三十七話・本当、ごめんなさいのアリス
ふと気が付く。
なぜかアリスは、見知らぬ場所で椅子に腰掛けていた。
「あれ?」
小さく声を漏らし、周囲を見回す。
そこは入り口も出口も見当たらない、閉ざされた部屋だった。
そしてどうやら、ここもまた書庫らしい。
「…………」
壁際には無数の本棚があり、書籍を積んだ長机も並んでいる。
だが、外で目にした書庫とはどこか印象が異なっていた。
窓はなく、光源は机上の燭台のみ。
揺らめく炎の明かりは不安なくらいにおぼろげで、床には捨て置かれた本が散乱していた。
どこか薄暗く、雑然とした空気が漂っている。
それなのに。
不思議なことに、アリスの周囲にだけは何もない。
開けた空間の向かい側に、ただ一脚の椅子が置かれているのみだ。
「……ここは?」
首を傾げ、再び視線を巡らせる。
だがやはり人の気配はない。
不安が胸に滲み始めた時、視界の端をすっと影が横切る。
「ごきげんよう」
背後からの声に心臓が跳ね上がる。
そのまま、気配がアリスを追い抜いた。
はっとして目を向けると、目の前には長い赤毛の少女……いや、少女を模した何かが立っている。
「あなたは……」
間近で見れば、否応なく理解させられる。
白いドレスに包まれた体は、人間のそれではない。
熱のない人形の肢体だ。
人として見立てるなら、年頃はアリスとノインの中間ほどだろう。
人形以上に造り物めいた美貌は、固く閉ざされた瞳と相まって、静謐と神秘……加えて、得体の知れぬ不気味さをも漂わせていた。
どういう理由かは分からないが、まさか、直接話すことになるとは……。
「はじめまして、アリス。今日はお茶会をしませんか?」
澄んだ水のような声が語る。
それは思いの外、美しい響きだった。
彼女は薄笑みを浮かべて、向かいの椅子にそっと腰を落とす。
「…………」
答える間もなく、二人の間には円卓とティーセットが現れる。
少女は、湯気の立つカップを両手で持って口元に運んだ。
人外であることを忘れるほど、愛くるしい仕草だった。
茶をすすったあと、またアリスへと語りかける。
「あなたは、私のことをどう思いますか?」
人形はにこやかに問いを投げかけた。
アリスは、少し考えてから答える。
彼女は……少なくとも記憶の断片を見るに、尽くして、憧れて、裏切られた人間だった。
だから。
「哀れだと思っています。あとは、愚かだとも」
「……そう」
わずかに声が低くなる。
一瞬、カップに触れていた指が強張る。
アリスが身構えていると、やがて朗らかに口元をほころばせた。
「いいのよ。どんな人でも、書庫には居場所があるわ。ルールさえ守るのならね」
アリスは怯まない。
ティーカップに手を伸ばす。
鼻を寄せて匂いをかぐと、よい香りがした。
なるべく澄ました顔で口に運ぶ。
しかし、人形はアリスの表情など気にかける様子もない。
「……ねぇ、あなた。あなたはね、私と同じだと思っているの」
やがてそんな言葉を口にした。
アリスは茶を飲んで、音を立てぬように器を置いた。
茶の味は分からない。
恐怖をこらえて真っ直ぐに見据えていると、彼女は言葉を重ねる。
「恋をしてるんでしょう? それに、叶わない理想を抱いています」
人形は言った。
カップに砂糖を落とし、ティースプーンでかき混ぜながら。
アリスは黙って聞いている。
「だったら、私の気持ちも分かるはずです。外に出れば……叶わないのよ、なにも。だから……私はただ、ずっとここにいたいだけ」
それは、半分くらいは正しいのかもしれない。
恋はともかく、きっと理想を抱いてはいた。
アリスは猜疑心が強く、人の善性を容易には信じられない。
だから高すぎる理想を抱いていて、理想に沿えぬ者に厳しく冷ややかな目を向ける。
「私は、誰も傷つけようとは思いません。ルールさえ守ってくれるのなら、ここは楽園のはずよ」
人形の言葉に目を伏せる。
胸の内で否定をした。
ここは決して、楽園などではないのだから。
けれどそれをよそに、彼女はまた言葉を連ねる。
「……ねぇ、どうか、分かってはくれませんか? 私は、あなたたちの敵なんかではないわ」
にこやかなのはそこまで。
不意に声を低く落とす。
息が詰まるほどの狂気を底に潜ませ、魔王はアリスにささやきかけた。
「お願いよ。もう、書庫を踏み荒らすのはやめてほしいの」
…………でないと私、きっとあなたに地獄を見せるわ。
殺意すら滲ませた恫喝だ。
アリスは、しかし……怯むことはなかった。
背筋を伸ばし、まっすぐに見つめ返した。
淡々と事実を突きつける。
「どう言おうが、あなたは敵です。あなたがここにいるだけで、魔獣がそこらにはびこるんですから」
「……そうだとして、何か問題があるかしら?」
その言葉で理解する。
この狂った人形も、最低限の理解をしていたのだと。
自分が魔王で、魔獣を撒き散らしていることは分かっていたのだ。
分かった上で、どうでもいいと考えている。
その推測を裏付けるように、冷たい声の語りが続いた。
