第31話 踏み越える影
朝の空気は澄んでいた。
だがその透明さが、かえって落ち着かない。
恒一は会社の入口で一度足を止めた。
ガラスに映る自分の姿を見つめる。
ネクタイは整っている。
表情もいつも通りだ。
――本当にそうか?
胸の奥に、昨夜の感触が残っていた。
あの資料。
あの数字。
そして神谷の言葉。
「掴みにいったやつが勝つ」
恒一は小さく息を吐き、歩き出した。
午前の会議。
湾岸案件の進行確認だった。
神谷が前に立ち、資料をめくる。
「資金の流れは整理済みだ」
「外資の枠も押さえた」
その言葉に、役員たちが頷く。
恒一の前にも同じ資料が置かれていた。
昨夜とは違い、冷静に見ようとする。
だがやはり、どこか引っかかる。
――この構造は複雑すぎる。
――崩れたときの逃げ道は?
だがその疑問は、すぐに別の声にかき消される。
利益は出る。
会議室の空気がそれを証明している。
神谷が言った。
「坂本」
突然だった。
「この案件、お前が前に立て」
一瞬、時間が止まる。
視線が集まる。
「俺が、ですか」
「そうだ」
神谷は迷いなく言った。
「お前ならまとめられる」
その言葉は評価だった。
同時に、試しでもあった。
会議が終わった後。
廊下を歩きながら、恒一は何も考えられなくなっていた。
任される。
大きな案件を。
これは望んでいたことのはずだ。
だが――
「坂本さん」
振り向くと麻美がいた。
「顔色、あまりよくないですよ」
「そうですか」
恒一は苦笑した。
「少し考え事を」
麻美は一歩近づいた。
「さっきの会議、聞いてました」
静かな声だった。
「大きな仕事ですね」
「ええ」
少し間が空く。
麻美は言った。
「……やるんですか?」
その問いは、優しいが逃げ場がなかった。
恒一は視線を落とす。
「まだ、分かりません」
それが本音だった。
その夜。
恒一は再び、あの外資のラウンジにいた。
神谷と二人きりだった。
窓の外には、夜の東京が広がっている。
光は変わらず美しい。
神谷はグラスを傾けながら言った。
「迷ってるな」
恒一は正直に頷いた。
「はい」
神谷は少し笑った。
「いいことだ」
「え?」
「迷わないやつは、大体どこかで間違える」
意外な言葉だった。
だが神谷は続けた。
「だがな」
グラスをテーブルに置く。
「最後は決めろ」
その声は低く、重かった。
「この仕事はな」
神谷は恒一を見た。
「誰も責任を取ってくれない」
沈黙が落ちる。
「だから自分で決めるしかない」
帰り道。
夜風が少し強かった。
ネオンの光が揺れている。
恒一は足を止めた。
頭の中に、いくつもの声がある。
山本の言葉。
宗一郎の言葉。
麻美の視線。
そして神谷の声。
それらが交錯する。
だがその中で、一つだけはっきりしていることがあった。
このままでは、何も変わらない。
恒一はゆっくりと目を閉じた。
そして、決めた。
翌朝。
会議室に入ると、すでに神谷がいた。
「どうする」
短い問いだった。
恒一は一歩前に出た。
「やります」
その一言は、静かだったが確かだった。
神谷は少しだけ口元を緩めた。
「そうか」
それだけだった。
だがその瞬間、何かが決定的に変わった。
その日の午後。
恒一は新しい資料を手にしていた。
自分が前に立つ案件。
数字を組み直し、資金の流れを整理する。
その作業は、どこか高揚感を伴っていた。
――これが、上に行くということか。
だが同時に、胸の奥に小さな違和感が残る。
消えない感覚。
見ないふりをしている何か。
夕方。
山本がふらりと現れた。
「忙しそうだな」
「ええ、少し」
山本は資料に目をやった。
そして一言。
「面白そうな話だな」
その口調は軽い。
だが目は笑っていなかった。
「やるのか」
「はい」
短い沈黙。
山本はゆっくり頷いた。
「そうか」
それだけ言って、去ろうとする。
恒一は思わず呼び止めた。
「山本さん」
山本は振り向く。
「これでいいと思いますか」
少しの間。
山本は考えるように目を細めた。
そして言った。
「いいかどうかはな」
ゆっくりとした声だった。
「あとでしか分からん」
その言葉を残して、山本は去っていった。
夜。
オフィスの窓から見える東京は、相変わらず輝いている。
だがその光の中に、どこか影が混じり始めていた。
恒一はその光を見つめながら思う。
自分は今、どこへ向かっているのか。
だがもう、引き返すことはできない。
彼は一歩、確かに踏み出した。
その先がどこに繋がるのか、まだ知らないままに。




