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失われた自分を求め探して彷徨って  作者: 数波周
第三話「深層の森林地帯リオパーダ 不穏の足音」
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47. 霧中の世界

「……分かっているだろうが、このままじゃ八方塞がりだ。ツカサ、悪くは思うなよ」


 静かに水が流れゆく音に混じり、一人の女性の声が霧の満ちた川辺に響いた。その淡々とした言葉に抑揚は無く、ゾッとするほどの冷酷さを隠そうともしていない。


「そん、な……お、囮だなんてっ」

「二度も言わせるな。君はボクの副官なんだろう? ならば、その立場をわきまえろよ」


 その冷酷な言葉を向けられているのであろう若い青年は、対照的に上ずったような返答をするのがやっとであった。その明らかに動揺をした様子の彼をさらに追い詰めるように、彼女――カタリナ・フォン・アストランテは感情を感じ取らせない底冷えするような声色で言い放つ。



 じりじりと後ずさる青年――ツカサのかかとに、川を流れる冷たい水が触れる。彼の装備は、この近くのどこかに隠れているであろう始祖族を相手取ることを考えたらもはや丸腰と言って差し支えがないほど。軽めの革の鎧に、一本だけになった双剣の片割れ。


「こんなっ、死にに行くような……殿下、どうかお考え直しを――」


 それでもなお彼女の考えを変えるために懇願をしようと口を開いた彼の目の前に、黒紅色の切っ先が突き出された。白い霧を切り裂くようにして顕現した、猛烈な熱気を放つ鉾槍。カタリナの霊剣が放つ熱気を目の前にし、ツカサは唾を飲み込んだ。


 例えこの場所が彼女の能力を制限する濃い霧のなかであろうと、やろうと思えば霊剣の目と鼻の先にいるツカサは容易く全身を焼き払われるだろう。もはや、彼には選択肢など与えられてはいないのだ。


「簡単な話だ。死ぬほど危ない目に遭うか、ここで骨の髄まで焼かれて灰になるか。どちらが賢明なのかが分からないほど、君も愚かじゃないだろう?」


 気まぐれに揺らされた鉾槍の尖端が彼の目の前に赤黒い軌跡を描く。反論の言葉どころかその意思すらも拭い去られたツカサに、彼女は哀れみどころか蔑む視線すらも向けず、ただ淡々と川辺を指差した。


「じゃあ、さっさと行って奴を誘きだしてくれよ。なるべく大きな足音をたてるのも忘れずにね」


 ただ言われるがままに、ツカサは黙って頷くことしかできなかった。踵を反して川の中洲に向けてつま先を向ける最中、彼の足は遠目に見てもわかるほどに震えている。しかしそれは、これから踏み出す先のことを鑑みれば、むしろ正常な反応と言えた。


 しんと静まり返った川の中、霧に紛れて文字通り姿を消し去った襲撃者は虎視眈々と彼らを狙っているのだ。ツカサはそんな存在に身を差し出す、命の保証など存在しない囮として差し向けられるのだから。




 震える足先が、川の水面を打ち鳴らす。歩調がてんでばらばらのその音は、内心に抱える不安と恐怖を隠しきれていないかのようだった。静けさが広がるこの空間だからこそ、その足音は嫌に周辺へと響き渡った。


 ある者はその音につられて襲撃者が姿を現さないかをじっと眺め――そしてある者は、白い霧と不可視の壁に紛れたその奥でほくそ笑んだ。


 霧を身にまとい周囲から完全に消え失せたまま、襲撃者は獲物を今かと待ち受ける。たとえ能力の副作用によって自身の視界すらも闇の中に落とされようとも、その聴覚は十分すぎるほどに獲物の位置を暗闇の中に捉えていた。このしんと静まり返った川の中ならば、歩調の乱れた足音を聞き逃すわけがない。



 川の流れに紛れるようにそっと足を踏み出して、襲撃者はゆっくりと歩きだした。方向は、おぼつかない足取りで川を進む獲物の向かう先。獲物である人間族の青年は、襲撃者を誘きだすどころか、その襲撃者が霊剣を手に待ち構えているところに歩いているのだ。その事実に、不可視の始祖族は笑みを深めた。


 青年が歩き出す前にカタリナへ向けたせめてもの陳情とその結末から考えて、きっと彼はまともに戦えるような準備もなくこの川辺に放たれたのだ。最初の襲撃を御者一人を殺害されながらも何とか乗り切り、幾度も攻撃をいなしたほどの青年であっても、与えられた任は結局その程度。


 どんなに理不尽に見えようと、これがこの国の常だ。圧倒的な力を誇る始祖族に対して、人間族の戦力はどうしても劣る。それゆえに始祖族は支配階級足り得て、人間族は彼らの統治のもとに行動する。


