十九話・冷たい記憶
その後、アッシュはなすすべもなく投獄されていた。
恐らくは魔物のために周到に整えられたのであろう、最高位の封印を幾重にも施された場所だ。
そこで全身を拘束され這いつくばり、仲間を惨殺されたのだと証言する男に引き会わされていた。
「で、お前はこのアッシュ=バルディエルに仲間を殺されたと?」
「ああ、そうだ。……俺の二人の仲間は、こいつに殺された」
どこか造りもののような、憎しみの表情を浮かべるその若い男は……恐らくは冒険者なのだろう。
使い込まれた剣を腰にぶら下げ、薄茶色の色あせたジャケットを身につけている。
彼は、アッシュが仲間を殺すところを見たのだという。
「……お前、は?」
舌が回らない煩わしさの中でアッシュが聞くと、男は名乗る。
「俺は、お前が殺した冒険者パーティーの生き残り。ノルト=セティアスだ」
「俺が、殺した?」
その浅黒い肌、赤の短髪、金の瞳、がっしりとした長身にどこか軽薄そうな顔立ち。
全てに見覚えがなかった。
会ったことなどない。
断言できる。
しかしそんな記憶とは裏腹に、目の前の男――――ノルトは、アッシュを断罪するようにその指を突きつける。
「そうだ! 俺はお前が惨たらしく殺した、二人の冒険者の仲間だ!」
「ば、かな……」
アッシュが否定の言葉を絞り出すと、鉄格子の向こうから桶にくんだ煮えた湯が浴びせかけられる。
全身に痺れるような熱が駆け巡り、アッシュは小さく呻いた。
「白々しい言い訳をするな!! 押収したお前の剣が複数の被害者の傷跡と合致したんだ。それに彼の仲間の死体の腐敗状況からして死んだのは一月前、ちょうど殺人事件が起こり始めた時期とも一致する!」
いまだに名前の知れない神官の男がそんなことを叫ぶ。
「…………」
恐らくはその証拠とやらは捏造だろう。
そうとしか思えなかった。
だがそれにしても捏造も、ノルトとやらの証言に背を押されて行われたに違いない。
都合のいい証人の、証言に帳尻を合わせる形で。
そうでなければ仮にも勇者に手を出すような……そんな、危険な橋は渡らないはずだ。
「おまえ、何が、目的だ……」
だからノルトを睨みつけてそう言うと、また熱湯が浴びせかけられる。
「貴様、まだ言うか! 本来なら裁判などするまでもないが、貴様は曲がりなりにも勇者だ。王都にて教皇様の裁きの下に死を賜るがいい」
「お前、どうなるか分かっているのか……? 俺が死んで、魔獣にどう対処する?」
現在、世界には二人の使徒が確認されている。
【魔術師】シド=テンペストと、【戦士】のガルム=バステリア。
勇者と【治癒師】がいない世界で、現存する使徒はたった二人。
上位魔獣以上の脅威に真っ向からぶつかれる存在はかなり限られる。
そんな中でアッシュを失えば、戦力の天秤は大きく魔獣側に傾くだろう。
だが神官はその事実を鼻で笑う。
「人殺しが何を言う。それに、お前人造勇者なのだろう? だったらまた造ればいいだけの話ではないか」
こいつは。
何を。
あまりの言葉に頭が割れそうだった。
灰色の石の壁。
狭くて薄暗い場所。
鉄の扉。
開かぬと分かってそれでも爪を立て、何度も何度も血を滲ませた。
喉が潰れるまで泣いて叫んだ。
罪のない子どもが殺し合った。
それを繰り返せというのか。
そんなことを、こいつは。
自分でもどんな顔をしているのか分からなかったが、アッシュの視線に神官の男は怯む。
「…………ッ。と、とにかく。お前はもう終わりだ。お前を勇者にした義父のカイゼル=バルディエル公も失脚だろうな」
そんな捨て台詞をどこか余裕のない様子で吐いて、ノルトと連れの神官に声をかけて男は去る。
そして、この場にはアリスだけが残った。
「命令しないんですか? 助けろと」
アリスは無関心な瞳をこちらに向けて、そんなことを問いかけてくる。
だが、アッシュはそれを無視した。
いや、答えられなかった。
やがて何も言わないと悟ると、アリスも踵を返してどこかに去る。
その後ろ姿が消え、誰もいなくなった牢でアッシュは一人思う。
アッシュは命令しないのではなくて、できないのだ。
アリスに命令できれば、背中を気にせずに済む。
どんな裏切りもありえない話になる。
だがそれでもできなかった。
命令しようと思う度に、壁に、地面に、あるいは虚空に。
幾つもの目が生えてきてアッシュを睨む。
お前はそれをするのかと。
かつて縛られていたお前が、そのために全てを失ったお前が、あんなものを使うのかと。
アッシュは、いつもその視線に耐えることができず、命令の言葉を飲み込んでいた。
ただそれだけの話なのだ。
「…………」
こわいなと、そう思う。
こうして縛られていれば、やがて夜が来るだろう。
アッシュはそれも恐ろしくて仕方がなかった。
暗い部屋にじっとしているといてもたってもいられなくなる。
悪夢に苛まれ、眠ることもできない。
剣を傍に、そして敵を殺していないと安心できない。
それは病のようなものだった。
せめてもの慰めにしようと、四肢を拘束された身体を苦労して仰向けにする。
それで小さな窓から射し込むわずかな、恐らくは沈みかけの光をアッシュは黙って見つめていた。