第十一節
ピッ……ピッ……ピッ……。と、不思議な機械音が耳を通して脳に伝う。
その音に引っ張られるように、僕は意識を取り戻した。
カーテンが開け放たれた窓から眩しい日差しが部屋に入り込む。
部屋は日光を反射して白く暖かく輝く。
僕の周りにはなんだかよく分からない機械がたくさん置かれていて、それに紛れるように時計も置かれていた。
驚くほど重い自分の体をなんとか動かし、僕は時計に表示された日付を見る。
一月十九日。
時計にはそう表示されていた。
激しい頭痛に眉を顰めながら思い返す。
どうして僕がこの、どこからどう見ても病室である空間で目を覚ましたのか。
その原因を探る。
辿る。辿る。記憶を辿る。
けれど、僕の目覚める前の記憶はどうしても一月一日で止まってしまっている。
そこからの記憶が丸々無くて、次いだ時系列に該当する記憶が今。
まるでこの十八日間、僕の意識が飛んでいたかのようだ。
なぜそんなに時間が経っているのか僕にはわからなかったが、やけに痛む体には包帯やらギプスやらが取り付けられていて、ドラマなんかで見る重症患者宛らの様相になっている。
何か、重大な出来事に巻き込まれたであろうことは明白だ。
視覚的にも感覚的にも痛々しい体に鞭を打ち、僕はとりあえずナースコールのボタンを押す。
駆けつけた看護師によって医師が呼ばれ、簡易的な検査が始まった。
体の調子で違和感を感じる部分は無いかとか、言葉を話すことはできるかとか、あとは記憶に障害は無いかとか。
本当にそんな程度の検査だった。
そして検査が終わると、医師によって僕の身に何があったのかを説明された。
「柴谷さん。あなたは事故に遭いました。飲酒運転の車が歩道に乗り上げ、その際に巻き込まれたんです」
「はぁ……」
「あなたは幸いと言って良いのかわかりませんが、重症は負ったものの一命は取り留めました。あれだけの速度の車に撥ねられて命があるのですから我々も驚いていますよ」
「はぁ……」
医師は誠実に、僕の身に起きた事実を話してくれた。
まるで僕を勇気付けるかのように、変に明るい調子の声音で。
けれど、僕は医師から受け取った言葉をそのまま飲み込むことができなくて、生返事を返すことしかできない。
「それで……」
「それで?」
「いや、その……」
医師が、言葉に詰まった。
額に冷や汗を滲ませるその顔が、言ってしまって良いのだろうかと言う迷いの色に染められているのがわかる。
もうここまできたら、僕もなんとなく医師が何を言おうとしているのか分かった。
これだけ話が添えられていて、事の顛末を考えられないほど僕もバカではない。
「一緒にいた女性ですが……」
「死んだんですか?」
医師はゆっくりと頷いた。
「我々も手を尽くしました。しかし、彼女は柴谷さんよりも怪我がひどく複雑なものでして、元日の夜が明ける頃には既に……」
「そうですか……」
胸の奥底を抉られるような、不快な感覚に襲われた。
きっとその感覚は悲しみという感情に近いものなのだろう。
けれど、涙など僕の腐れた瞳には浮かび上がって来なかったし、加奈が死んだ事に対する悲しみの言葉を僕は零す気にもなれなかった。
だから、この不快な感覚は悲しみとは違うのだろう。
なら、きっとこの感覚は喪失感のそれだ。
大切なものが心の奥からこぼれ落ちたような。
もう取り返しのつかないことになってしまったかのような。
そんな喪失感。
追い打ちをかけるように、別の感情も湧き出てくる。
”こうなる気がしていた”だなんていう諦めの感情だ。
それらの気持ち悪い感触が僕の心に巣を張り巡らせようとしている。
吐きそうだ。
滑らかな心臓をザラついた猫の舌で舐め上げられたような。
そんな感覚が気持ち悪い。
けれど、気持ちが悪いからとどうこうできるわけでも無い。
「あぁ……そうなんですね。はい」
僕はもう胸の奥底を抉る感情の化物に全てを委ね、何もかもを放っぽり出して逃げてしまいたくなった。
いったい何度繰り返せば加奈を救えるのか。
いったい何度繰り返せば僕は幸せになれるのか。
そんな疑問をぶつける相手などどこにもいないし、そんな疑問をぶつけたとて、僕に明確な答えをあたえてくれる人などいない。
これから先、僕はどうするべきなのか。
それを考え続け、気づけば僕の傷は癒え、大切な人を失った季節は死に、次の季節が僕の前に訪れた。
そんな時だった。
僕は一人の男と出会った。
かつて一瞬だけ遭遇した事のある人物と。
いつかの修学旅行の際、駅のホームで女の子と一緒にいたその人物と。
僕は思わぬ再会を果たし、初めて会話をした。
あれはそう……確か、病院の庭にある大きな大きな桜の木に最初の花が咲いた頃だった。




