのならば、相当に信心深いのは確かなようだ。
「そら来た、鐘が鳴った」
「ん、そうですね。神官としては、信心深いと嬉しいなぁ」
「俺には期待されても困るけどね」
そんな話の流れに示し合わせたかのように街に三度、鐘の音が響き渡った。
祈りの時間の始まりには、聖堂や教会にある時計塔の鐘が三度鳴らされるのがならわしである。
「グレンデル、仕事の話をしよう」
アッシュとしてはここに来てまで無駄話で時間を潰す気はなかった。
だから自分が遅れておいてなんだとは思うが、早いところ済ませてしまおうと話を切り出す。
「あ、えっと。すまないな」
言いつつ膝をぱしりと叩いて、グレンデルは席を立つ。
そしてアッシュたちが囲んでいるのとは別の、執務用と思しき机の前に来てがちゃがちゃと引き出しを検め始めた。
これじゃないな、親父こんなの持ってたのかよ……、とそんな呟きを漏らしながらも目的の物は見つけたようで、円筒型の紙束を持ってこちらに戻ってくる。
「じゃあ始めるか。これを見てくれ」
グレンデルが机の上に広げたのは、細かい書き込みがびっしりとなされた地図だった。
さらに五色に塗り分けまでしてある。
範囲としてはかなり広域で、ロデーヌを中心にダクトルの大部分を収めているようだが……そのほとんどが黄色ないし赤に塗りつぶされている。
「この地図は?」
「これは騎士団秘蔵のダクトルの精密地図なんだが、魔獣による被害状況に合わせて色分けしてあるんだ。具体的に言うなら、白、青、黄、赤、黒の順番に被害が多くなってる」
アッシュがそう聞くと、グレンデルは軽く頷いて地図についての説明を始めた。
しかし、アリスの方は真面目な話に興味はないらしく、壁に立てかけられた剣をぼんやりと見ている。
「…………?」
それにグレンデルが微妙な顔をする。
さっきまで普通にしていたのに、突然このような態度になる意味が分からないのだろう。
だが彼女に構う意味はないので、アッシュは先を促した。
わずかに調子が狂ったようだが、それでも彼は話を続ける。
「あ、ああ。で、アッシュたちに頼みたいのは知っての通り支門の破壊とそれを守る【門衛】の撃破なんだが。この地図を見れば分かるように、明らかにベルムの森の周囲の被害が激しいんだ」
真っ黒に塗りつぶされた、地図の中でも明らかに異質な区画を指し示して言う。
それでアッシュにも話が読めてきた。
「なるほど」
軽く相槌を打って続きに耳を傾ける。
「で、これは昔から使われてる手だが……支門ってのはつまり魔獣を吐き出すわけだろう? だったら、当然その周りは被害が大きくなる。だからアッシュには森を捜索してほしいんだ」
「つまりそこに支門があると、そういうことだな?」
被害が大きい場所、つまり魔獣が多い場所の近くに門があるはずだ。
古くから人は、そうやって魔獣を狩り出してきた。
グレンデルはうなずく。
「ああ、その通りだ。で、それまでは二人には騎士団の宿舎に泊まってもらうことになる。その辺の案内も兼ねて……」
「いや、俺はもう行くよ」
やるべき事がはっきりしたのならばここに居座る理由もない。
可能なら今日見つけ出し、そしてここを去るつもりだった。
アッシュは言葉を遮って席を立つ。
「アッシュ?」
戸惑いを含んだ声で呼び止めるグレンデルに、アッシュは地図を貰ってもいいかと許可を取る。
「すまないが、この地図は貰ってもいいか? それと、森の地図もあるなら貰えると助かる」
そう言うとグレンデルは釈然としない様子で頷く。
「ああ。それは構わないが……」
言いつつ、グレンデルは腰を上げて先程の引き出しの前に立つ。
そしてもう一枚地図を取ってアッシュに渡した。
「もう行くのか?」
グレンデルの言葉を肯定する。
「早く始めるに越したことはないだろう」
「いや、司教に挨拶とか、しないのか……?」
「勝手に話は伝わる」
アッシュが言うと、それまで沈黙を守っていたアリスが神官である手前か面倒くさそうに口を挟んだ。
「いやいや、司教、というか領主には顔くらい見せるべきだと思いますよ。……ほら、歓迎パーティーとかしてくれますよきっと」
しかしアッシュにはあまり行く意味を感じられなかった。
教会は人造勇者を嫌っている。
だというのに、呼ばれてもいないのに行ってなんになる。
ありもしない歓迎の意を示す宴会かなにかに出ろというのか。
しかしそんなことに時間を費やすべき道理はなかった。
その間に魔獣の一匹でも殺した方が遥かに有益だ。
道中の村で見たように、今も魔獣が人間を殺しているからだ。
「魔獣は宴会をせずに殺す。だから、俺もそうする」
「薄々気づいてはいましたがとんでもない人ですね、あなた」
アッシュがそっけなく返すと、アリスは呆れ顔になる。
手に負えないと思ったらしい。
と、そこでまた鐘が鳴り響いた。
今度は先程の音とは違う方角から聞こえた。
音色も少し甲高く、どこかこう、本能の部分に爪を立てるような不快感を伴う音だった。
「また祈りの時間ですかね?」
とぼけるアリスを一瞥して、アッシュはグレンデルに声をかけた。
「これは?」
アッシュの問いに、グレンデルは苦々しく表情を歪ませる。
「敵襲だ。城壁の四方にある見張り台に設置してある鐘が、敵の襲撃があったら鳴らされる手筈になってる。今の分だと恐らく西の方だ」
「西か……」
アッシュはそう言ってグレンデルに背を向けた。
すると、グレンデルは安堵したような声を漏らす。
「助かった。正直もうそろそろこの街も限界だったんだ」
その言葉に思わず振り返る。
「限界?」
「なんだかんだ一番防備が整ってるのはここだからな。司教には内緒だが周辺の村や街には魔獣の相手をせず、なるべくこの街に通すように伝えてある。だから、キツかった」
彼はそう言った。
つまりこの街は他のぶんも魔獣を引き受けて戦っていたということだ。
それは、確かに限界を迎えておかしくないことだった。
「なるほど」
そういうことならと、少し考えて口を開く。
「ならアリスは街に置いていく。こいつは俺と違って近くの街くらいならすぐに駆けつけられる」
「え、私ですか?」
いきなり話題にされて面食らったのか、アリスはわずかに虚を突かれたような声を上げる。
「そうだ。君は街に残ってほしい」
「別に構いませんっていうか、歓迎ですけど……」
そう言って嬉しそうな、それでいて何か困ったような顔をする。
が、否定の言葉はなかったので特に異論はないものだと捉えて背を向けた。
「なら決まりだ。後の細かい話はそちらで聞いてほしい。俺はこれから森へ行く前に西の獣を潰してくる。……まぁ、司教にもいい挨拶になるだろう」
そう言い置いて、アッシュは今度こそ部屋を後にした。