涙の香り
どうしたのかエラは、すっかり自信をなくしてしまった様子だった。
身分の違いをわきまえていたエラだ。それを理由に落ち込むというのなら、フレッチェとラウルの存在こそが、何よりの後押しとなるはずだが――それとも違うらしい。
「先日の香水店には、ロウェル様とお会いする時のために身に纏う香りを探しに行ったの」
エラの頬に、恋する乙女のほのかな桃色が差す。
「わたくしは普段、あまり華やかなものは好まないのだけれど、だからこそ……普段と違う印象を残したら、あの方のお心に残るかもしれない。そんな浅ましいことを考えてしまったのよ」
気になる人物に、思いをかけてほしい。選ばれたいと願う。
そう思うのは、恥ずかしいことでも卑しいことでもない。
フレッチェは励ますように、エラの手をそっと包み込んだ。
「だけど、欲しかった香水をマルルに目の前で奪われても、わたくしは何も言えなかった」
「それは、エラ様が人との調和を重んじておられるからですわ」
エラの母は若い頃、望まぬ縁談に思い悩んでいた。そんな彼女を助けるために、水面下で縁の糸を結び直したのが、当時子爵令嬢だったアイリーン――マルルの母である。
幼い頃からの初恋を実らせ、バークレイ伯爵夫人となれた恩義から、エラの母は今でもアイリーンに頭が上がらない。
母の思いを踏みにじりたくない気持ちが、エラを縛っているのだ。フレッチェは、彼女の優しさを知っている。
だが、エラは静かに首を振った。
「違うの、フレッチェ。たとえそうだとしても、わたくしは気付いてしまったの」
エラは言葉にするのが苦しそうに、瞳を震わせる。
「ロウェル様とお話していると、生まれ変わたような気持ちになれたわ。だけど何も変わっていなかった。少し冒険したところで、地味なわたくしが選ばれるはずがないのよ」
「それに……フレッチェの前で言いたくはないけれど。今後もマルルがわたくしの友人の顔をするつもりなら、公爵家の皆様にご迷惑をおかけしてしまうわ」
「わたくしも同感です」
マルルは耳ざとく、ロウェルと会う日について、探りを入れている様子だったという。
さすがに乗り込むような非常識はすまいと信じたいフレッチェだが、ないと言い切れないのがマルルの恐ろしいところだ。
「だから……いいの。いい思い出として、わたくしは身の丈に合った未来を選ぶわ」
エラは眼鏡の奥で滲んだ涙を、指先で掬った。
その涙が頬を伝い落ちた瞬間、ラウルの鼻がひくりと震えた。彼は、ゆっくりと目を細める。
「しとしとと雨の降る、静かな夜の香りだ。深く息を吸うと、心の濁りが消えるような……冴えた空気を思わせる。そしてどこか哀しい。あなたの涙は、美しい」
低く、柔らかに語りながら、ラウルはまっすぐにエラを見つめた。思いがけない言葉に、エラは胸を打たれ、手巾で目許を拭った。
「兄上は、自らも薔薇の香りを纏うような華やかな人だ。風の吹くまま、どこまでも飛んでいってしまいそうな、掴めないところがある。あなたのように落ち着いた方がそばにいてくれたら、安心……いや、似合うと言うのか……うん、いいと思う」
「お優しい言葉を、ありがとうございます。それだけで十分です」
エラはやんわりと微笑むが、ラウルは慰めで言ったつもりはなかった。
「僕なら、よりあなたに似合う香りを提案できる。諦めるのは、それからでも遅くないんじゃないか」
ラウルの静かで温かみのある声は、部屋の空気すら柔らかく包み込むようだった。
彼はエラの雰囲気や普段の装いに合わせた香りの提案とともに、いくつかの助言を添えて伝えた。
だが、言葉を重ねるほどに、ラウルの目の奥に職人めいた光が宿っていく。
既製の香りだけでは、足りない――。
そう確信するや、ラウルは呟いた。
「僕も、二人のための香りを作ってみたい」
ふと空気が揺れて、何かが始まる予感がフレッチェの鼻先をふわりとかすめた。
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エラの恋を応援するための香りのレシピは、ラウルの中で完成されていた。
工房を模した屋敷の一室には、彼が独自に抽出した精油の数々が並ぶ。
香りを溶かし合わせるための高純度の蒸留酒の中で、一滴すらも加減しながら香りを調合する、繊細な作業が何日も続いた。
やがて出来上がった香りを嗅いだラウルは、苦い顔で肩を落とした。
