幸せに生きてほしい
その夜、城は燃えていた。
六歳のルシアには、何が起きているのか分からなかった。
いつもなら静かな王城の廊下を、大人たちが慌ただしく走り回っている。
遠くで何かが壊れる音がした。
窓硝子が震え、壁に掛けられていた絵が床へ落ちる。
誰かの悲鳴が聞こえた。
そして――血の匂いがした。
本来ならば、恐ろしいものではないはずの匂い。
けれどその夜だけは違った。
あまりにも多くの血が混ざり合った濃い香りは、幼いルシアにもはっきりと教えていた。
何か、とても恐ろしいことが起きている。
「お母様……?」
ルシアは隣を歩く母の手を、ぎゅっと握った。
ロザリアは答えなかった。
いつもなら、娘が少し不安そうな顔をしただけで優しく笑ってくれるのに。
今夜の母は違う。
廊下の先を見つめる赤い瞳は鋭く、その美しい黒髪には、返り血が僅かについていた。
「……お母様、血が」
ルシアが手を伸ばそうとすると、ロザリアはその手を取った。
「私の血ではないわ」
「誰の?」
「……大丈夫よ」
答えになっていない。
けれどルシアは、それ以上聞けなかった。
「ルシア」
ロザリアが足を止める。
そして娘の前へしゃがみ込んだ。
「今から、お母様の言うことをよく聞いて」
「……うん」
「何があっても、声を出しては駄目」
「どうして?」
「ルシア」
強い声だった。
それだけで、これは絶対に守らなければいけないことなのだと分かった。
「……分かった」
ロザリアの両手が、小さな頬を包む。
冷たい手だった。
「ゼノンが迎えに来るまで、隠れているのよ」
その名前を聞いて、ルシアの顔がほんの少しだけ明るくなる。
「お兄様?」
「ええ」
「お兄様、来てくれる?」
「必ず」
「本当に?」
「ゼノンはあなたを置いていったりしないわ」
ロザリアは笑った。
けれど、ルシアには分かった。
お母様は泣きそうだ。
「お母様は?」
「……すぐに戻ってくるわ」
「じゃあ一緒に隠れよう?」
ロザリアの表情が揺れた。
ほんの一瞬だった。
「……ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
答えはなかった。
代わりに、強く抱きしめられた。
息が苦しくなるほど。
「愛しているわ、ルシア」
「私もお母様、大好き」
「……ええ」
ロザリアは娘の髪を何度も撫でた。
艶やかな黒髪。
自分と同じ。
夫と同じ。
そして息子と同じ――ヴァルディエの血を引く者たちの色。
「あなたが生まれてきてくれて、本当に幸せだった」
「お母様?」
「ゼノンと一緒に生きて」
「お兄様と?」
「ええ」
ロザリアは小さく微笑んだ。
「二人で、生きて」
その意味を尋ねるより早く、轟音が響いた。
城全体が大きく揺れる。
「っ……!」
ルシアは母へしがみついた。
ロザリアの表情が変わる。
「来た……」
「誰が?」
母は答えなかった。
娘の手を引き、走り出す。
向かったのは王族の居住区のさらに奥。
ヴァンパイアの王とその家族以外、立ち入ることを許されない区画だった。
ルシアも普段は入ったことがない。
ロザリアが壁の装飾へ手を触れる。
重い音とともに壁の一部が開いた。
その奥には、人ひとりが隠れられるほどの小さな空間があった。
「ここにいて」
「嫌!」
ルシアは初めて母の手を強く握り返した。
「お母様も一緒がいい!」
「ルシア」
「怖い……!」
「大丈夫」
ロザリアはもう一度、娘を抱きしめた。
その額へ、そっと口づける。
「あなたには、お兄様がいるから」
「でも……」
「ゼノンは必ずあなたを見つける」
母の赤い瞳が、真っ直ぐに娘を見る。
「だから信じて」
「……うん」
泣きながら頷く。
ロザリアは娘を隠し部屋へ入れた。
扉が閉まっていく。
「お母様!」
ルシアが手を伸ばす。
最後に見えた母は、笑っていた。
いつもと同じ。
優しい笑顔だった。
それが――
ルシアが見た、母の最後の笑顔になった。
*
暗い。
怖い。
狭い。
ルシアは膝を抱えて座っていた。
母に言われた通り、声を出さない。
外から何度も大きな音が聞こえる。
何かが砕ける。
誰かが叫ぶ。
ときどき、城全体が震える。
それでも耳は塞がなかった。
お兄様が来る。
お母様がそう言ったから。
だから待たなくちゃ。
