第3話ー②
午前十一時三十分、試合開始のサイレンが鳴るはずが遅れを見せていた。
試合一時間前のシートノックを始める頃から増え始めた人影の中には、カメラ女子は当たり前に、それ以外に『香月LOVE』『章畝大好き』『指さして』など書かれた推し活うちわを手にした腐女子やSNS投稿目的であろう人物の姿も見受けられた。
これまでの人生で、野球観戦など微塵にも参加したことのない人たちは、高校野球においてのルールを知らない。
個人名の入った応援グッズや風船の類、SNSへの投稿を目的にした撮影、缶や瓶の持ち込みはNGであるため、係員が注意や一時預かりのために右往左往している。
「なんやこれ。」
試合前のシートノックですら、叫びに似た歓声が届く。
戒外は捕手位置から見える観客席の様子に開いた口が閉じず、驚愕していた。
どこで調べたのか、誰かがエビフライのぬいぐるみを、グラウンドにいる久米の名を叫び投げ入れる。
ギョッと体をビクつかせながら、肩身が狭くなっていく感覚に溺れそうな久米は、大きくため息をついた。
エビフライを慌てて回収に向かう係員と、腕組をしたまま、こちらを見て何か愚痴っていそうな相手チームの監督の表情が痛い。
縄手がベンチから何度も帽子を取り、頭を深く下げ謝罪の意を示すも、顔を覗かせるたびに誰かの黄色い声が飛ぶ。
やはりと言うべきか、観戦時のルールを知らせるアナウンスが流れる異例の事態となってしまった。
首にかけたスポーツタオルで額の汗を拭きながら、内野席に座る宇治は、肩をすくめてこちらをチラ見する北越智に苦笑いを返していた。
戒外は守備位置に付いた全員を見渡す。
サードを守る久米に一瞬視線が止まるが、今は試合に集中するんだとミットを拳で左手にフィットさせながら曲川に構えた。
「大変お待たせいたしました。白輝高校 対 大和まほろば高校の試合、まもなく開始でございます。」
真っ青な夏空に覆われたスタジアムにアナウンスが幾重にもこだまする、それぞれだったざわつきが一斉にグラウンドに集中する。
「先攻、大和まほろば高校。ピッチャー曲川くん。キャッチャー戒外くん――」
ラインナップとアンパイヤが紹介された。
風が凪いだ日本晴れの七月正午。
「プレイボール!」
審判の張り上げる声を合図に、サイレンが蝉の大歓声を飲み込みながら、天高く舞い上がった。
深呼吸をした曲川はセットポジションからボールを握り潰すように力を込める。
バットを握りなおし鋭く睨むバッターの視線が突き刺さる。
歓声と鳴り終わらないサイレンを切り裂きながら、最初の一球がホームベース後方に構える戒外に放たれた。
振り切るバットを避けるように、気持ちのいい音でミットに納まったボールは、普段から感じている曲川の重さと信頼で届いていた。思わず戒外は微笑んだ。
大和まほろば高校、硬式野球部の真夏が、これまでに感じたことのない色で今、幕を開けた。
――――――――――――――
橿原市の南部に隣接する明日香村。
深緑が太陽光を後光のように反射させ、神詠を奏でる蝉たちに包まれた丘の上に凝然と立つ、気高く存在感を放ち続ける日本家屋の中に久米香織はいた。
い草の香りが漂う広い和室。
その一角にある床の間には、太古の船である刳舟【くりぶね】の模型が飾られていた。
二十名ほどの人々が、畳の上に等間隔に敷かれた座布団に正座し、対面に座る人の講和に耳を傾ける。
蒸し暑いはずの夏風は涼しげに風鈴を揺らし、水撒きされた庭に咲き誇るノウゼンカズラやムクゲがうち縁の先に夏を描いていた。
正座した香織の視線の先、落ち着きある声に革新的な眼差しを持ち伝統衣装の裙襦 【くんじゅ―ゆったりとした古代中国風の衣装―】で身を整えたその人は、請安【しょうあん】先生と呼ばれていた。
漢塾【かんじゅく】と命名された『最先端の海外文学や哲学を学ぶ講読会』では、『力ではなく、思想で平和を形づくろう』が主題となっていた。
以前に転向療法を完全否定された香織が、新たに香月の同性愛を治す方法はないかと、多様性についてネットで検索していた時に『現在の価値観がバラバラでありながら、それを認め合おうと多様性を強要する世界』へ警笛を鳴らしていたサイトに目がとまった。
そこに表示されていた論語
【君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず】
に心を動かされてしまったのである。
幼い頃から文学が大好きで、現在も橿原市立図書館を勤務先としている。
そのせいもあるだろう。孔子の言葉が、自分が大切に描く【家族の愛】に間違いはないはずだと確信を持たせてくれた。
「昨今、多様性の尊重を声高らかに叫ぶ国や企業が往々にして存在しています。」
「多様性そのものを否定するつもりはございません。」
「しかし、人々を結ぶ志なくして、多様性だけを積み重ねても国は形を成しません。」
力強く、けれど物静かな波長が部屋を包む。
「各々が自分の権利だけを主張し、それを他人に強要し合う社会は、過去の豪族たちが割拠した暗黒の日本の姿と何も変わらないのではないでしょうか。」
夏の太陽に雲がかすめては、光が広がる。
「天に一つの太陽があるからこそ、大地に万物が育つ。」
「中心なき多様性は、ただの烏合の衆にすぎません。」
「そこには再び混沌の時代に逆戻りしてしまう危険性が存在するのです。」
「そこで、みなさんにゆっくりと考えていただきたいのは、多様性を認め合う世界の軸として、何が必要かということです。」
遥か遠くから届いた風に風鈴が鳴った。
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本作は『トゥルーカラーズ=僕らの家族スタイル』シリーズとして連載しています。
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