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ロストキルレシオ  作者: 湿った座布団
三章・黒炎の騎士
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二十九話・絶望

 


 力をあふれさせ、魔王が地を蹴ると同時にそれは起こった。

 これまでとは比較にならない数の異形が、広場へと降り立ってきたのだ。


「ふっ……」


 不意に、なにかが引きちぎれた様な鋭さの息が耳に届く。

 そして激情のままに言葉が続けられる。


「ふざけないで! こんなの……こんなの一体どうしろって……!!」


 声を出したのはミスティアだった。

 前後左右、あらゆる場所を異形が埋め尽くしているのだ。

 悲痛な声をあげるのも分かる。

 もう生贄の調達を止めるのは難しい。


 だが、あいにくそちらを心配するだけの余裕はない。


「っ!」


 踏み込んだ魔王の剣を受けて、ノインが吹き飛ばされる。

 ガードは間に合ったように見えたが、衝撃を殺しきれずに吹き飛ばされたのだ。


「ノイン……!」


 魔王が、次はアッシュを見た。

 赤い瞳の残光が糸を引いて動く。

 石畳が砕ける音がして、一瞬で目の前に来た。

 両の手が全く同時にかき消える。


 反射的に退くと、左肩と右の頬に滑らかな切れ目が入った。

 避けられたのは、運が良かっただけだろう。

 見てかわすのは無理だと分かった。


 だからアッシュは、魔王の足と肩の動きに意識を集中する。

 大体だが、踏み込みと肩の揺れ、相手の視線を見れば剣の軌道は読める。

 もちろん刃はかすめるし、無傷には程遠いのだが、致命的な負傷は避けられる。


 しかしこれは、相手に勝てない時になんとか身を守るためのやり方だった。

 当然反撃などできるはずもない。

 状況を変えるために援護を求める。


「シド、援護を!」


 すると、焦りきった怒鳴り声が返ってきた。


「ちょっと待て! 先に射線上の敵を潰す!!」


 どうやら、敵が多すぎて援護もままならないらしい。

 あと少し一人で持ちこたえなければならない。

 何度も斬撃をくぐり、乱射された魔法の刃も紙一重でかわす。


 だが、そこで思い当たった。

 これだけの敵がいて、どうやって魔王のストックの回復を防ぐのかと。


「…………」


 背筋が冷たくなった。

 目の前が暗闇に閉ざされるようだった。


 果たして、アッシュたちの抗戦をあざ笑うようにして、魔王は真紅の刃で異形を斬り裂いた。

 それも、まとめて三体ほどだ。

 アッシュは即座に退避しようとしたが、ちょうど復帰したノインが大剣を構えて走っていく。


「させません!!」


 彼女はなにか、激しい感情がこもった声で叫んだ。

 ふらつきながら走っていく。

 異形の群れをかき分けるようにして、必死に魔王の元へと向かう。


 アッシュは、彼女の背に声をかける。

 シドもほぼ同時に怒鳴った。


「駄目だ、行くな!!」

「戻れ馬鹿! おい、ノイン!!」


 彼女は冷静を欠いて、一人孤立してしまった。

 助けに行こうとするが、すでに遅かった。

 魔王が、鮮烈な赤を纏う刃を掲げていた。

 その、純粋な力の証を、ノインへ向けて一切の慈悲もなく振り下ろした。


「…………!」


 放たれた魔法は、もはや刃ではなかった。

 真紅の魔力の奔流が駆け抜ける。

 ノインもとっさに避けたようだが、とてもかわしきれるものではない。

 赤い光に飲み込まれる。


「……っ」


 赤色の洪水が過ぎ去ったあと。

 アッシュはノインの姿を探す。

 すると、遥か遠くで血まみれになって倒れているのが分かった。

 生死は定かではないが、火の翼も消えている。

 恐らく、もう立ち上がることはないだろう。


 アリスが取り乱したように声を上げる。


「ノインちゃん! 聞こえますか、答えてください!!」


 らしくもなく我を失っている。

 アッシュはまだ冷静だった。

 何度か深呼吸をして、拳を握る。

 それから、我を失ったアリスに声をかける。


「アリス、ノインを回収しろ。撤退する」


 取り乱すアリスへと言った。

 するとその時、何故か異形たちが動きを止めた。

 広間を闊歩していた大量の異形たちが、全て立ち止まったのだ。


