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新生活と招かれざる客


 公爵領の都ベールグランの外れに、二人で住まう屋敷が用意されていた。

 こぢんまりとはしているが、白い漆喰の外壁と緑の蔦がどこか優しい趣を添えていて、フレッチェは一目で気に入った。

 小さな庭には、素朴ながらも愛嬌を感じさせる花々がそよぎ、二人を歓迎するように揺れる。


 使用人や警護の衛士たちは、公爵家から転属された者ばかりで、いずれも信頼の置ける人物だ。

 彼らが荷を運び込んで簡単に調え終えると、屋敷はたちまち、若夫婦(仮)の新居にふさわしい面構えになって、二人を迎え入れてくれた。


 これから暮らす屋敷の中を、二人は隅々まで見て回る。

 二階造りの邸宅は、最低限の設備と部屋数があるのみだ。それでも、これから始まる新しい日々を思い描くだけで、宝の眠る遺跡を探索している気分がした。


 中でもフレッチェがわくわくしたのは――。

 寝室の隣にある一室だ。


 扉を開けた瞬間、フレッチェの鼻先をくすぐるように、いくつもの香りが重なり合って流れ込んだ。

 越したばかりの屋敷に、これほど複雑な香りを生み出しているのは、ラウルが城から運び込んだ私物たちだ。

 棚には大小様々なガラス瓶が整然と並び、部屋の中央に陣取った銅製の見慣れない器材は最も大きな存在感を放っている。ラウルはそれを、香りを生むための装置だと教えてくれた。


「ご自身で、香りを生み出す研究もなさっていたのですね」

「研究というほどでもないさ。好きなものを追い求めるのは、本能だ。レッテをこうして、求めるのと同じでね」


 ラウルはフレッチェを包むように抱きしめて、柔らかな笑みを浮かべる。

 彼の腕の中はいつも、混じりけのないひなたの香りを、フレッチェに思い出させた。

 香りにこだわりながら、ラウル自身は香水の類をまとう習慣がない。それは、まっさらに香りを楽しみたいと思う、彼の気持ちの表れだ。

 彼がフレッチェの香りを愛でるように、フレッチェもラウルの透明な香りが好きだ。


「そうだわ、ラウル様。大公様からのお試しですが――せっかくなら、香りで何かできないでしょうか。わたしたちにとって、香りは特別なものですから」

「それはいいな。とても素敵だ」


 ラウルの瞳が、一瞬にして輝きを増した。


「美しい香りで迎え、人々を癒す……そんなサロンも素晴らしい」

「ええ。高貴な身分の方だけでなく、誰もが扉を開きやすいものにできたら、なおよろしいかと」

「そして、僕の見つけた至高のサシェ・レッテ――そう……君の香りを再現したものを存分に楽しんでもらうんだな」

「……え?」


 うっとりとした表情のまま、ラウルは熱に浮かされたように続ける。


「皆たちまち心がほどけて、しがらみから解放されるだろう。君の香りには、それだけの力がある。そうだな――朝のレッテ、昼のレッテ、夜のレッテと……香りの移ろいを楽しめる配合にして……」

「却下です」


 フレッチェはぴしゃりと言い切った。

 いくら彼が感情を香りとして嗅いでいるのだとしても、自分の名を冠された香りなど、いかにも()()のようで羞恥以外の何物でもない。


「ん? 気に入らなかったか? では、桃花蜜の香りという名で……」

「名前の問題ではなく、わたしが嫌なんです!」

「しかし! 君の香りには何物にも代えがたい価値があり、それを僕だけのものにするのは人類に与えられた神の恵みを奪うに等しい傲慢だと思うのだが」

(ちょ、ちょっと……息つぎをしてください、ラウル様!)


