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第一章「カニバリスティック」

 そうね。お父様は、全然かまってはくれないわ。ケンキュウ、ケンキュウって言ってばかりで……。

 希歩の乱れた髪を手櫛でとかす。私の愛しい妹。可哀想に、もうここ数日はお風呂に入れていない。ふと、希歩は手を離れ、前へ歩む。くるりと回って私に微笑んでくる。可愛い。妹は少し前傾したかと思うと、私へ向かってずいと踏み出した。横に広げて、私へ伸ばす手を見て、ようやく意図を汲み取る。希歩の細い腕は私の横腹から腰へ、腰から背へと周る。私も希歩の背に手を回してから、引き寄せた。暖かい。変わって欲しくない感覚が腕の中に確かに存在した。

 廊下から足音が一定間隔で聞こえる。お父様かしら。瞼を押し上げ、視線を上げる。希歩のつむじから、首を回して古い建て付けの引扉へ視線を向ける。扉の曇り窓に誰かの黒い影が映る。白衣を着てない? 腕の中の希歩をもう少し強く胸にうずめ、姿勢を落とす。希歩はひょこりと鼻から上だけを出して、扉の方を見つめた。扉がジリジリと横に引かれていく。お父様や助手様が白衣を着てない事なんてあるのだろうか? 扉端から徐々に見えてくる。見慣れた擦り切れたサンダルに、真新しい靴下、汚れてダボっとしたズボン、洗い立てでパリッとした服、ボサボサの頭……。顔を見た瞬間に、全身の毛が逆立つのを感じた。その人に私が反応するより速く、希歩は喉を震わせた。

「助手さんだー!」

 快活な希歩は今にも、彼に飛びつきそうだった。そんな気配を察して、飛びつく動きを制する。扉から見えたその姿はお父様の助手だった。何度も見たお父様の助手の歩き方、笑顔、目の下のクマ……。私の言葉は私の考えより先に口からついて出ていった。

 そこで止まってください。お父様はどうしたのですか?

 私の声が届いたのか? にじり寄る彼は数歩先で立ち止まった。彼の目をジィッと見る。どこを見るともなく、私か、私の後ろに目が向けられている。その目は濁っていた。彼の口が開くのと同時に、声が私たちに投げられた。その声は抑揚に富み、明るく快活だ。

「栞ちゃん、希歩ちゃん。ここにいましたか! 探したんですよ。お父さんが、馬場教授がお呼びですよ!」

 彼は右手を私たちへ伸ばして、ジリジリと近づいてくる。少しずつ後ろへ引きながら、彼との距離を取る。ここの出入り口は彼の後ろにある引き扉しか無い。

「なぜ、私から距離を取るのですか? ほら、早く手を取って!」

 聞こえてくる言葉や、抑揚は助手様にしては、あまりに明るい。ふと、上着が引っ張られる感覚に気付き、視線を前下に戻す。希歩は私にピッタリとくっ付き、私の目を見つめている。くりくりとした目には、大きく見開かれた私の目が映っていた。つられるように目を見開く希歩に、しっかりと頷き肯定する。その目が少し潤んでしまっている。肺の空気を吐き切り、彼を睨みつける。

「そんな睨まれたら、怖いじゃないですか?」

 背中が硬くひんやりとした壁を捉えた。お腹の底がゴワゴワして、やけに冷たい汗が額を辿り頬をなぞる。大丈夫。彼の手を掴み、体重をかけて横に引っ張れば、少しは時間が稼げるはず。近づいてくる手に狙いを定めて……今だ! 飛びつくと同時に希歩を半ば放り投げるように引き戸に向かって押し出した。彼の手を掴む。半歩踏み出しながら、首元を掴む。一息に体重を左にかけ、体勢を崩しに行く。動かない。体重をかけて、少し動くどころか、掴んでいるこの手さえも、微動だにしない。気付いた瞬間、私は服がちぎれる音と共に、廊下の壁に叩きつけられていた。座り込む床には、ドアの木片と強化ガラスの破片が散らばり、キラキラと光っている。手に残った彼の手の感触は異様な冷たさと硬さを訴えていた。身体中が痛い。手から胸元に目を移す。お気に入りのシャツが胸元からビリビリに破けている。強張る喉から鉄の味が込み上がってくる。木片やガラス片はブレて、形が見定まらない。頬に細い指が触れ包まれ、暖かさが滲む。ハッとして、見上げると目をいっぱいに広げて、涙ぐむ希歩の顔があった。口を動かし、伝えたい。逃げて。声にならない。喉奥から込み上げる味は声に蓋をする。祈るように希歩の目をジィっと見つめ、右を向く。同時に右を指差す。暖かい感覚は頬をつたい、鼻に触れ、離れていく。不規則に音を立てながら、走っていく。大丈夫。震える足に無理を言って、ゆっくりとその場で立つ。まだ動ける。両手で両の頬を叩き、ピントを彼に合わせる。濁った目、固まった口角は変わらない。体勢を崩しに行くのは無理。多分、私では傷をつける事さえ叶わない。姿勢を落とす。足元のガラス片を一掴み。手にビリビリと伝わる痛みは飛びそうな意識を留めてくれる。右腕を振り上げ、彼の濁った目を見つめ、手を振り下げる。細かい痛みは、パラパラと手を離れ、山なりに飛んでいく。彼は瞬きもしない。ぶつかったガラス片は軽い音を立てて、キラキラと宙を舞う。うん、分かっていた。分かっていた。ガラス片だと使い物にならない。逃げたい。横目に右を見る。希歩はいない。何故か彼はゆっくりと歩いてくる。これなら。足に力を込め、たわませる。右を向き、飛び出した。足で地面を掴むたび、意識が歪むような痛みが走る。吐く息に血が混じり、何度も誤嚥する。足は止めない。まだ、死ねない。もう、自分の息も聞こえなかった。