 戦力には優れない人間を囮にして敵を誘い、そして敵を狩るために始祖族が後ろに待機する。それは何らおかしなものではない。今この場において始祖族がアストランテ王国の姫であることからしても、むしろ当然とも言える選択である。



 ゆえに想定通りだと襲撃者は不可視の霧のなかで口角を上げる。不覚にも自身の存在を悟られたとしても、膠着状態を保っていればあの王女はいつか青年を差し出すはずだ。この場において真っ先に取り除いておかなければならない障壁、そして標的のひとつである存在を。


 乱れた歩幅のためか不規則に響く水を踏みしめる音が、段々と近くなる。襲撃者は、自身の体と共に不可視の存在と化した己の霊剣を構えた。世界を成しているのは、耳に届くわずかな音だけ。しかしたったのそれだけで、死の淵を怯えながら歩くことしか出来ないような人間を一人殺すには十分すぎた。



 微かに霧を穿いた霊剣は、それを扱う者にすらも目視することはかなわない。それでも、音もなく振り上げられたその切っ先は、獲物の体へと寸分の狂いなく向けられていた。


 獲物の動きから言って、完全に不意討ち。そしてたとえ直前で悟られようとも、獲物の青年に残されたのはただの小降りな剣が一本だけ。先ほどのように初撃を弾かれようが、ひとたび霊剣に力が込められれば通常の剣は敵うわけがない。後方で待ち構えるカタリナが異変に気がついたころには、獲物は霊剣に穿ち抜かれた後だろう。



 不可視の刀身が霧のなかを翻る。ほぼ確定した勝利を見据えた霊剣が、獲物に向けて一切の躊躇なく突き出され――


「……ッ!?」


 ――あわれな獲物の青年を切り裂くどころか、その刃は完全に押し止められていた。目の前で甲高い音が響き渡り、襲撃者は白い闇の中で目を見開く。押し込もうが何をしようが、霊験は硬い岩に阻まれたように微動だにしない。


 襲撃者の額に冷や汗が浮かぶ。霊剣の一撃を完全に防ぎきる、それはけっしてあの小ぶりな鉄の剣であるはずがない。完全に囮でしかなかったはずの青年が何故この霊剣の一撃を防げるのか。そんな疑問が襲撃者の頭を過った瞬間、目の前からその答えが返された。


「――あててやるよ。何故だって、そう思ってるだろ。何で戦う力も身を守る意思も、なんも無いはずの人間族が、霊剣を完全に抑えきっているのかって」


 目の前から聞こえてきたのは、見えない敵の影に怯えて足を竦み上げていた青年の声なんかではない。この期に及んで現状を把握できていない襲撃者に向けて、力強く、そして自信に満ち溢れた、"女性の声"が降りかかる。


 その瞬間に襲撃者は理解をさせられた。誘い出されたのは相手ではなく自分である。そしてその自身の目の前には、この場において最も相対してはいけなかった人物が刃を出して向かい合っているのだ。霊剣の向こうから熱気が伝う間際に剣を引いて逃げ出そうとした襲撃者に、もう退路など残されてはいなかった。


「ところがどっこい、君が相手をしているのは彼じゃない、ボクだ――さあ、こそこそと隠れてきたその面を、この場でおがませてもらおうか!!」


 カタリナの声に呼応して巻き起こる凄まじい熱気と強烈な上昇気流。冷気の漂う空気は瞬時に灼熱の熱風へと変わり、彼らの周囲だけから霧という存在が完全に消え失せる。そして、見る間に消え去っていく霧に混じってその熱波の中心にて風景が乱れた。


 まるでその場所にいきなり出現したかのように、人の姿が浮かび上がる。カタリナの鉾槍を不可視の霊剣で受け止めながらも、叩きつけられた熱気に髪や頬を焼かれた人影。熱で縮れた白髪を振り乱し、不可視という絶対的な能力を根本から拭い去られた若い男が目を見開いた。


 透明化という能力を無理やりに拭い去られたことでようやく開けた視覚という情報。その眼が捉えた真正面に、黒紅色の髪を揺らして獣のような笑みを浮かべているカタリナがいた。


「やあ鼠君。お前が刃を向けたボクこそが、カタリナ・フォン・アストランテだ。それじゃあ紹介しよう。その眼に焼きつけろ、ボクの優秀な副官を――」


 彼女の言葉が終わらぬうちに、彼らの後ろから水面を蹴る音が聞こえた。目の前にいたのがあわれな人間族を囮にしたはずのカタリナであるなら、ではその居るはずの青年は何処にいる。猛烈な悪い予感を抱き、始祖族の男はカタリナの霊剣を前にしながらも振り返り、そして息を飲み込んだ。


 両手に白い霧の中でも目立つ漆黒の双剣を構え、姿勢を低くして川を突き進む姿。黒剣の切っ先を寸分の狂いなく襲撃者へと向けたその人物こそ、間違いなく囮にされていたはずの青年――ツカサだった。

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