 なんとしたら思いが伝わるのか。フレッチェはお手本を見せるように、静かに息を吐く。


「落ち着いて聞いてください。わたしは、ラウル様のものです」

「な、なんだい? 突然……」

「ラウル様だけが、わたしをひとりじめしていいのですし、わたしもそうされていたいです――。それともラウル様は……いつもご自身がそうなさるように、他の誰かがわたしの香りを堪能してもよろしいと思っているのですか?」

「僕のように……」


 朝も昼も晩も、腕に閉じ込めて――。


「いや、それはだめだ。許しがたい」

「お分かりいただけましたら、わたしの香りを頒布しようとするのは、おやめくださいませね?」


 フレッチェの微笑みがどこか凄みを増すとともに、いつもより冴えた香りが鼻先をかすめた。

 嗅ぎ覚えのある香りにラウルは、はっとする。それは……父レオネルが羽目を外した時に、笑顔の裏に憤りを潜めている母セラフィーヌから薫る香りだ。


「……わかった。諦めるよ」




˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。



 翌日、フレッチェとラウルは、香りで社会に貢献するすべを探して、ベールグランの都見物に出かけた。

 主な目的は、商店通りに並ぶ香水店を見て回ることだったが、華やかな街の空気には、二人を惑わす色彩豊かな香りが溶け込んでいる。


 憩いの広場では、季節ごとに植え替えられる花々が風に揺れ、人々の目や鼻に四季の移ろいを告げる。そうして芽吹いた話の種が、会話にも花を添えていた。


 露店街では、香辛料や焼き菓子の匂いが、二人を通りの奥へと手招いた。

 調理場の熱気と人いきれで、どこよりも匂いが濃い。しかし、他の区域にまで匂いが漂いすぎぬよう、空気の流れを細やかに調整する配管が設けられるなど、工夫がなされている。


 意識を傾けてみると、仕事として香りに触れる機会は数多く溢れていた――そう気付かされるたび、世界の見え方が変わり、フレッチェの胸に新たな火が灯るようだった。


 さらに歩を進めると、様々な工房が軒を連ねる職人街が見えてきた。

 その一角に、魔法の香水瓶を作る工房を見つけ、フレッチェはとても興味深く眺めた。


「今から三十年前、香りを閉じ込められるこの瓶が市場に登場したとき、調香師たちは職を奪われるのではないかと恐れたそうだ」

「ですが、そうはならなかったから、今も香水を纏う文化があるんですよね?」


 ラウルは頷く。


「魔法の香水瓶に香りを詰めても、香水のように香りを身に纏うことはできないからな」


 加えて非常に高価なため、今でも平民には手の届かぬ品だ。

 だからこそ、贈り物としてはこの上ない価値がある。「香りの宝箱」とも呼ばれ、一時期は瓶そのものの意匠を競うように贈り合うのが流行ったくらいだ。


(この香水瓶は、どんな人生を歩んできたものかしら。お父様がお母様に贈ったもの、それとも……? 思えば、わたしは……お母様についてほとんど何も覚えていないのだわ)