「ぉ……ぁ、あ、あぉ……ぉぉぉ……」


 そして奇妙な呻き声を上げる。

 呻きながら跪く。

 なにもかもが、不気味なほどに同時だった。

 示し合わせたように一致した挙動で地に膝をつき、跪いて祈り始める。

 手の平を合わせて、指を組んで、かすれた声を漏らしながら……全ての異形が魔王へと祈りを捧げていた。


「今度はなんだ……!」


 シドが歯がゆそうに叫んだ。

 明らかに苛立っている。

 それはきっと、魔王という存在がもたらす、とてつもない理不尽への怒りだった。


 とはいえもちろん、そんな風に怒っても理不尽は終わらない。

 彼をよそに祈りは続く。

 生理的な嫌悪を引き起こすような異形の声が広間に響く。

 すると魔王にも変化が現れ始めた。

 右の半身から、紅蓮に輝く翼が現れたのだ。


 だからもう片翼ではなかった。

 毒々しい赤の翼と闇色の黒い翼。

 奇怪な一対を共にはためかせ、魔王がゆっくりと宙に浮き上がっていく。


「あ、ぁぁ、ああぁっ……あっ……」


 異形たちの祈り声の中で、敵は徐々に高度を増していく。

 アッシュは、その姿を追うように視線を動かす。

 すると沈みゆく夕日が目に入った。

 シドが開けた大穴があるからだ。

 眩しさに思わず目を細める。


「…………」


 やがて、魔王が空中で停止した。

 沈みゆく夕日の光を背にして、双剣をゆっくりと動かす。

 そして十字のように交差させる。


「処刑人の礼……?」


 ミスティアがそう呟く。

 何度か見せていたあの仕草は、ロスタリアではそういった意味を持つらしい。

 ではこれからあの魔王が、アッシュたちを処刑するとでも言うのか。


「なっ……」


 そこで思わず声が漏れた。

 祈っていた異形たちが次々と倒れていったからだ。

 続いて、全ての魂が魔王へと集い始めている。

 アッシュはなんとか奪おうとしたが、相手の方がずっと引き寄せる力が強い。

 とても止められない。


 さらに次の瞬間には、もうストックの回復だとか……そんなことを考える余裕さえなくなっていた。


 何故なら魔王の双剣に、荒れ狂う紅と黒の風が集い始めたからだ。

 まるでくような音を立てて、圧縮された嵐が剣の周囲で荒れ狂っている。


「…………」


 これが絶望そのものだと、アッシュには本当によく分かった。

 魔力を食い荒らす魔物は、魔力に対する感覚が優れている。

 だから直感できる。

 赤と黒の双剣が秘める破壊力は、もはや『薄氷』すら比ではなかった。


「アリス、ノインの回収は?」


 他の味方を退却させる手順を、頭の中で考えていく。

 考えながら、アッシュはアリスに語りかけた。


「も、もう済みました」


 流石の彼女も怯えているらしい。

 飄々(ひょうひょう)とした態度も鳴りを潜めて、どこか泣きそうな声が聞こえてきた。

 話を続ける。


「息はあるか?」

「寸前で、避けたみたいで……なんとか」

「ならいい。全力で防御しろ。守ってやってくれ」


 話が終わった。

 アッシュは剣に炎を纏わせる。

 さらに、炎を纏う剣を複製する。

 肥大した魔物の力を総動員して、複製を続ける。


「シド、ミスティア。攻撃で魔王の一撃を相殺する」


 そう伝えた。

 生き残るにはこれしかなかった。


「もう『薄氷』は……! それに間に合わない!」


 シドが弱りきった声で抗議した。

 つい、取り乱してしまってアッシュは怒鳴る。


「なんでもいい! 早くしろ!!」


 時間の許す限り剣を複製し続ける。

 魔物の力を酷使していると、侵食が進むのを感じた。

 ミスティアとシドの会話が聞こえるか、きれぎれにしか感じられなくなる。


「もう……は……!」

「……丈夫……わ……が……」


 なにか言い争っているようだったが、どうやらシドが折れたらしい。

 背後で強大な魔力が練られているのが分かった。

 眼前で蠢く魔王の力に比べればまだ弱いが、生き残れる可能性が出てきた。


「……累なれ」


 ついに魔王が力を解き放とうとする。

 双剣の周囲を渦巻く風から、この世の終わりのような音がした。

 圧縮されていた風が、急速に元の体積を取り戻し始める。

 赤と黒の竜巻の余波が、周囲を深々と斬り刻んだ。

 そして、ある一瞬で何倍もの大きさに膨れ上がった。

 この膨張の直後、視界を埋め尽くすような切断がついに放たれた。


