第7話「接近」
隅田川からの風がザイルを揺らした。
藤堂竜太は停止した。脚を壁に突っ張って、束の間休んだ。
風は数秒でやんだ。
ザイルを握り、再び降下を開始する。すぐ隣りで揺れる諸星巡査も、ほぼ同時に動き出していた。
二人のSIT隊員は壁面に取りついていた。目出し帽とヘルメットを被り、服は同じ紺の制服だった。銃のホルスターは腿に装着している。
目的の場所までは、残り二メートルほどだった。足にくくりつけた小袋から、ザイルが繰り出されている。万が一、部屋の中の人間が窓の外を見ても、ザイルが垂れていることを知られないための工夫だった。
ベランダの上まで来た。影が映り込まないように、ほんの少し上で待機する。幸いにして、日射しは逆方向だった。問題ない。
マンションの屋上で、支援の仲間が手を挙げた。指を三本立てている。藤堂は頷いた。
室内には三人の人間がいる。一人が犯人、二人が人質だ。
事案の認知から、すぐに呼び出しがあった。警視庁本部に登庁した同僚と合流し、立てこもり事件に対応する機材を積んだ車両で出発した。墨田警察署までは首都高を使って三十分程度だった。
唯一、現場に直行した早見が、先行して情報収集を行っていた。部屋の中の状況は、早見の耳が探った。移動中の車の中で、その情報を受け取った。人数と男女構成がわかっただけだが、十分な成果だった。
だが、数分前に会った早見の顔は悲壮なものだった。彼は言った。
三人の位置を知らせる。だから、無線を聞いていてくれ、と。
あんな目をする早見は初めてだった。何があったのかはわからない。
『玄関から三メートルの壁際に女』
早見の声だ。
『怪我をした男がその近くに立っている。もう一人、被疑者は部屋の中央――女から二メートル奥。椅子に座っている』
そこまで、わかるものなのか。当てずっぽうで言っているのではないのか。
そう思わせるほど、細かい内容だった。だが、ここは早見を信じるしかない。
藤堂は相棒の諸星に頷くと、ザイルの小袋の口を緩く閉めた。一呼吸置いてから、身体を垂直方向に回転させた。頭が下になった。
ゆっくりとザイルを繰り出し、下降する。
ベランダの床が見えた。枯れた鉢植えがいくつかあった。身体が壁をこすり、モルタルが粉となって落ちていった。
『男が膝をついた。座った』
ベランダの上端に達した。慎重に覗き込む。カーテンが閉まっている。エアコンの室外機があった。その背面は壁だ。そこならば、降りられる。
藤堂は後ろ手に諸星に合図を出し、さらに下降した。壁という支えを失い、上半身が宙吊りになる。
顎を引いて、尻を落とした。下半身が壁を離れた。
身体を縮めた。腹のところのカラビナを軸にして、今度は水平方向に回転する。
下半身がベランダの領域に入る。膝を曲げて、足を落としていく。腕が上がり、指先がベランダの上端に届いた。背中を反らして、室外機と柵の間に降り立った。
カチリ
藤堂はザイルを外した。小袋も床に置く。
『被疑者、立った。そっちに行く』
まずい。
藤堂は身体を縮めた。ザイルを外してしまっている。すぐには戻れない。
この機に制圧するか。単独で近づいてくるのならば、窓を破り、銃口を突きつければ。
『窓から二メートル……』
近い。
ホルスターから銃を抜いた。安全装置を外す。
『止まった』
どうする。
体当たりで窓は破れない。まず、窓に一発撃つ。破る。カーテンが邪魔だ。その隙にこちらがやられる可能性もある。
そもそも、本当に犯人なのか。人質のひとりではないのか。早見の耳は正確なのか。
早見の目を思い出した。
気負いすぎている気がした。いつもの早見ではなかった。
信じるか、否か。
風がベランダの砂粒を巻き上げた。