 フレッチェは首に下げたシェリーの香水瓶に触れて、思いを馳せた。



 ※※※



 ずいぶん遠回りをした末に、ようやく二人は目的の店へ辿り着いた。

 最近ベールグランに開店したばかりの、大衆向け香水店は、誰でも気軽に香水を楽しめると評判で、昼下がりの通りには人の波が絶えない。


 店先には、陽を受けて輝く色硝子の瓶が並び、通りすがりの娘たちが目を輝かせて覗き込んでいる。

 店の広さに対して従業員は少なく、客たちは思い思いに試香瓶を手に取って、香りを確かめていた。

 気に入ったものが見つかれば、そのまま棚の商品を手に取り、会計へ向かう――そんな気軽な仕組みだ。貴族向けの香水店では考えられない自由さに、ラウルは目を見張る。

 そして自らも、試香紙(ムエット)に含ませた香りを確かめると、値札をちらりと見て小さく頷いた。


「香りは軽やかで、複雑性がない。精油の濃度が薄いんだろう。それに加えて、従業員の数を最低限にすることで、商品の価格を抑えているんだろう」


 一流店とは質が違うと認めながら、ラウルの口ぶりに侮る様子はない。むしろ感心すら滲ませていた。


「手頃な価格で、香りも軽い分、季節や気分に合わせて使い分けやすい。流行に敏感な、若い女性に人気が出るのもわかるな」

「誰に、何を、どんな形で届けたいか――事業を興すなら、大事なことですね」

「ああ、そうだな。実際に想像してみよう。もし、香水を作るとしたら、君はどんな香りにしたい? どんな人物に使ってほしい?」

「えっ、そんな急に……。そうですね、わたしなら……」


 考えながら、店内に視線を巡らせていると、ふいにフレッチェの目が止まった。

 店の奥に、思いがけない人物の姿があった。



 身なりの整った若い女性二人が、並んで同じ香水を試しているところだった。

 赤毛で眼鏡をかけているのは、バークレイ伯爵家のエラだ。色味を落ち着かせた淑やかなドレスが、彼女のすらりとした立ち姿を、より上品に引き立てている。

 エラを見つけた瞬間、フレッチェは思わず爪先だった。だが、隣にいるのが義妹のマルルだと気付いて息を潜めた。


 エラが落ち着いた装いの分、マルルが身につけた珊瑚色のドレスは鮮やかすぎた。本来なら、格上のエラより控えめに装うべきところを、まるで張り合うように派手である。

 そのうえ、エラが先に手に取った香水を、マルルは奪うようにして使用人を会計へ走らせる。その強引な振る舞いには、伯爵家の侍女も呆れて閉口した。

 マルルには積極的に関わりたくなかったが、これにはさすがにフレッチェも目を逸らせなかった。


 フレッチェはそっと近づき、静かに声をかけた。


「エラ様、お買い物中に失礼いたします」

「まぁ、フレッチェ。それに……」


 ラウルの姿を認め、エラは礼儀正しくお辞儀をした。

 フレッチェは声を落として、エラの耳元に囁く。


()()()()……ありがとうございました」

「ふふっ。礼には及ばないわ。学生の頃は、まさかあなたの恋のお手伝いをすることになるなんて、思ってもみなかったわ。お幸せそうでなによりよ」


 優しく微笑むエラの隣で、マルルが露骨に不機嫌な顔をする。夜会での忠告など、まるで耳に入っていない様子に、フレッチェは眉をひそめた。


「マルル。その香水は、エラ様が先に手にしていたでしょう? あなたの振る舞いは、あまりにも品に欠けているわよ」

「いいと思ったものを買って、何が悪いの? エラは買おうか迷っていたじゃない」

「それは……わたくしには、可愛らしすぎて似合わないかと思ったから……」


 エラの声がどんどん小さくなってしまい、マルルは勝ち誇ったように顎を反らせた。

 女人の諍いに口を挟む気はさらさらないラウルは、我関せずだ。しかし、取り合いになるほどの香りがどんなものかは気になったようで、試香紙で早速確かめている。


「ふむ……悪くない。瑞々しい柑橘の香りが華やかに広がるが、トゲがない。乳のような甘い香りがまろやかに混ざり合っている。主張しすぎず、明るいのに、どこか落ち着いた――気持ちのいい香りだ」


 その言葉を聞いたフレッチェは、エラによく似合う香水だと感じた。

 だがマルルの顔も、花のように明るくなる。


(ほら、やっぱりわたしにぴったりだわ! それなのに、お義姉様もエラも、まるでわたしが間違っているような顔をして、まったく頭に来る! ……そうだわ)


 マルルは、失礼にもラウルを値踏みするような目で見た。


(気に入らない男だけど、奪ってしまおうかしら。そうしたら、お義姉様の悔しがる顔が見られるかもしれないわね)