「『崩壊剣デストラクトアーツ』!」


 解き放たれた魔王の風に、アッシュは自らの持てる全てをぶつけた。

 魔力も『偽証』も使えるだけ使って、魔王の一撃に抗おうとした。


「ぐ……が、ぁぁ……! クソっ……!!!」


 歯を食いしばる。

 双剣の風は余りにも鋭く、そして強大だった。

 とても相殺できそうにない。

 もうじきに炎は消える。

 なすすべもなく押し切られるだろう。

 いや……そもそも、炎が消える前にアッシュが死ぬかもしれない。


 騎士の鎧の装甲は、受け止めている風の余波だけで容赦なく斬り裂かれていく。

 まるで薄紙かなにかのようだった。

 だから、全身からどす黒い血を垂れ流しながら、アッシュは最後の力を振り絞った。

 一秒でも時間を稼ごうとする。


「駄目だミスティア! まだ調整が……これじゃあ魔王には!!!」


 死にもの狂いの中で、半ば泣くような声が耳を打った。

 誰の声かまでは理解できなかった。

 しかし、その時アッシュは誰かに突き飛ばされる。

 前に立った背中はミスティアのものだった。


「がああああああぁぁっっ!!!!!」


 喉が裂けるような必死の叫び声を上げて、ミスティアが拳を振るう。

 明らかに不完全だが、右腕に爆ぜるのは『薄氷』の雷だった。

 強大な力がぶつかり合った。

 死の嵐に打ち込まれた『薄氷』が、その熱量を解き放つ。


「…………っ」


 視界が白く塗りつぶされた。

 轟音と衝撃が広間を揺るがす。

 なすすべなくアッシュは吹き飛ばされた。

 すると、そのまま塔が揺れる。

 倒壊するのではないかというほどに揺らいで、衝撃により石畳の地面が割れて砕ける。

 あるいは、風の余波に引き裂かれていく。

 アッシュはただ、血混じりの咳をしながら成り行きを見守っていた。


「ごほっ……げほっ……」


 やがて光が消えた。

 風の音が止み、塔を震わせていた揺れが止まる。

 そして正常を取り戻した視界に写っていたのは、傷一つないまま地へと降り立つ魔王と…………右半身を無惨に引き裂かれたミスティアの姿だった。


「……あ」


 だらだらと血を流しながら、彼女は背後へ振り向いた。

 虚ろな目で何かを確認して、満足したように微笑む。

 そして、ぐらりと倒れてしまう。


「ミスティア……?」


 聞こえたのは、座り込んでいたシドの声だった。

 震える声で名を呼んだ彼は、手で顔を覆っていた。

 その、指の隙間から無惨な光景を見ていた。


「嘘、だ……」


 瞳が凍りついた。

 それから、一瞬の沈黙の後に杖を乱暴に掴む。

 猛然と立ち上がって凶悪な怒りを露わにする。


「お前ッ……! よくも……よくもっ……!! よくもっ!!!」


 絶叫だった。

 そして、枯れたはずの魔力が吹き荒れる。

 かろうじてギフトの効果が継続しているのかもしれない。

 シドが繰り出す魔術は、無詠唱でありながら嵐のように苛烈だった。


「死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ねよッッ!!!」


 だが狙いは正確とは言えない。

 半数は全く違う場所に命中している。


 また、魔術が互いに干渉し合って十全に効果を発揮できていなかった。

 たとえば飛ぶ途中で魔術同士がぶつかったり、氷の爆発が炎の魔術を弱めたりしている。

 冷静さを欠いているせいだろう。


 そのせいで、想像を絶する物量の魔術を受けても魔王は傷一つ負うことはなかった。

 ただ双剣を振るって撃ち落とすだけだ。

 それだけで、余裕をもって対処できていた。


「……長くはもたない」


 倒れたままアッシュはつぶやいた。

 今のシドは、気力のみで無茶な撃ち方をしている。

 だからすぐに倒れる。

 動けるのがアッシュとアリスだけになる。


 しかし悪いことばかりでもない。

 不幸中の幸いと言うべきだろうか。

 魔王に祈りを捧げていたから、異形は全て死に絶えていた。

 邪魔をする面倒な敵がいない。


 だからシドが稼いでいる時間を利用して、撤退のために手を打つことにした。

 ぼろぼろの体を引きずるようにして立ち上がり、歩き始める。


「おい、アリス。起きろ」


 彼女は竜の体の下に縮こまって、ノインを抱いて震えていた。

 その身体に触れて、少し乱暴に肩を揺らす。