「違う。理想に限りなく近く、悪くはないが……何かが足りない」
「どういったところが、違うと感じるのですか」
「空気に厚みがありすぎる。温かすぎるというのか……もっと静謐な余韻が……。そうだ、水辺のような湿度が欲しい」
「静謐な……水――」
二人の脳裏で、流星のようにエラの涙の雫が瞬いた。
雨の降る夜の冴えた空気――あのひと雫に宿った寂寞こそが、この香りに必要な最後のエッセンスなのだと、ラウルは確信する。
しかし。
「エラ嬢の涙は、あの限りのものでなければならない。君も、友人を泣かせたくはないだろう?」
フレッチェはしばし考え込んだ。
エラのためにできることは、何でもしたい。だが、次に涙を流すなら、それは嬉し涙であってほしいのだ。
あの美しくも悲しい涙を、もう一度望むことはできない。
エラとロウェルが会う日までに、香りを安定させる時間を考えると、もう猶予はない。
焦りが募るばかりで、フレッチェは気持ちを落ち着けるように、シェリーの香水瓶に手をやった。
ころんと丸みを帯びた硝子面に指先が触れた瞬間、胸の奥に優しく語りかける声が響いた。
『あなただけの幸せを感じる香りを見つけ、たくさんたくさん瓶に詰めなさい――』
天啓が降りたように目の前がひらけ、フレッチェはすべきことが見えた。
「ラウル様。エラ様の涙の香りを、思い出せますか?」
「ああ、はっきりと」
「でしたら、この香水瓶にお詰めください」
フレッチェは首元の蓋を開き、中に詰まった香りを解放した。ふわりと優しい余韻を残して、香りは窓の外へと逃げるように消えていく。
「レッテ! それは君の母君が遺した香りだろう。待つんだ。魔法の香水瓶なら、僕のものもある」
「いいえ、わたしがこうしたいのです。わたしは、エラ様の――大切な方の笑顔を見たい。いつか幸せを生み出す香りを詰めるのなら、お母様もお許しくださいますわ」
さあ、とフレッチェは小さな香水瓶を差し出した。
ラウルは一度瞼を閉じ、深く息を整える。
丁重に預かるようにフレッチェから瓶を受け取ると、エラの涙の香りを思い起こした。
音もなく、瓶の底が淡く輝いた。
香りの滴が注がれるように、硝子瓶は光で満たされていく。
やがて、瓶の口から光がこぼれると、かすかに雨上がりの残り香のような気配が立ち昇った。
フレッチェは、ラウルの手に重ねるように、そっと蓋をした。
すると光も収まり、室内は香水瓶からこぼれた静けさの余韻で満たされた。
しかし、魔法の香水瓶に香りを詰めただけでは、身に纏えない。ここから、調香に必要な精油を取り出す必要があった。
「花などと違って形のない……魔法が生んだ香りを、どうしたら抽出できるのでしょうか」
「香りを油脂に吸着させる方法が使えるかもしれない。試してみないことにはわからないが……」
「できることは、何でも試しましょう! その先にどんな香りが生まれるのか、わたしも楽しみです」
油脂に花弁などを敷き詰めて香りを移すのが主流であるが、今回は植物性の油脂を瓶に直接詰めるのとにした。
瓶と暦を交互に見守る、じれったい日々を過ごし、いよいよ精油を取り出す段階に至った。
取り出した油脂を蒸留酒と混ぜ合わせると、香りは酒に溶け、脂と分離する。
やがて酒の成分が揮発した後に、かすかな輝きが残った。ラウルはそれを、薬匙で慎重に掬い上げる。
得られたのは、ほんのひと雫――まさに、涙のように震える香りの核であった。
※※※
完成した香水がエラの手に届けられたのは、ロウェルを迎える日の朝のことだった。
仕上がりに自信はあったラウルだが、実際にエラが香りを身に纏った瞬間、大きくひとつ頷く。
やがて、バークレイ伯爵家にロゼクォット公爵家の馬車が、間もなく到着するとの先触れが届いた。
ラウルは自分の作った香りが、エラの物語をどこへ導くのか、その結末を物陰から見守ろうとした。しかし、フレッチェは彼の手を引く。
「覗きは無粋ですわ、ラウル様。あとは、お二人の心のままに。わたしたちは、ご報告をお待ちいたしましょう」
伯爵家の裏に停めた馬車に密かに乗り込むと、ロウェルと鉢合わせないよう、迂回して帰途を辿った。
魔法の香水瓶に残ったかすかな香りを抱いて、フレッチェはエラの幸せを祈る。
この涙の香りは、きっとエラを助けてくれる――。そう信じられた。
自分の運命が牧草の香りで変わったように、ラウルが嗅ぎ分けた心の香りなのだから――と。