お兄様なら絶対に見つけてくれる。
そう信じていた。
やがて――
足音が聞こえた。
ゆっくりと近づいてくる。
ルシアは息を止めた。
「ロザリア」
知らない男の声だった。
「……お前だけは、殺したくなかった」
「黙りなさい」
母の声。
近い。
すぐ向こうにいる。
ルシアは立ち上がりかけた。
けれど母との約束を思い出して、両手で口を塞ぐ。
「今さら何を言っても無駄よ、エドモンド」
「無駄?」
男――エドモンドが笑った。
「お前がアルフォンスを選ばなければ、こうはならなかった」
「私が誰を愛したかと、あなたが今日したことに何の関係があるの」
「あるとも」
低い声が響く。
「すべて、あの男が奪った」
「違う」
ロザリアの声は震えなかった。
「あなたは最初から、何一つ持っていなかった」
しばらく沈黙があった。
そして。
「……ならば、せめてあの子をもらおう」
ルシアの身体が強張った。
「あの子の血は、お前よりも美しいだろう」
「――あなたには触れさせない」
母の声が変わった。
「絶対に」
「隠しても無駄だ」
エドモンドが静かに笑う。
「血は隠せない」
「どこへ逃がそうと、どれだけ時が経とうと――私は必ず見つける」
次の瞬間。
凄まじい音が響いた。
「……っ!」
ルシアの身体が跳ねる。
何かが壊れる。
壁に亀裂が走る。
そして。
何かが床へ落ちる音がした。
静かになった。
嫌な静けさだった。
「……ロザリア?」
先ほどまで余裕のあった男の声が、僅かに揺れた。
「ロザリア」
返事はない。
「お母様……?」
ルシアの目から涙が零れた。
駄目。
声を出したら駄目。
お母様と約束した。
それなのに身体が震える。
「お母様……」
そのときだった。
「――エドモンド!」
父の声が響いた。
アルフォンス。
ヴァンパイアを統べる王。
人間の王と盟約を結び、長く危うい二つの種族の共存を守ってきた男。
そしてルシアにとっては、誰より優しい父親。
直後。
凄まじい衝撃が城を揺らした。
隠し部屋の中まで震える。
壁に亀裂が走る。
ルシアは頭を抱えて身体を丸めた。
一度。
二度。
三度。
何度も轟音が響く。
何か巨大なものが壁へ叩きつけられる。
床が割れる。
窓が一斉に砕け散る。
純血同士の戦い。
六歳のルシアには、それが何を意味しているのか分からない。
ただ怖かった。
城そのものが壊れてしまうのではないかと思った。
やがて。
大きな音が一つ響いて――
すべてが止まった。
*
どれほど時間が経ったのか分からない。
暗い。
怖い。
誰も来ない。
「……お兄様」
今度は我慢できなかった。
「お兄様……」
涙を拭う。
「迎えに来て……」
お母様は戻ってこない。
お父様の声もしない。
「お兄様…」
そのとき。
隠し扉の向こうから足音が聞こえた。
ルシアの身体が強張る。
誰?
お母様?
お父様?
それとも――
あの男?
足音が止まる。
扉が開いた。
光が差し込んだ。
「ルシア!」
聞き慣れた声。
「……お兄様?」
黒髪の少年が飛び込んできた。
ルシアは立ち上がる。
「お兄様!」
その胸へ飛び込んだ。
ゼノンは何も言わず、小さな身体を抱きしめる。
強く。
痛いくらい強く。
「怖かった……」
「うん」
「お母様が……お父様も……」
「……うん」
「どこにいるの?」
ゼノンは答えなかった。
「お兄様?」
ルシアが顔を上げる。
そして初めて見た。
兄が泣いていた。
声も出さず。
赤い瞳から、一筋だけ涙が落ちていた。
「……ごめん」
「どうしてお兄様が謝るの?」
「間に合わなかった」
「……?」
意味が分からない。
分かりたくなかった。
ゼノンはルシアの頭を胸へ押しつける。
何も見せないように。
「ルシア」
「なに?」
「僕が守る」
「……うん」
「何があっても」
腕に力がこもる。
「絶対に、もう誰にも君を奪わせない」
それは六歳のルシアには、ただ優しい約束に聞こえた。
その言葉が、この先長い年月を生きるゼノンを縛り続ける誓いになることなど――
幼いルシアは、まだ知らなかった。
*
ヴァンパイアの王、アルフォンス・ヴァルディエは死んだ。
王妃ロザリアもまた、その夜に命を落とした。
王を失ったことで、長年保たれてきた人間とヴァンパイアの均衡は大きく揺らいだ。
人間側にはヴァンパイアへの恐怖が広がり。