 すると彼女は目を見開いた。

 こちらにぼんやりと視界の焦点を合わせた。


「アッシュさん……あの魔王は……」


 どうも彼女は何かを掴んだようだ。

 だが、今はもうその情報をもとに策を立てるだけの戦力がない。

 情報は持ち帰ってもらうことにした。


 手早く用件を切り出す。


「その話はもういい。シドが終わったらすぐに逃げろ」


 背を支えてアリスの体を起こしてやった。

 小さく咳き込んで彼女が答える。


「逃げろって……あなたは?」


 そんなことを彼女が言うとは思わなかった。

 だから、アッシュは内心で意外に思う。

 けれど彼女の機微を気にする暇などない。

 特には追求せず、言葉を続ける。


「言ったはずだ。俺は置いて行け。シドが開けた大穴を使って逃げろ」

「でも、あなたも連れて逃げられます」


 何故か食い下がってきた。

 面倒に思いながら答える。

 こんな下らないことで押し問答をする時間が惜しかった。


「いや、俺は残る。それは曲げられない」


 確かに、アッシュも連れて逃げられるかもしれない。

 だが失敗する可能性の方が高いとアッシュは思う。

 誰かが少しでも魔王を抑えなければ、竜が魔法に狙われることになる。

 そうなれば全員揃って撃墜されるだけだ。

 だから一人……逃走手段である竜を駆るアリス以外で、誰か一人が残らなければならなかった。


 それにアッシュなら、もしかすると無駄死ににはならないかもしれないのだ。

 などと考えながら、シドの方を見る。


「…………」


 すると、魔術の乱射の勢いは目に見えて落ちていた。

 もう止まる頃合いだと分かった。


「……そろそろか。俺はすぐに魔王の前に出る。お前は、シドたちを回収して逃げろ」


 するとアリスが静かに問いを投げかけてきた。


「……あなた、ここで死ぬつもりですか?」

「元々覚悟はしていた。俺はここでいい」


 そこで不意に馬のことを思い出す。

 ツェンといったか。

 もしかすると、別の名前になったのかもしれないが。

 彼はこの塔に取り残されてしまうことになる。

 それはもう仕方がないのだが、せめて夜の階層……草がある場所に置いて行ってやればよかったかもしれないと思う。

 悪いことをしてしまった。


 どこか冷静にこんなことを考えて、それからアッシュは一歩を踏み出した。


「…………」


 シドが成長し、予言通り『治癒士』が現れたら、今度こそ魔王を倒せるだろうか。

 それは分からない。

 だが、未来のためにも彼はなんとしても生きて帰さねばならない。


 ふと、大穴から外に視線を向ける。

 夕日は沈みかけて、分厚い雲が空を覆っていた。

 暗い未来を暗示するかのように不吉だと感じた。

 しかし思い直す。

 天候にそんな意味はない。

 ただ、自分の心が弱っているだけだ。


「…………」


 これで最後だとアッシュは考えた。

 だから暗雲から目を逸らして、今できることに集中することにする。


「アッシュさん」

「なんだ?」


 片手間で答えながらも、シドから目は離さなかった。

 まだ魔術は止んでいないが、次の瞬間に止まってもおかしくはない状態だった。

 アッシュはじりじりと足を動かして、少しずつ彼に近づく。


 すると、想像もしなかった言葉が聞こえてきた。


「あなた、名前は?」

「名前?」


 思わず振り返る。

 驚いたのだ。

 するとアリスは、特に笑うでもなく、澄ました顔でこちらを見ていた。

 どうやらふざけているわけではないらしい。


アッシュだなんて、偽名なんでしょう? 私、少しだけ気になっていたんですよ」


 戯れでないとしても……いや、だからこそだ。

 このに及んで、大真面目にそんな下らない話をするとは。

 少し呆れ、何も答えずにまた前を向く。


「馬鹿なことを言うな。これが俺の名だ」


 自ら灰と名付け、たとえ小さな残り火でもそう在ることを望んだのだ。

 本当の名前などと、捨てたものを女々しく引きずる気などない。


 だから迷いなく答えた時、ついに魔術の雨が止んだ。

 アッシュは走り出す。

 去り際に一言だけ言い残した。


「お前に殺されてやれなくて……悪かったな」


 そういう約束をしていたはずだった。

 もう果たすことはできないが。


「…………」


 返事はなかった。

 ひたすらに走る。