「最初から、この世には獣が溢れているわ。共食いをしようが、気にすることなどありません。それに……あなたはきっと、生きていけるのでしょう?」
確かにどうでもいいことだ。
世の人間はほとんどクソなので、どれほど死んでも関心を持てない。
それに、アリス自身は魔獣が増えても問題なく生きられる。
「……そう、確かにどうだっていいことです」
でもアリスが好ましく思うのは、それをどうでもいいとは感じない人間だ。
だから、弱い者は守ろうとしてほしい。
人が死んだら傷ついてほしい。
世界を救うために、必死で抗い続けてほしい。
そうしてもらわなければ、疑り深い自分は他人を信じることができない。
しかし、そんな理想は余りにも自分勝手だ。
なのでアリス自身も、ここで首を縦に振るわけにはいかない。
「それでも、あなたは私の敵なんですよ。スカーレット」
名を呼ぶと、魔王は小さく鼻を鳴らす。
音を立ててカップを置いて、蔑むような目で見つめてきた。
「……愚かね。きっと後悔するわ。あなたの恋は、どんなおぞましい末路になるのかしら?」
「別に、いいですよ。どんな末路でも」
アリスは淡々と語った。
人形の過去を、その断片を見たからこそ……なんの迷いもなく跳ね除けることができた。
「私は、あなたとは違いますので」
しかし魔王はせせら笑う。
冷たい失笑でアリスを否定しようとする。
「いいえ、同じよ。あなたの夢は、理想は……叶わないもの。きっと、おそろしい獣が食い荒らしてしまいますから」
そんな言葉と同時、スカーレットの影がいびつに歪む。
肥え太った獣のように膨らみ、悪夢のように揺らめいた。
アリスは怯むことさえなく、毅然とした態度で返答する。
「ええ、そうですね。いつかは、そういう日も来るのでしょう」
知っているのだ。
願いが叶わないことも。
人の醜さも。
アッシュがいつか、負けて死んでしまうということも。
たとえ勝っても、魔物として迫害され、やがて死を選ぶということも。
「…………」
だから、恐れているのはいずれ来る終わりなどではない。
まして死ぬことや傷つくこと、犯されることでもない。
「スカーレット。私が、本当に怖いことは一つだけです」
それは、アッシュが変わってしまうことだ。
人が死んでもへらへらと笑うような人間になることだ。
ただそれだけが耐えがたい。
まるで、大切に待っていた便りが途絶えてしまうように。
「でも、あなたたちは……輪をかけて怖いもの知らずでした。だから、欲張りな夢が叶うと信じていた。きっと、ステキなゴールがあると思っていたんでしょう?」
あなたたち、というのはかつて書庫を去った少年と少女のことだ。
そんな言葉に、いつしか魔王の方が呑まれたように唇を噛んだ。
対して、アリスは眉も動かさずに言葉を続ける。
「私は…………いえ、あの人は違います。彼は、何度だって地獄を見ています。それでも、諦めていませんよ」
数え切れないほど絶望したのだ。
いつだって世界の歪みの下で、悪夢の底を這いながら生きてきた。
夢や理想なんて、とっくの昔に擦り切れているだろう。
けれど、それでも誰かを守ろうとしている。
自分のことを幸せだったと信じている。
過去のちっぽけな幸福に感謝し、この世界を愛し続けてきた。
「私は、彼を尊敬しています。あの人が私の夢です。なので、お生憎様。私の理想は……とっくに叶ってしまったんですね」
あとは、続く限り見守るだけだ。
このおぞましい世界を、それでも肯定する人間の歩みを。
道が途絶えるのか、変わってしまうのか、折れてしまうのかは分からない。
だがどうなったとしても、後悔だけはしない。
悲しむことはあっても、悔いることだけはありえない。
途絶えたなら共に死ぬ。
変わったなら引き留める。
折れたなら、一緒に諦めて泣くだろう。
ただそれだけだと腹は決まった。
「…………」
魔王は何も答えなかった。
殺気に満ちた沈黙が続く。
しかしやがて、憎らしげに呻き声をあげた。
「今だけよ。そんなことを言えるのは。今だけ……踏まれてもいないから、あなたは……!」
憎悪に溺れたような声である。
そして実際、この先心変わりしないとは限らない。
痛いところがないでもないのだ。
でも実のところ、あの言葉は嫉妬だろう。
信じて尽くして裏切られ、それでも書庫に縮こまって待ち続けていた、干からびた老婆の。
だからアリスは、笑顔でスカーレットの言葉を一蹴した。
「あら、嫉妬は見苦しいですよ? この、メンヘラババア」
大体、もうメルヘンは卒業する歳でしょう……と、書庫を見回しながらおまけの煽りも加えておく。
ついでに、喋りすぎたので茶をすすった。
「!」
そこで、魔王はかっと目を見開いた。
真っ暗い空洞の眼窩が露わになる。
そして左腕を異形化させ、獣爪の一撃を放った。
「…………」
お茶会のテーブルが吹き飛ぶ。
アリスは倒れ込んで、滑り落ちたカップが床で砕けた。
しかし傷つくことはない。
確かに爪は通ったものの、かすかな痛みさえ感じなかった。
「どうして……」
アリスを見下ろし、驚愕に声を震わせる。
彼女に眼球はないが、見えているのだろうか?
