夢世12
俺は不本意ながら、数分の待ち時間を受け入れ、またバスを利用し、家路に着いた。
会社員と思われるスーツ姿の男性、夕食の食材だろうか、長ネギが顔をのぞかせているエコバックを肩に掛けた女性、それに定年を過ぎたであろう歳を重ねた男女が数名、それに俺。それが、このバスにおける乗客の構成だった。幼い子供がいなかったためか、車内は静かだった。
時間はまだ、夕方5時の少し前……。
寝るには早い時間ではあるが、もう流石に、俺の眠気は限界に達していた。とにかく、1秒でも早くベッドに潜り込みたい。その一念が、脳内を支配している間に、俺は、無意識のうちにバスを降りて、家の前まで辿り着いていた。
もたれるようにして玄関の扉を開け、靴を乱暴に脱ぎ捨てる。
片方の靴が横向きで静止したのが目に入ったが、もうそんなことはどうでもいい。
階段をドタドタと音を立てながら駆け上がり、部屋の扉を開け放つと、寝間着に着替えることすらせずに、俺はベッドに倒れこんだ。
倒れ込んだとほぼ同時に、俺の意識は刈り取られた。ベッドに触れた感覚すらなかった。
今度こそ熟睡できる……はずだった。
けれど、闇の中に埋没したはずの意識は、再び夢の世界へと呼び戻され、気がつけば、アナザーワールド内をまた歩かされていた。
「嘘だろ! まだ修正できてないのか? どうなってんだ?」
朦朧とした意識の中で悪態ついてみたが、何も変わりはしなかった。
確かに運営は、アナザーワールドへ行くか、そのまま眠るかの選択キーに不具合があるだけ、と説明していたはずだ。
その程度の不具合であれば、次に眠る時までには修正できていると勝手に思い込んでいたのだが……どうやらそう簡単ではないらしい。
どうしたら眠れるのか……思いついた方法は、癪だが、あの運営が言っていた緑の球体に触れることだけだった。
「……緑の球体……緑の球体」
砂漠で水を渇望するように彷徨い歩く。
そして俺は、通路の中央、数十メートル先に緑の球体を発見すると、全力で走り寄り、もたれかかるようにそれに触れた。
ザザァッー……ザザァッー。
心地良い波の音が聞こえる……。
いつの間にか目を閉じていた俺は、緩やかに瞼を開く。
澄み切った青い空に、触れたくなるほど柔らかそうな雲が2つ、寄り添って浮かんでいる。
その仲睦まじい雲の隙間から、暖かな日差しが俺に手を差し伸べている。
上を見上げているわけではない。俺の正面にその光景が広がっているのだ。
どうやら俺はどこかに横たわり、空と正対しているらしかった。
暖かく柔らかな風が、俺の頬を撫でていく……。
その風の強弱に合わせて、俺の体はゆったりと左右へスイングする。
預けた体は、2本の椰子の木に括り付けられた大きなハンモックにあった……。
これ以上の幸せはないのではないかと思えるほどの心地良さが、全身を覆う。
心もとろけて、ほどけて、サラサラと穏やかな闇へと霧散していく……。
闇との同化が滞りなく完遂されると、意識も蒸発するようにいつの間にか消えていた……。
目が覚めたのは、翌朝となってからだった。
なんと半日以上、ぶっ続けで寝ていたことになる。これだけ長い時間睡眠を取ったのは、赤ん坊の時以来かも知れない。
大袈裟かも知れないが、心身ともに生まれ変わったかのように、晴れ晴れとしている。
アナザーワールドの運営者が言っていた通り、確かに快適な睡眠を得ることができた。短時間睡眠とはならなかったが……。
アナザーワールドに入るか否かの選択だけであっても、できて間もない未成熟なシステムにとっては、意外に難しい修正なのかも知れない……などと快眠による満たされた心が、寛容な見解にたどり着く。
まあ、あまり都合よく解釈してはならないとは思うが、今のところ睡眠時間が削られた他は、特に不利益を被ったとは思えない。
(想定していた精神攻撃や記憶の改ざん等に比べればの話だが……)
特に俺の場合、アクションを起こす前までは、大多数の人間と同様に、思考停止した状態で流されていただけで、ダメージは少なかったのだと思える。
様々な利害を比較し、総合的に捉えてみても、このアナザーワールドという今までにない領域は、純粋にコミュニケーションツールとして考えたならば、とても面白い試みだと感じる。