 魔術が止んだ瞬間、魔王はシドにとどめを刺そうとしていた。

 極限まで魔物化が進行したせいか、その動きが今は遅く見えた。

 だから、なんとか殺される前に魔王の刃を防げた。


「……っ」


 やはり重い。

 剣を受けつつ、一瞬だけ意識を背後に向ける。

 すると、召喚獣がシドを回収したのが分かる。

 小さく安堵の息を吐いて、気を引き締めて魔王の剣をしのいだ。

 すると今度は、大穴から逃げ出そうとする竜の姿が見えた。


 すると、意外にも鋭敏に魔王が反応する。

 拷問刀の闇の魔法が膨れ上がる。


「させる……か」


 魔法が放たれる前に鎖を投げて、魔王の腕を絡め取った。

 全力で引く。

 それで動きを阻害され、魔王は獲物を取り逃がしてしまった。


「…………」


 もうアリスたちには追いつけない。

 敵にも理解できたのだろう。

 アッシュを見据える、魔王の瞳の赤い光が憎らしげに歪んでいるような気がした。

 そして腕を拘束していた鎖をすぐに引きちぎる。

 続けて、一人だけ残されたアッシュへと刃を向けてきた。


「……やるか」


 声を漏らす。

 目的を果たしたとは言え、大人しく殺されるつもりなどない。

 最後の一瞬まで刃を突き立て続ける。

 改めて覚悟して魔王に相対する。


 すると次の瞬間、大量の異形が天井から降りてきた。

 アッシュは思わず乾いた笑い声を漏らす。


「はっ……」


 まるで馬鹿だと思ったのだ。

 最後の抗戦などと……愚かしい考えだった。

 すでに望みは絶たれているのだ。


 ならば例の風を放たれる前に、さっさとやるべきことを済ますのが賢い行動だった。

 決断して、アッシュは詠唱をつむぎ始める。


「世を塞ぐ闇をはらため、神託を受け我は旅立つ」


 これは、唯一教会の外に持ち出された奇跡だった。

 いつかの嘘にも利用した……聖教国の軍人にこそ与えられる、いわゆる『自爆魔術』だった。


 そしてアッシュは、常人とは比べ物にならないほど強い魂を持っている。

 だから、その強い魂を自爆に用いれば、あらゆる敵を打ち倒すことができるはずだった。


 とはいえこの魔王が、跡形もなく消すだけで死んでくれるかは怪しかったが。


「抗いがたき邪悪の群れ。月さえ照らせぬ深い夜」


 魔王の剣を凌ぎ続けた。

 もう先はないので、魔物の力はすべて解放している。

 だからなんとか回避できた。

 それでも時に斬り刻まれるが、増大した生命力で命を保ち続ける。


 すると、攻撃が魔法を織り交ぜたものに変わった。

 逃げ回るアッシュに焦れたのかもしれない。

 構わず詠唱を続ける。


「ならば我が身を灯火とうかとしよう。続く者たちのしるべとなり、夜明けへ続く道を示そう」


 闇の刃が飛んできた。

 続けざまに赤い刃も解き放った。


「…………っ」


 異常に鋭くなった感覚のお陰でなんとか回避できた。

 だが回避に集中するあまり、壁際に追い詰められていることに気がつけなかった。


 逃げ場を失い、拷問刀で右胸を貫かれる。

 まるで壁に縫いつけられたような形になる。


「かはっ……」


 血を吐く。

 拷問刀には、鋭い歯のように刃が並んでいた。

 それが胸の中で蠢いて激痛をもたらす。


 だが、今は悲鳴を上げる気力すらなかった。

 弱々しい息を吐きながら、魔王の剣を握る。

 逃げられないようにするためだ。


 握って離さないようにして、最後の詠唱を唱えることにする。


「命を燃やし、ここに秩序へのいしずえとせん。『殉教の……』」


 あと少しだった。

 残された詠唱はほんの一言だった。

 けれど奇跡を唱えようとした時……目の前で魔王の頭部が切断される。


「…………なにが」


 状況を理解しきれないまま、魔王と重なるようにして崩れ落ちる。

 やがて、再生した魔王はアッシュの胸から無造作に剣を抜いた。

 続けて、あらぬ方向へと赤い瞳の視線を向ける。


「…………」


 するとそこには、ぼろぼろの黒い外套を纏った男がいた。

 背が高い、大人の男だった。

 その何者かは、こちらに背中を向けて立っていた。

 彼の手には粗悪に見える鉄剣が握られている。

 そして、剣先からはぼたぽたと血が滴っている。


 呼びかけようとしたが、声が出てこなくて咳き込む。


「かはっ……」


 しかし状況が読めなかった。

 信じがたいことに、彼は増援なのかもしれなかった。

