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残されたエチュード〈2〉


 美術教室に足を運ばなくなって久しい。

 去年までは授業で訪れる機会があったのだが、今年になって授業がなくなってからは、それもなくなった。

 懐かしい、というのが圭太の正直な感想だった。授業がなくなって残念に思っていたのは確かだ。


「失礼しまーす」


 美術教室は電気がついていた。しかし入ってみるとすぐに、そこが無人であることに気付く。

 机の上には、二組のリュック&手提げ。どちらも女子のものだということがわかるデザインで、池内のものとは思えなかった。

 中に入ってみて気付いたのだが、エアコンが効いていない。かなり前に切られているようだ。とすると、もしかしたらしばらくは誰も戻ってこないのかもしれないなと、圭太は考えた。


(白石の鞄って、どんなんだっけ)


 リュックタイプで、確か色は紺色っぽかったはず――それが、ぼんやりとした圭太の記憶だった。何度か教室で見たことがあるので、おそらく色の間違いはないだろう。

 机の上のリュックはいずれも該当しない。白石はまだ来ていないのか、それとも来る予定がないのか――どちらにせよ、目的は果たせそうになかった。


(おー! 懐かしいな、これ。去年やったわ)


 仕方がないので後でメールでもしてみるかと、教室を出ようとしたところで、圭太は教室に残されている作品に目を止めた。

 それは、去年美術の授業で課された交通安全キャンペーンのポスターだった。ざっと見る限り、テーマは去年と変わっていない。

 ついでに他のものも見ていくと、奥に隠れるようにして置かれた作品を見付けた。

 ――いや、正確には完成されたものではない。

 それを目にしたとき、圭太は瞬間的にそう思った。


(油絵……だよな)


 そう確認したくなるくらい、その絵は薄かった。

 薄塗りというやつだろう。水性絵の具かポスターカラーくらいしか使ったことのない圭太にはよくわからないが、一般的な描き方とは少し変わっている気がした。


(けど、これ……何だ?)


 一言で表現するなら、それはアオかった。

 青と蒼と藍と――それらがぐちゃぐちゃに混じり、けれど整然と並べられた世界。

 無秩序に見えて、その実、計算し尽くされた構図。


 芸術に詳しくない者でも、この作品がちょっと普通でないことに気付くだろう。高校生のレベルとしては突出している。

 しかし、いわゆる抽象画というやつだろうか。何を表現しているのかは、芸術方面に明るくない圭太には、想像もつかなかった。

 引きずりこまれるように、圭太は作品へと近付く。その時、


「あの……」

「うおっ!?」


 圭太は振り返るのと同時に、大きく仰け反る。

 小柄な女子生徒が、恐る恐るといった様子でこちらを覗き見ていた。


「すみませんっ」


 圭太の驚き方が派手だったからだろう。逆に彼女の方が恐縮した様子で、謝罪する。


「い、いや! こっちこそ、すいません。勝手に入って」

「いえっ……!」


 女子生徒は小刻みに首を振る。

 初々しさを感じさせるその仕草に、圭太は確かめるようにスリッパを見る。思った通り、一年生だった。


「全然音しなかったから、気付かなかった」

「すみません! あ、あの……ちょっと、声掛け辛くて……」


 一年生は、顔を赤くして俯いた。

 なんとなくいいなぁ、と圭太は思う。自分のクラブの後輩には、もはやこんな初々しさは残されていない。非常に新鮮な気分だった。


「今、クラブやってる途中?」

「あ、はい。一応……。あの、でも、先生は会議で……」

「あ、いや、先生に用ってわけじゃないんだけど」


 言いながら、圭太はもう一度美術室を見回す。白石がいないのは明らかだった。


「ちょっと知り合い探しててさ。けど、いないみたいだから、もう帰るよ」

「そうですか」


 さして気にする風もなく、彼女は言った。ここで「それって誰ですか?」とでも聞かれれば、多少困ったかもしれない。空気の読める良い子だと、圭太は勝手なことを思った。


「そうだ。この絵って――」

「唯香先輩の、です」


 瞬時に彼女の口から出た名前に、圭太は固まった。

 後輩の女の子は、自慢するような表情だ。圭太がその作品を見ていたのを目撃したときから、言う機会を待っていたのかもしれない。


「…………白石!?」

「あっ! はい。そうです。すみません」


 謝罪は名前で呼んでしまったことに対してか。

 圭太は、誰かが白石を下の名前で呼んでいるのを聞いて、なんだか不思議な気持ちになった。


「え、マジでこれ、白石が!?」

「はい。唯香先輩のです」

「へぇ……白石、実は凄かったんだな……。いや、けど白石っぽいっつったら、白石っぽいか」


 圭太の独り言に、後輩の子はくすりと笑った。


「にしても、すげーな……。けどこれ、まだ出来てなくない? もうすぐ完成って感じ?」


 何気ない問い。

 それに、彼女は一拍ほど間を置いて答えた。


「もう……このまま、だと思います」

「え?」

「唯香先輩、クラブ辞めちゃったから」

「……………………え?」


 その言葉を理解するのに、圭太は数秒を必要とした。

 白石が美術部を辞めた? いつ?

 しかしすぐに、それはつい最近のことだという結論に至った。少なくとも、お盆の前までは彼女が美術部に所属していたことを知っている。


「それって最近のことだよな」


 確認するように問うと、一年生は頷いた。


「私が知ったのは一昨日なんですけど……でも、そんなに前のことじゃないと思います」

「何で辞めたか、とか聞いてない?」

「そういうのは、全然……。池内先輩なら、何か知ってるかもしれないですけど……」

「そっか」


 そうは言われても、池内に直接理由を聞きに行くのは憚られた。

 そもそも接点がないし、池内も部外者である圭太に教えてくれはしないだろう。――いくら口が軽そうなイメージがあると言っても。


「唯香先輩に用事だったんですか」

「いや、特にそういうわけじゃ……」


 もごもごと言う圭太に、彼女はそれ以上追及することはなかった。



   ※



 美術教室を出てからのことを、圭太はあまりよく覚えていない。HR教室に戻る途中で何人か顔見知りに会ったが、彼らとした会話の内容すら頭に入っていなかった。


 白石が美術部を辞めていた。

 そのことに、圭太は自分でも驚くぐらいショックを受けていた。




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