それはさておき、折角心地良く目覚めることができたのだから、この時間を有効活用しなければ勿体無い。
何をすべきか……。
考えながら階段を下っていくと、リビングからテレビの音が漏れている……。
昨日は帰ってすぐに2階に上がり、寝てしまったはずだ。
テレビなど付けていない……。
忍び足でリビングに向かった。だが、入口付近の板の間がヘタってきているのをうっかり忘れて踏んでしまった。
ギィギギィ~ッ
数秒その場で固まったものの、そのままいても仕方がないので、そろそろとリビングを覗き込んだ。
「雄彦? 何やってんの?」
長い黒髪の女が、ソファーからひょっこり顔だけこちらに向け、声を掛ける。
「何でお前が、人ん家のソファーで寛くつろいでるんだよ!」
俺はほっとしたのと同時に、驚かされたことへの苛立ちで、つい怒鳴ってしまった。
「何よ! 怒ることないでしょ! 寂しいかなぁと思って、様子を見に来てあげたのに!」
女は口を尖らせながら文句を言った。
この女は、隣の家に住む幼馴染の一宮 遥。
こいつは聡よりももっと前、幼稚園児の時からの付き合いだ。
中学では、才色兼備の美少女として結構持て囃されていたが、それ以降は女子高と男子高とで別れたので、どのように評されているのか分からない。
だが、何かと絡む機会が多く、例の電脳武道伝ではチームの一員として戦ってもらった。
大会時は、後方支援担当だったが、なかなか飲み込みも良く、頼りになる存在だった。
俺は嘆息を漏らしながら、ソファーへと向かっていった。
すると、リビングテーブルの上に牛乳と食べかけのジャムトースト、ソファーには、パジャマ姿で寝転ぶ遥の姿が顕になる。
「……ここ、お前ん家だっけ?」
こいつに憧れてた中学の同級生に見せてやりたい、と思いながら、精一杯の皮肉だけ言った。
「菜緒さんから留守中、武彦のこと見てほしいって、できれば家のこともお願いって頼まれたのっ!」
俺の皮肉など意に介さず、澄ました顔だ。
菜緒とは俺の母親のことだ。
今は親父と一緒に、結婚30年のお祝いにイタリア旅行へ出かけている。
なんだか、一気にやる気が失せてしまった。
俺は、歩みをダイニングテーブルの方へと変え、椅子にどっかと座った。
それを見た遥は、残ったジャムトーストを牛乳で流し込むと、空いた食器を抱えながら、キッチンへ向かい「今、何か作ってあげるから待っててね。もしリクエストがあったら教えて」と言うと、食器を流し台に置き、エプロンを纏った。
「ああ、悪いな。何でもいいよ」
幼馴染の女の子が、わざわざ家まで来て食事を作ってくれる……。通常ならばそうあることではないのだろうが、俺にとっては中学性くらいから続いていることなので、どうということはない。
昔から遥は、俺の母親と仲が良かったので、こういう頼まれごとをよくされていた。
遥も気を遣ってしている訳ではなく、楽しんでやっていると言っていた。
本人がそう言ってくれるならば、こちらとしては断る理由はない。
ー数分後ー
「はい、できたよ。オムライス! 冷めないうちに食べてね!」
「ああ、いただきます」
一口、また一口と食べ進めていく俺の正面で、遥がじっと頬杖をついて見つめている。
「そんなに見るなよ、食べにくいだろ」
「どう? 美味しい?」
遥は構わず、俺に問いかける。
「ああ、うまいって」
顔が火照っているように感じ、隠すように俯きながら食べた。
「ありがと!」
遥は満足気に笑みを浮かべ立ち上がると、ソファーへと向かった。そして、ソファーに腰掛けた途端、不意にこう尋ねてきた。
「修平君って、今、どうしてるの?」
「……」
俺は手を止め、沈黙で答えた。
「え? まだ許してあげてないの?」
遥の表情が強張る。
「そういう訳じゃない。ただあれから何だか気不味くて……」
「何それ! それでいいの?」
「……いや」
「じゃ、今から会いに行こう!」
「今から?」
「そうよ! 善は急げって言うでしょ! 私、着替えてくるから! そしたらすぐに、修平君に会いに出発よ!」
遥は、俺の返事も聞かず出て行ってしまった。
この時残された俺の顔は、一体どういう表情となっていたのだろう。