 とにかく疑問が尽きなかったが、何かを問いかける前に黒衣の男が動いた。


「…………」


 無言のまま、男がゆっくりと振り返る。

 無造作に伸びた黒に近い灰色の髪が目にかかっていた。

 さらに、顔の肌には大きな火傷の跡がある。

 だが痛々しいやけどの下の顔は、よく見れば整っていることがわかる。

 美しい青の瞳と品のある目鼻立ちが、どこか血筋の良さを感じさせる。

 その表情は暗く沈んでいて、火傷も相まって荒んだ雰囲気が強く感じられた。


 そして、彼は振り向いて……次の瞬間消えた。


「!」


 男が消えた瞬間、魔王の胴体が深々と斬り裂かれる。

 そしてなすすべもなく死に至った。

 続いて、男がなんの前触れもなく現れる。

 魔王の死体のそばに立っていた。


「…………」


 彼はやはり何も言わない。

 ただ弱いかぜに外套を揺らしている。

 魔王が再生するのを待っていた。


 と、その時。

 男の背後から異形が襲いかかる。

 だが関心を示さない。

 魔王以外には、全くの反応を見せずに立っていた。

 だから異形の手が届こうとする。

 しかしその前にまた一人現れて、触れようとしたその敵を殺した。


「…………」


 恐ろしく鋭い踏み込みだった。

 細身の槍を持った小柄な人影だ。

 銀色の全身鎧を着込んでいる。

 この何者かが、見事な突きで異形を刺し殺した。

 そして鮮やかな手つきで槍が引き抜かれた。

 さらに霞むほどの速さで連撃を放ち、異形の群れを根こそぎに殲滅した。


「…………」


 やはり何も言わない。

 だが、兜に包まれたその頭が背後へと振り向いた。

 連れと思しき、立ち尽くしたままの男を見ているらしい。

 そして、ようやく言葉を発する。


「露払い……する?」


 届いた声は、不思議とどこから聞こえているのか分からなかった。

 妙に掴みどころのない声だった。

 女の声だと分かった。

 落ち着いていて、どこか陰のある雰囲気を感じる声だとアッシュは思う。


 そして、彼女の問いかけに黒衣の男が短く答えた。


「ああ」


 あくまで魔王から視線を逸らさず、かすれた声でそう返した。

 すると鎧の女が、片手で振るう槍でもって異形たちを薙ぎ払い始める。


「……来たか」


 やはり、かすれた声で男が言う。

 立ち上がった魔王は剣を振りかぶった。

 アッシュにはほとんど見えない速度で振り下ろす。


 だが男は煙のように姿を消していた。

 気がついた時には、背後に立って魔王の心臓を貫いていた。


「お、あおぁ……ぁ……」


 どこか気の抜けた声を漏らして魔王は苦しんでいた。

 剣を引き抜かれると膝をつく。

 もう立ち上がることはなかった。

 体が、徐々に黒いちりに変わっていく。

 風に流されるように崩れて、いずこかへと散って行った。


「馬鹿な……」


 アッシュは思わず声を上げる。


 こんなにも容易く、魔王を倒す存在がこの世にいるはずがない。

 いるとすればそれは…………。


「まさか……そんな……そんな……」


 歯を食いしばる。

 喜ばしいはずの事実が認められなかった。

 あるいは魔物の暴走のせいなのかも知れない。

 動揺する思考が憎悪に染まり始めた。


「お前は……!」


 アッシュは、無様に倒れたまま叫んだ。

 しかし男は相手にもしない。

 魔王を倒したあと、アッシュに背を向けて歩き始める。


「…………」


 完全にこちらの存在を無視したような態度だった。

 代わりのように鎧の女が近寄ってくる。

 目の前にしゃがみこんで、アッシュの顔を覗き込んでいる。

 そのまま少しすると、不思議そうに首を傾げた。


 だが彼女は邪魔だった。

 首を動かして、這うように動いて男を目で追いかける。

 すると彼は、やがて広間の天井にある『卵』の真下に立った。

 見れば、『卵』を包んでいた赤い障壁はすでに消えているようだった。


 男がその、無防備な『卵』に右手をかざす。

 続いて口を開いた。


「『閃光ブレスショット』」


 魔術が放たれる。

 白い閃光だった。

 そして、これが全てを物語っていた。


 光の魔術を放ったあの男は……容易く魔王を倒したあの男は……いるはずもない勇者だった。


 そうとしか考えられなかった。

 けれど同時に、それだけは認められなかった。


