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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
五章・獣の魔王
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三十七話・本当、ごめんなさいのアリス

 


 ふと気が付く。

 なぜかアリスは、見知らぬ場所で椅子に腰掛けていた。


「あれ?」


 小さく声を漏らし、周囲を見回す。

 そこは入り口も出口も見当たらない、閉ざされた部屋だった。

 そしてどうやら、ここもまた書庫らしい。


「…………」


 壁際には無数の本棚があり、書籍を積んだ長机も並んでいる。

 だが、外で目にした書庫とはどこか印象が異なっていた。

 窓はなく、光源は机上の燭台のみ。

 揺らめく炎の明かりは不安なくらいにおぼろげで、床には捨て置かれた本が散乱していた。

 どこか薄暗く、雑然とした空気が漂っている。


 それなのに。

 不思議なことに、アリスの周囲にだけは何もない。

 開けた空間の向かい側に、ただ一脚の椅子が置かれているのみだ。


「……ここは?」


 首を傾げ、再び視線を巡らせる。

 だがやはり人の気配はない。

 不安が胸に滲み始めた時、視界の端をすっと影が横切る。


「ごきげんよう」


 背後からの声に心臓が跳ね上がる。

 そのまま、気配がアリスを追い抜いた。

 はっとして目を向けると、目の前には長い赤毛の少女……いや、少女を模した何かが立っている。


「あなたは……」


 間近で見れば、否応なく理解させられる。

 白いドレスに包まれた体は、人間のそれではない。

 熱のない人形の肢体だ。

 人として見立てるなら、年頃はアリスとノインの中間ほどだろう。

 人形以上に造り物めいた美貌は、固く閉ざされた瞳と相まって、静謐と神秘……加えて、得体の知れぬ不気味さをも漂わせていた。


 どういう理由かは分からないが、まさか、直接話すことになるとは……。


「はじめまして、アリス。今日はお茶会をしませんか?」


 澄んだ水のような声が語る。

 それは思いの外、美しい響きだった。

 彼女は薄笑みを浮かべて、向かいの椅子にそっと腰を落とす。


「…………」


 答える間もなく、二人の間には円卓とティーセットが現れる。

 少女は、湯気の立つカップを両手で持って口元に運んだ。

 人外であることを忘れるほど、愛くるしい仕草だった。

 茶をすすったあと、またアリスへと語りかける。


「あなたは、私のことをどう思いますか?」


 人形はにこやかに問いを投げかけた。

 アリスは、少し考えてから答える。

 彼女は……少なくとも記憶の断片を見るに、尽くして、憧れて、裏切られた人間だった。


 だから。


「哀れだと思っています。あとは、愚かだとも」

「……そう」


 わずかに声が低くなる。

 一瞬、カップに触れていた指が強張る。

 アリスが身構えていると、やがて朗らかに口元をほころばせた。


「いいのよ。どんな人でも、書庫ここには居場所があるわ。ルールさえ守るのならね」


 アリスは怯まない。

 ティーカップに手を伸ばす。

 鼻を寄せて匂いをかぐと、よい香りがした。

 なるべく澄ました顔で口に運ぶ。

 しかし、人形はアリスの表情など気にかける様子もない。


「……ねぇ、あなた。あなたはね、私と同じだと思っているの」


 やがてそんな言葉を口にした。

 アリスは茶を飲んで、音を立てぬように器を置いた。

 茶の味は分からない。

 恐怖をこらえて真っ直ぐに見据えていると、彼女は言葉を重ねる。


「恋をしてるんでしょう? それに、叶わない理想を抱いています」


 人形は言った。

 カップに砂糖を落とし、ティースプーンでかき混ぜながら。

 アリスは黙って聞いている。


「だったら、私の気持ちも分かるはずです。外に出れば……叶わないのよ、なにも。だから……私はただ、ずっとここにいたいだけ」


 それは、半分くらいは正しいのかもしれない。

 恋はともかく、きっと理想を抱いてはいた。

 アリスは猜疑心が強く、人の善性を容易には信じられない。

 だから高すぎる理想を抱いていて、理想に沿えぬ者に厳しく冷ややかな目を向ける。


「私は、誰も傷つけようとは思いません。ルールさえ守ってくれるのなら、ここは楽園のはずよ」


 人形の言葉に目を伏せる。

 胸の内で否定をした。

 ここは決して、楽園などではないのだから。


 けれどそれをよそに、彼女はまた言葉を連ねる。


「……ねぇ、どうか、分かってはくれませんか? 私は、あなたたちの敵なんかではないわ」


 にこやかなのはそこまで。

 不意に声を低く落とす。

 息が詰まるほどの狂気を底に潜ませ、魔王はアリスにささやきかけた。


「お願いよ。もう、書庫を踏み荒らすのはやめてほしいの」


 …………でないと私、きっとあなたに地獄を見せるわ。


 殺意すら滲ませた恫喝どうかつだ。

 アリスは、しかし……怯むことはなかった。