ヴァンパイア側では王座を巡る思惑が動き始める。
それでも、戦争だけは避けなければならなかった。
人間の王と、残されたヴァンパイアの有力者たちは、かつてアルフォンスが守っていた共存盟約を存続させることを決めた。
そして第二純血家ベルフォート家が、王なきヴァンパイア社会の統治を担うこととなる。
けれど――
ヴァルディエ王家の血は、途絶えていなかった。
*
「この子の記憶を封じます」
静かな部屋に声が響いた。
ルシアは眠かった。
ゼノンの腕の中にいる。
大好きなお兄様の匂いがするから、もう怖くなかった。
「記憶だけでは足りない」
ゼノンの声がする。
「血もだ」
「……本気ですか?」
「人間に見えなければ意味がない」
「純血の性質そのものを封じるとなれば、何が起こるか分かりません」
「それでもやる」
「ですが、ゼノン様――」
「エドモンドは生きている」
部屋が静まり返った。
「あれだけの傷です。再び動けるようになるまで、相当な時間が必要でしょう」
「明日でも十年でも百年でも同じだ」
ゼノンは腕の中の少女を見下ろした。
「目覚めれば、またルシアを探す」
「……」
「この子がヴァンパイアである限り、血を辿られる」
「ですから――人間にするのですか」
ゼノンは答えなかった。
代わりに、眠るルシアの黒髪を撫でる。
「この子から全部隠してくれ」
「ヴァルディエの血も」
「王女だったことも」
「……私のことも」
最後の言葉だけ、少し声が小さくなった。
「普通の人間として生きられるように」
「ゼノン様」
「太陽の下を歩いて」
ゼノンの指が、ルシアの頬を撫でる。
「普通の友達を作って」
「恋をして」
そこで一度、言葉が止まった。
「……幸せに生きてほしい」
その声は、王族のものでも。
純血のヴァンパイアのものでもなかった。
ただ妹の幸せを願う、一人の兄の声だった。
「そのためなら、僕のことなんて忘れて構わない」
眠っているはずのルシアの指が、小さく動いた。
ゼノンの服を掴む。
「……お兄様……」
ゼノンの瞳が揺れた。
「ここにいるよ」
「ずっと……?」
一瞬だけ、答えられなかった。
それでも。
「ずっとだよ」
ゼノンは笑った。
「だから、もう怖いことは全部忘れていい」
黒い髪を撫でる。
「おやすみ、ルシア」
意識が沈んでいく。
父の顔が消えた。
母の声が消えた。
燃える城が消えた。
エドモンドという名前が消えた。
ヴァンパイアの王女だったことも。
自分の身体に流れている血の意味も。
そして――
ゼノンと過ごした幼い日の記憶さえ。
すべてが深い場所へ沈んでいった。
翌朝。
一人の少女が目を覚ました。
その髪はもう、ヴァルディエの黒ではなかった。
朝の光を受けて輝く、淡い白金色。
赤かった瞳からも、夜の色は消えている。
純血のヴァンパイアが放つ濃密な血の気配も、どこにもない。
心臓が人間と同じように脈打つ。
温かな血が身体を巡る。
誰が見ても――
ただの人間の少女だった。
少女はゆっくりと目を開けた。
そして傍らに座っていた黒髪の少年を、不思議そうに見つめる。
「……あなた、誰?」
ゼノンは答えなかった。
ほんの一瞬だけ目を伏せた。
覚悟していたはずだった。
自分で望んだことだった。
それでも実際にその言葉を聞けば、胸の奥に何かが突き刺さる。
やがてゼノンは顔を上げた。
いつものように、穏やかに微笑む。
「ゼノンだよ」
「ゼノン……?」
「うん」
「私の……知ってる人?」
ゼノンは少しだけ考えてから、小さな手を取った。
「これから君を守る人だよ」
少女はしばらく彼を見つめていた。
やがて安心したように、小さく笑った。
「じゃあ……ゼノン?」
「うん」
「よろしくね」
「……うん」
ゼノンも笑った。
けれど少女には見えないところで、その手を強く握りしめていた。
こうして。
ヴァンパイアの王家、ヴァルディエの王女は世界から姿を消した。
彼女が生きていることを知る者は、ごく僅か。
彼女自身でさえ、本当の名前に流れる血の意味を知らない。
残ったのは、何も知らず人間として生きる一人の少女。
そして。
いつか彼女が自分を忘れてしまっても構わないと決めながら――
結局、一日たりとも彼女を忘れることのできなかった、一人のヴァンパイアだけだった。