それはともかく、理由ははっきりしていたので率直に伝えた。
「残念ですが、心象の中では私に勝てません」
落ち着き払っていられたのは、それが分かっていたのが大きい。
途中で気がついたことだが、そもそもこのお茶会は現実の空間ではない。
きっとアリスが寝ている間に、魔王の精神との感応が起きて、夢を借りた精神世界で発生したことなのだと。
であれば、この場所で心を操る能力者に勝てる道理はない。
わざわざ痛めつけるような趣味はないが、話が終わったなら立ち去るだけだ。
「さようなら、スカーレット。いずれ……現実で決着をつけましょう?」
冷たく言い捨てて、アリスは強く魔王を拒絶した。
それだけで出口のない書庫は崩れ、何もかもが剥がれ落ち始める。
「――――――――ッ!」
まだ何か叫んでいたが、拒絶された以上声は届かない。
なすすべなく、崩れ落ちる書庫の狭間に落ちていった。
そして誰もいなくなった世界は、白く殺風景な地平へと変わる。
「ちょっと言い過ぎたかもしれません。……いえ、まぁ、いいでしょうか」
魔王のことを思いながらつぶやく。
しかし目を閉じて、また眠りの内へと戻ることにした。
これから殺す相手に、情けなどかけてもどうしようもないのだから。
―
――
―――
やがて、アリスはテントの中で目を覚ました。
ぐっと伸びをして眠い目をこする。
周囲を見回すとノインがいた。
小さな台の前に正座をして、なにか日記帳に書きつけているようだった。
「おはようございます」
そう声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げた。
やや取り繕うような間をあけて言葉を返す。
「お、おはようございます」
「ぎこちないですね。恥ずかしい日記でも書いていたんですか?」
「……あの。誰だって、日記なんて見られたくありませんから」
なんて、ジト目で言い返してきた。
アリスは愉快になって、微笑みながら着替えることにする。
「はい。そうですね」
身支度を終えて外に出る。
無論ノインも一緒に。
すると、すでにみんな外にいて、思い思いに過ごしているようだった。
まずアッシュは立って、黒炎を出したり引っ込めたりしている。
キメラは木箱に座って讃美歌を熱唱していて、地べたのサティアとゴーストが手拍子をしながら聞いていた。
あとは、そういう聞き方でいいのだろうか、という感じでシドが眉をひそめている。
まぁ、ともかく。
そんな書庫の廊下を見回して、アリスは深く嘆息した。
「ああ。気持ちのいい朝……というわけにはいきませんか」
げんなりしながら言った。
ルールを全て破っているせいで、書庫は醜く歪み果てているのだ。
「はぁ……」
ここも、今や地獄のような有様である。
物は消え、建物は燃え、貴族たちも立ち去った。
暗い書庫はすっかり抜けがらのようになり、空の本棚だけが取り残されている。
そして、あちこちに置かれていたガラス細工も様変わりしていた。
具体的には、全てがむき出しの眼球に変わり、アリスたちを視線で追って監視しているようだ。
「おはようございます……」
しかし正直、もう慣れてきてはいる。
気にせずあいさつをしようとした、その時。
「!」
不意に、どこかで破壊音が響く。
続いてアリスの中に濁流のような怒りが……魔王の激情が流れ込んできた。
「これは」
呟く。
血の気が引いて、頭が真っ白になっていた。
魔王の気配がどんどん強くなる。
足が震え始めた。
まさか、まさか……と信じられない現実を否定しようとする。
しかし受け入れるしかないと悟り、アリスは全員に呼び掛けた。
「すみません、魔王が出てきました」
その言葉に、座っていたキメラが木箱から転げ落ちる。
サティアが床から立ち上がり、立っていたアッシュはどこか……おそらく、魔力を感知した方向を凝視している。
「それが事実だとして。なぜ謝った?」
冷静にゴーストが述べた。
アリスは目を逸らし、慙愧に堪えない思いでもう一度頭を下げる。
「それは、その……私、煽り過ぎたんです。…………本当、ごめんなさい」