 突然、目をさす光、つんざく爆音。焦げたような匂いが鼻をつく。お父様? 見慣れた白衣と、ボロボロの革靴が霞んで見える。大きな銃を抱えている。銃の先から白煙が昇り、目に染みる。

「隠れろ。栞。救援は呼んだ」

 野太く、唸るような声にハッとした。身体を前傾していき、足を大きく持ち上げ、一気に前へ飛ぶ。何度も何度も。後ろで銃声が3回聞こえた。階段を登る時、横目に後ろを見た。胃からムカムカしたのが込み上げてくる。お父様は彼に首を掴まれた。彼の胸は大きく開かれ、箱みたいな空洞が銀色で鈍い光を反射している。その、胸にお父様の頭が……。階段を向いて、駆け上がる。ガチンと大きな鈍い音が響き渡る。振り返らずに走り続ける。内臓が捻れるような激痛が踏み出すたびに繰り返される。

 部屋の扉を乱暴に開き、中に入る。机や椅子を引っ張り、扉の前に積み上げていく。数歩あとずさり、へたり込む。息が霞む。込み上げてくる嫌な感じは、喉を通り吐き出ていった。真っ赤だった。茶色い床や私のジーンズは赤黒く染まっていた。このままでは……。まだ、まだ……。体が落ちていく。視界の端から黒いモヤが掛かり、指の先から肌寒さが伝播していく。ふと、見慣れたロッカーの中にボロボロの革靴が見えた。

『お父様。あれなぁに?』

 希歩の声が頭に響く。

『ん? あぁ、あれはカニミソって言うんだよ。』

『かにみそ? べぇー……』

『危ないから近づいちゃダメ。思い出を食べられちゃうぞ〜』

 思い出を食べられる……。もし、もし私の記憶が残るなら……。また、喉に血が込み上がってくる。息が詰まる。あと少しだけ時間を稼げれば……。無理に上体を起こし、部屋の奥を見つめる。そこには、銀色に鈍く光る肌をしたヒト型が見えた。手を床につき、足を引きずる。あと少し。あと少しだけ。ヒト型の銀色の胸に指先が触れると、耳をさす金属音と共に手前に開いた。嗚咽が混じる。胸の中は箱のような空洞がある。私の頭が軽く入る。祈るように目を瞑り、もたれ掛かりながら中に入った。

 ガチンと鈍い大きな音がした。耳鳴りがする。頭の芯まで冷えていくのが分かる。

——REBOOT SYSTEM.

——CANI.M.I.S. BOOT COMPLETE.

——SCAN MEMORY……LANGUAGE: JA.

——MEMORY-ID: 0002. NAME: 栞.

——ERROR: ORDER NOT FOUND.

——M.I.S.O. REBOOT……SUCCESS.

——M.I.S.O./ OVERWRITE: DB/CANI.M.I.S./ORDER

——READY.

 ギザギザした暗い光がフッと消えて、視界が晴れていく。眩しい。白い丸い光が天井で煌々としている。ボロボロの壁を見て、床を見る……。頭のないヒトが倒れている。うつ伏せに倒れて、背中にいっぱいの鋭利に切られた髪の毛を乗せて、床を真っ赤に染めて。

 私だった。

 希歩はどこ? 考えるが先か、瞬間に世界が真っ青に切り替わる。舐めるように周りを見渡す。緑や黄色のモヤが葉っぱやネズミの形になっている。足元と下の少し遠くの方に緑で頭のない人影。後ろに真っ赤な小さい人影。見つけた。世界に色が戻った。壁に指を立て付け、突き刺す。力任せに引くと、甲高いイヤな音を立てて割れ、外れた。木屑が舞うなか、目をいっぱいに開いた希歩の顔が陽光に明るく照らされている。

「お姉ちゃん……?」

 そう聞こえると共に、小さい体を弾ませて、私の胸に飛び込んできた。私の手は動かせなかった。全く暖かくない。

(システムログは空想によって書かれています)

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