 マルルの唇が、ゆるやかに吊り上がる。

 その笑みは華やかだが、刺があった。手にした香水とは真逆だ。

 ラウルの鼻が、敏感に悪意の匂いを嗅ぎとる。

 不安に駆られたフレッチェが、彼の袖を握りしめるより早く、ラウルは庇うように一歩前へと進み出た。

 マルルはあどけなさを装う瞬きをして、フレッチェを覗き込む。


「ねぇ、お義姉様。今はどちらにお住まいなの? お二人の素敵な新居を、ぜひ拝見してみたいわ」


 甘く絡みつくような声音に、フレッチェの肌はぞわりと粟立ち、胃の奥が迫り上がるような緊張を憶えた。


「この後はまっすぐ帰られるの? わたしも、ご一緒してもいいかしら? ねぇ、エラもそうしたいわよね?」


 エラの顔が、瞬時に真っ赤になる。


「マルル! 他家を伺うのには、然るべき段取りというものがあるでしょう。ご招待もされていないのに、失礼が過ぎるわ。お二人とも、申し訳ございません」

「エラ様、お顔を上げてください。マルルも、エラ様の仰る通りよ。改めてお招きするから、今日はもうお帰りなさい。シェバー領に着く頃には、日が暮れてしまうわ」

「なによ。姉妹なのに、急に気取っちゃって。ふんだっ」


 真っ当に反論できないマルルは、ふくれっ面で店を出ていった。

 店内に残ったのは香水の甘い香りと、どうしようもなく気まずい沈黙だった。フレッチェとエラは、居合わせた人々にひとしきり頭を下げて、退店した。


 外の風を吸い込むと、胸のざわつきが少しだけ和らぐようだった。

 しかしエラの頬にはまだ、かすかなかげりが差している。フレッチェは見逃さなかった。

 夜会を抜け出した時、継母に咎められないよう、フレッチェを助けてくれたのは他でもないエラだ。

 その恩を返すのは今だ――そう直感した。


「エラ様、妹がいつも失礼なことばかりして、申し訳ございません」

「いいえ、はっきり言えないわたくしもいけないのよ。でも大丈夫よ。ありがとう、フレッチェ」

「ですが……エラ様がとてもお辛そうで、心配です。何か、お困りなのではありませんか?」


 学園一の秀才でありながら、気取らず落ち着いた人柄のエラは、フレッチェにとって憧れの女性だった。

 そのエラの笑顔が曇ってしまうのを、見たいられない。フレッチェは切々と訴えた。

 はじめは躊躇っていたエラも、フレッチェの真っ直ぐな思いを受け取り、ほんの少し視線を伏せる。

 やがて、胸の奥でかかっていた重たい鍵が静かに外れる音に、そっと息をついた。


「ありがとう。それでは……後日、バークレイ家にお越しいただけるかしら。ラウル様もぜひ、ご一緒に。日程は追って、ご連絡差し上げますわ――」





 ※※※




 後日――。

 バークレイ伯爵家に招かれた二人は、友人としてエラの私室に通された。

 書斎を兼ねた静かな部屋には、彼女が愛する本たちが、整然と並んで待ち構える。エラは、少し緊張した面持ちで口を開いた。


「実は……あの夜会の後から、ラウル様の兄君――ロウェル様と、何度かお手紙をやり取りしているの」

「まぁ、そうだったのですか!」


 思わず弾んだフレッチェの声には、心からの喜びが滲む。

 ラウルも当然知っていたのだろうと視線を向けるも、彼はきょとんとしていた。


「ご存知なかったのですか?」

「ああ。あの夜以降はとにかく、君のことしか頭になかったから、兄上がどんな様子だったかは全く覚えていない」

「も、もう……何を仰るんですか」


 熱々の二人を微笑ましく見つめながら、エラは少し自嘲するように続けた。


「ロウェル様は、あの夜会で出会って、お話が合うとお思いになった女性数人とやり取りをしているそうなの。わたくしもその中の一人にすぎないのよ」

「お二人は、どんなお話をされたのですか?」

「わたくしの好きな小説の話から、ロウェル様が著者の出身地についてお教えくださって――」


 エラは国外の作家の本も好んで読み、いつかその舞台となった国へ実際に行ってみたいと夢見ていた。

 旅好きなロウェルとの対話は、物語に描かれたものと現実を照らし合わせるようで、興味深かったという。今も、手紙の上で旅をしているようだと、エラの顔にふわりと柔らかな笑みが浮かんだ。


「それで、やり取りを重ねるうちに、今度……バークレイ領をご案内することになったのだけれど」

「まぁ……! それは喜ばしいことですね」


 ロウェルが、わざわざ赴いてくるからには、恋人候補をエラに絞りつつあるに違いない。フレッチェは胸を張って、エラを推したい気持ちだ。

 だが、エラの顔には再び、かすかな影が落ちていた。


「でも、わたくしはやっぱり……お断りしようかと思うの」



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