「?」


 今度は逆向きに首を傾げていた、目の前の女を押しのける。

 そしてアッシュは、ぼろぼろの体で立ち上がった。

 軋む膝を動かし、なんとか立ち上がる。

 声を絞り出した。


「待て……!」


 呼びかけて、どうするつもりなのか分からない。

 しかし、たぎる殺意は目の前の男へと注がれていた。

 か細い理性が止めようとする。

 それでも、暴走した憎悪が握る剣の柄に力を込め続ける。


「化物……か?」


 無感情な瞳でアッシュを見返し、男はそう呟く。

 そして今の言葉で、かろうじて残っていたアッシュの理性が擦り切れていった。


「化物だと……?」


 他ならぬあの男に言われたのが、どうしても耐えられなかった。


 勇者がいるのならだ。

 何故、俺たちはこんな人生を歩まなければならなかったのか。

 どうして犠牲になる必要があったのか。

 積まれた犠牲が、全て無駄だったとでも言うつもりなのか。

 神はどこまで俺たちを愚弄すれば気が済むのだ。


「っ……!!」


 荒い息が漏れる。

 許してはいけない。

 絶対に許すことなどできない。

 理不尽の塊を、目の前の存在を認めてはならない。


 剣を構える。


「お前がいなかったからそうやって……!! 生きていくしかなかったんだろうが!!!」


 地を蹴った。

 男へと斬りかかる。

 完全に目で追われていたが、殺意のままに斬撃を放つ。


「…………!」


 当然のように受けられた。

 続けて返す刃で攻撃を重ねようとした時。

 不意に、視界が真っ白に漂白される。


 そして奇妙な浮遊感の後、アッシュは冷たい大地に身を横たえていた。



 ―――



 いつの間にか倒れていた体に、冷たい感触を覚えた。

 これは……どうやら雪だ。

 つまり、帰ってきたということだ。


「…………」


 魔王を倒して『卵』を破壊したことにより、罪科の塔は完全に姿を消した。

 結果として、アッシュは外の世界へ戻ってきたのだ。


 暗い雲が覆う空からは、とめどなく雪が降っている。

 倒れ伏していたアッシュは、ふらつきながらも剣を握る。

 さらに立ち上がった。


「がぁぁぁぁぁっ!!」


 憎悪のままに吠える。

 また男へと斬りかかろうとした。

 だが、唐突に現れた人影が槍を合わせて刃を止める。


「どけっ……!」


 歯を食いしばりながら言う。

 刃を押し込もうとする。


「…………」


 立ち塞がった人物……鎧の女は、アッシュの言葉には答えない。

 その背後で男が問いを投げる。


「何故止める?」

「多分この人……ガルムのお友達……だから。あなただと殺しちゃう……でしょ?」


 答えた声は、やはり掴みどころがなかった。

 よく分からないことを答える。

 それから、槍を振ってアッシュを突き放した。


 こうして邪魔をするのなら、この女も斬るしかないだろう。


「…………」


 剣を向ける。

 分かっている。

 勇者を殺しても意味はない。

 失ったものが取り戻される訳でもない。

 何か一つでもアッシュの望みが叶うわけでもない。

 むしろ魔獣の殲滅は遠のくだろう。


 分かっている。

 容易く想像できることだった。


 しかし暴走した思考は、それでも延々と殺意を加速させる。

 壊れた意識は結論を避けて、堂々巡りの憎しみを肥大させる。


 もう止まれなかった。

 止まればこれまでの人生を、全てを否定されると感じていた。

 女が槍を構える。


「殺す気は……ない。胸を借りるつもりで……かかってきなさい」


 かけられた言葉を遮るように、いくつもの幻聴が聞こえた。

 不甲斐ないアッシュを責める声だ。


 どうして自分たちを否定されたのに、あいつらを生かしておくのかと。

 そんなことを訴えかけてくる。

 アッシュはそれを正しいと感じた。

 だから殺さなければならない。


「…………」


 無言で地を蹴る。

 女に近づくと、槍が突き出された。

 回避する。

 すると次は穂先で薙ぎ払いを放ってきた。

 それも避けると、空振った女は隙を晒す。

 だから反撃に転じようとした。

 しかし振り抜いた姿勢から、女は流れるように槍を反転させる。

 穂先ではなく柄で、アッシュの腹を強く突いた。


「……っ」


 鈍い衝撃を感じた。

 怯まずに剣を振る。