 背筋を伸ばし、まっすぐに見つめ返した。

 淡々と事実を突きつける。


「どう言おうが、あなたは敵です。あなたがここにいるだけで、魔獣がそこらにはびこるんですから」

「……そうだとして、何か問題があるかしら?」


 その言葉で理解する。

 この狂った人形も、最低限の理解をしていたのだと。

 自分が魔王で、魔獣を撒き散らしていることは分かっていたのだ。


 分かった上で、どうでもいいと考えている。

 その推測を裏付けるように、冷たい声の語りが続いた。


「最初から、この世には獣が溢れているわ。共食いをしようが、気にすることなどありません。それに……あなたはきっと、生きていけるのでしょう?」


 確かにどうでもいいことだ。

 世の人間はほとんどクソなので、どれほど死んでも関心を持てない。

 それに、アリス自身は魔獣が増えても問題なく生きられる。


「……そう、確かにどうだっていいことです」


 でもアリスが好ましく思うのは、それをどうでもいいとは感じない人間だ。


 だから、弱い者は守ろうとしてほしい。

 人が死んだら傷ついてほしい。

 世界を救うために、必死で抗い続けてほしい。

 そうしてもらわなければ、疑り深い自分は他人を信じることができない。


 しかし、そんな理想は余りにも自分勝手だ。

 なのでアリス自身も、ここで首を縦に振るわけにはいかない。


「それでも、あなたは私の敵なんですよ。スカーレット」


 名を呼ぶと、魔王は小さく鼻を鳴らす。

 音を立ててカップを置いて、蔑むような目で見つめてきた。


「……愚かね。きっと後悔するわ。あなたの恋は、どんなおぞましい末路になるのかしら?」

「別に、いいですよ。どんな末路でも」


 アリスは淡々と語った。

 人形の過去を、その断片を見たからこそ……なんの迷いもなく跳ね除けることができた。


「私は、あなたとは違いますので」


 しかし魔王はせせら笑う。

 冷たい失笑でアリスを否定しようとする。


「いいえ、同じよ。あなたの夢は、理想は……叶わないもの。きっと、おそろしい獣が食い荒らしてしまいますから」


 そんな言葉と同時、スカーレットの影がいびつに歪む。

 肥え太った獣のように膨らみ、悪夢のように揺らめいた。

 アリスは怯むことさえなく、毅然とした態度で返答する。


「ええ、そうですね。いつかは、そういう日も来るのでしょう」


 知っているのだ。

 願いが叶わないことも。

 人の醜さも。

 アッシュがいつか、負けて死んでしまうということも。

 たとえ勝っても、魔物として迫害され、やがて死を選ぶということも。


「…………」


 だから、恐れているのはいずれ来る終わりなどではない。

 まして死ぬことや傷つくこと、犯されることでもない。


「スカーレット。私が、本当に怖いことは一つだけです」


 それは、アッシュが変わってしまうことだ。

 人が死んでもへらへらと笑うような人間になることだ。

 ただそれだけが耐えがたい。

 まるで、大切に待っていた便りが途絶えてしまうように。


「でも、()()()()()は……輪をかけて怖いもの知らずでした。だから、欲張りな夢が叶うと信じていた。きっと、ステキなゴールがあると思っていたんでしょう?」


 あなたたち、というのはかつて書庫を去った少年と少女のことだ。

 そんな言葉に、いつしか魔王の方が呑まれたように唇を噛んだ。

 対して、アリスは眉も動かさずに言葉を続ける。


「私は…………いえ、あの人は違います。彼は、何度だって地獄を見ています。それでも、諦めていませんよ」


 数え切れないほど絶望したのだ。

 いつだって世界の歪みの下で、悪夢の底を這いながら生きてきた。

 夢や理想なんて、とっくの昔に擦り切れているだろう。

 けれど、それでも誰かを守ろうとしている。

 自分のことを幸せだったと信じている。

 過去のちっぽけな幸福に感謝し、この世界を愛し続けてきた。


「私は、彼を尊敬しています。あの人が私の夢です。なので、お生憎様。私の理想は……とっくに叶ってしまったんですね」


 あとは、続く限り見守るだけだ。

 このおぞましい世界を、それでも肯定する人間の歩みを。

 道が途絶えるのか、変わってしまうのか、折れてしまうのかは分からない。

 だがどうなったとしても、後悔だけはしない。

 悲しむことはあっても、悔いることだけはありえない。


 途絶えたなら共に死ぬ。

 変わったなら引き留める。

 折れたなら、一緒に諦めて泣くだろう。

 ただそれだけだと腹は決まった。


「…………」


 魔王は何も答えなかった。

 殺気に満ちた沈黙が続く。

 しかしやがて、憎らしげに呻き声をあげた。


「今だけよ。そんなことを言えるのは。今だけ……踏まれてもいないから、あなたは……!」


 憎悪に溺れたような声である。

 そして実際、この先心変わりしないとは限らない。

 痛いところがないでもないのだ。

 でも実のところ、あの言葉は嫉妬だろう。

 信じて尽くして裏切られ、それでも書庫に縮こまって待ち続けていた、干からびた老婆の。


 だからアリスは、笑顔でスカーレットの言葉を一蹴した。