 相手が退いた。

 退いたのを狙って、背後に壁を作り出す。


「…………」


 アッシュは、逃げようとする女を追いかけた。

 このまま下がった先で、すぐに壁にぶつかるはずだった。

 隙が生まれるはずだったのだ。


 なのに敵は背後の壁に気づいていた。

 まるで背中に目でもついているかのように壁を避けて動く。

 予想外の行動にわずかな驚きを感じた。

 だが手を止めることはしない。

 再び斬りかかる。

 女はこれも回避したが、同時にこちらへと手を伸ばしてくる。


 何も持っていない左手だ。

 そして、その手の平がアッシュにかざされた瞬間……凄まじい勢いで空気が破裂した。


「!」


 気づけば吹き飛ばされていた。

 雪に埋もれて倒れている。

 全身が痛む。


 ……なにが起こった?


 だが思考するような暇はなかった。

 すぐに女が仕掛けてくる。

 飛び上がって、大振りな叩きつけの一撃を放とうとしている。


 すぐに避けようとしたが、体が上手く動かなかった。

 思っていたよりも損傷が酷かったためだろう。

 どうしても動かず対応が遅れる。


 苦しい息の中、アッシュはかろうじて剣で受けた。

 しかし、強烈な一撃によって盾にした剣がへし折られてしまった。


「なっ……!」


 ずっと使ってきた、折れないはずの剣が折れた。

 わずかに動揺して、さらに行動が遅れてしまった。

 女は、アッシュが晒した隙を見事に突いてくる。

 追撃を受けて、槍の一撃で吹き飛ばされる。


「っ……!」


 また雪に突っ込んだ。

 ぼんやりと折れた剣の柄を見つめた。


 先ほどは驚いたが、『不壊』とはいえしょせんは魔道具だ。

 激戦の中で迎える限界はあったのだろう。


 特にこだわらず剣を手放した。

 その時、ふと自分の手が目に入った。


「…………」


 手は、甲冑の外殻は、いつの間にか黒く染まっていた。

 体を覆う魔力の色かとも思ったが、確かに黒に染まっている。


「はっ……」


 物語の騎士にはほど遠い、化物に相応しい色を見て自嘲した。

 やはり偽物なのだと。

 偽物にしかなれなかったのだと。


 あれほどの犠牲を貪ったはずなのに、アッシュはこうして弱いままだ。

 何もできない弱い化物だ。


 ずっと昔、雪の廃墟で。

 死のさだめから逃げ出して、強くなると決めたはずではなかったのか。



「…………」


 雪を握る。

 強く強く握る。


 朦朧とする意識の中、どうしようもなく問いがうずまく。


 なにもできないのか。

 勇者には届かないのか。


 何人も何人も死んだ。

 アッシュの、この力のために死んだ。

 だというのに勇者には、本物には勝てないのか。

 結局なんの価値も得られなかったのか。


 勝てないのなら、勇者がいるのなら、最初から必要なかったのだ。

 誰も死ぬ必要などなくて、無駄死にだったということだ。

 力のため、『骸の勇者』を生み出すためだったのだという、最低限の理由すらなくなった。


 罪は空回りして大義を失う。


 ただの人殺しの怪物になってしまうのが怖くて、アッシュは指先を震わせる。


「…………」


 たとえ燻るばかりの灰でも、未来のためにできることがあると信じていた。

 そう在りたいと願ったのだ。


 折れそうな心を支えてきた決意を失うことは、もはや死ぬことよりもずっと恐ろしかった。


 故に。

 その拠り所を守るために。

 強い、より大きな力を望む。

 するといつしか震えは止まり、手にはかすかに炎がまとわりついていた。


「…………ああ」


 そうだ、違う。

 もうかつてと同じ、無力な子供ではない。

 殺戮のために生まれ変わったのだ。


 雪の光景がいつかの廃墟と重なった。

 ぼやけてはまた戻る。

 よろめきながらも立ち上がって、まっすぐに敵を睨む。


 始まりは雪、終わりは炎。

 たどってきた愚かな道のりを思い返した。

 追憶はいつしか幻覚となり、現実と溶け合って境目を曖昧にする。


 ああ。

 ……ああ、鐘のが聞こえる。


「…………」


 作り出した短剣を二本、右手と左手にそれぞれ握った。

 そして黒い鎧に炎を纏い、アッシュは再び槍の女へと刃を向けた。




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