「あら、嫉妬は見苦しいですよ? この、メンヘラババア」


 大体、もうメルヘンは卒業する歳でしょう……と、書庫を見回しながらおまけの煽りも加えておく。

 ついでに、喋りすぎたので茶をすすった。


「!」


 そこで、魔王はかっと目を見開いた。

 真っ暗い空洞の眼窩が露わになる。

 そして左腕を異形化させ、獣爪の一撃を放った。


「…………」


 お茶会のテーブルが吹き飛ぶ。

 アリスは倒れ込んで、滑り落ちたカップが床で砕けた。

 しかし傷つくことはない。

 確かに爪は通ったものの、かすかな痛みさえ感じなかった。


「どうして……」


 アリスを見下ろし、驚愕に声を震わせる。

 彼女に眼球はないが、見えているのだろうか?

 それはともかく、理由ははっきりしていたので率直に伝えた。


「残念ですが、心象の中では私に勝てません」


 落ち着き払っていられたのは、それが分かっていたのが大きい。

 途中で気がついたことだが、そもそもこのお茶会は現実の空間ではない。

 きっとアリスが寝ている間に、魔王の精神との感応が起きて、夢を借りた精神世界で発生したことなのだと。


 であれば、この場所で心を操る能力者に勝てる道理はない。

 わざわざ痛めつけるような趣味はないが、話が終わったなら立ち去るだけだ。


「さようなら、スカーレット。いずれ……現実で決着をつけましょう?」


 冷たく言い捨てて、アリスは強く魔王を拒絶した。

 それだけで出口のない書庫は崩れ、何もかもが剥がれ落ち始める。


「――――――――ッ!」


 まだ何か叫んでいたが、拒絶された以上声は届かない。

 なすすべなく、崩れ落ちる書庫の狭間に落ちていった。

 そして誰もいなくなった世界は、白く殺風景な地平へと変わる。


「ちょっと言い過ぎたかもしれません。……いえ、まぁ、いいでしょうか」


 魔王のことを思いながらつぶやく。

 しかし目を閉じて、また眠りの内へと戻ることにした。

 これから殺す相手に、情けなどかけてもどうしようもないのだから。



 ―

 ――

 ―――



 やがて、アリスはテントの中で目を覚ました。

 ぐっと伸びをして眠い目をこする。

 周囲を見回すとノインがいた。

 小さな台の前に正座をして、なにか日記帳に書きつけているようだった。


「おはようございます」


 そう声をかけると、彼女はハッとしたように顔を上げた。

 やや取り繕うような間をあけて言葉を返す。


「お、おはようございます」

「ぎこちないですね。恥ずかしい日記でも書いていたんですか?」

「……あの。誰だって、日記なんて見られたくありませんから」


 なんて、ジト目で言い返してきた。

 アリスは愉快になって、微笑みながら着替えることにする。


「はい。そうですね」


 身支度を終えて外に出る。

 無論ノインも一緒に。

 すると、すでにみんな外にいて、思い思いに過ごしているようだった。

 まずアッシュは立って、黒炎を出したり引っ込めたりしている。

 キメラは木箱に座って讃美歌を熱唱していて、地べたのサティアとゴーストが手拍子をしながら聞いていた。

 あとは、そういう聞き方でいいのだろうか、という感じでシドが眉をひそめている。


 まぁ、ともかく。

 そんな書庫の廊下を見回して、アリスは深く嘆息した。


「ああ。気持ちのいい朝……というわけにはいきませんか」


 げんなりしながら言った。

 ルールを全て破っているせいで、書庫は醜く歪み果てているのだ。


「はぁ……」


 ここも、今や地獄のような有様である。

 物は消え、建物は燃え、貴族たちも立ち去った。

 暗い書庫はすっかり抜けがらのようになり、空の本棚だけが取り残されている。

 そして、あちこちに置かれていたガラス細工も様変わりしていた。

 具体的には、全てがむき出しの眼球に変わり、アリスたちを視線で追って監視しているようだ。


「おはようございます……」


 しかし正直、もう慣れてきてはいる。

 気にせずあいさつをしようとした、その時。


「!」


 不意に、どこかで破壊音が響く。

 続いてアリスの中に濁流のような怒りが……魔王の激情が流れ込んできた。


「これは」


 呟く。

 血の気が引いて、頭が真っ白になっていた。

 魔王の気配がどんどん強くなる。

 足が震え始めた。

 まさか、まさか……と信じられない現実を否定しようとする。


 しかし受け入れるしかないと悟り、アリスは全員に呼び掛けた。


「すみません、魔王が出てきました」


 その言葉に、座っていたキメラが木箱から転げ落ちる。

 サティアが床から立ち上がり、立っていたアッシュはどこか……おそらく、魔力を感知した方向を凝視している。


「それが事実だとして。なぜ謝った?」


 冷静にゴーストが述べた。

 アリスは目を逸らし、慙愧ざんきに堪えない思いでもう一度頭を下げる。


「それは、その……私、煽り過ぎたんです。…………本当、ごめんなさい」




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