大公のお試し
納屋で寝起きしている間は、雨漏りで起こされたり、隙間風に爪先を撫でられて目覚めることもしばしばあった。時には、百本足の虫に這われて飛び上がったこともある。
朝までぐっすり――とは滅多にいかず、そんな生活がフレッチェの若々しさを奪っていた。
ラウルのもとへ匿われた今は、肌触りがよく温かな寝具に包まれ、快適な眠りを享受できている。
ひとつ、新しく加わった習慣を除いては――。
「もう朝か?」
背中から回された腕に、優しく力が込められる。
布団すらいらなくなりそうな温もりに包まれて、フレッチェの頬が桃色に染まった。
「眠りから覚めたばかりの君は、赤子のような優しい香りがする」
ラウルは朝一番に、庭の空気を吸うのと同じ調子で、フレッチェの肌に顔を埋める。
男爵家を後にした日から、こうして朝も昼もなく、フレッチェは彼に抱かれていた。読んで字の如しの、抱く――だ。それ以上でも以下でもない。
「おはよう、僕の愛しいサシェ・レッテ」
愛を込めて、彼はフレッチェをそう呼ぶようになったが、こうして抱きしめられるたびに思わずにいられない。
これでは香り袋ではなく、抱き枕ではないのかと――。
※※※
身支度を終えるまでの間も、ラウルは何度も抱き寄せようとしてきた。
ようやく整えた髪に、犬のように鼻先を突っ込まれたら、フレッチェの我慢も限界である。
「ラウル様! めっ! いけません!」
フレッチェに叱られて、ラウルはしょんぼりと肩を落とした。一回りも二回りも小さくなってしまったかのような、しょげようだ。
捨てられた犬のような目で見つめられると、つい優しい言葉をかけたくなってしまう。
「この後の用がお済みになったら……。それからなら、いいですから」
「わかった。楽しみがあるなら、我慢できる!」
ぱっと顔を輝かせたラウルは、まるで尻尾を振る犬のようだ。
夜会でマルルを一蹴した時のあの鋭い眼差しはどこへやら――。子ヤギのメーメーだって、こんなにわかりやすく尻尾を振ってはいなかったはずだ。
そんな彼ですら、フレッチェは可愛いと思えてしまうのだから、まったく惚れた弱みである。
しかし今日ばかりは、のぼせてもいられない。
なにしろラウルの両親――公爵夫妻との面会が控えているのだ。
ロゼクォット公爵家の歴史は長く、その由縁を辿れば王国建国まで遡ることができる。
広大な領地には複数の領主が置かれ、シェバー男爵領もそのひとつだ。それらを束ねる存在として、ロゼクォット公爵は大公と称される。
大公夫妻の前に、子息の婚約者として並び立つ――その時が近づくごとに、フレッチェの胃はきゅっとなった。
˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。
そんなに肩肘を張らなくていい――とラウルは励ましてくれるが、フレッチェは気が気でない。
扉が開かれる瞬間には、思わず息を詰めてしまった。
応接間は、格式を誇りながらも息苦しさを感じさせない調度でまとめられていた。
大理石の床には、深みのある緋色の絨毯が敷かれ、壁には家祖の肖像画が掲げられている。しかしその傍らには野の花が生けられていて、思いがけない温もりを感じられた。
何より驚かされたのは、夫妻の足元にヤギの親子が侍っていたことだ。子ヤギは、額に癖毛のあるメーメーだ。
彼はラウルたちの入室に気づくと、踊るように喜んだ。
「めぇ! めぇー!」
「おや、メーメーも歓迎しているのか?」
「王国財務卿」の任にあり、国庫管理の重責を負うロゼクォット公爵レオネルは、思いがけず穏やかな声音で口を開いた。
「公爵家へようこそ、フレッチェ。会えるのを心待ちにしていたよ」
その隣では、夫人が興味深そうにフレッチェを見つめ、にこにこしている。
「話に聞いていた通りね――桃花蜜の名に違わぬ、春めいて可憐な髪ですこと。こちらまで温かな気持ちになるわ」
夫人のセラフィーヌは、王室から降嫁した元王女で、現国王の姉にあたる人物だ。慈善団体「白露院」の創設者でもあり、身寄りのない子供や弱い立場の女性の救済を目的とした、慈善活動に力を入れている。
二人とも普段は王都で暮らしており、公務の合間を縫ってようやく対面が叶ったのだ。
「一番、結婚と程遠いと思っていたラウルがまさか、あの夜会の後すぐに、婚約の許しを願ってくるとは思わなかったよ」
「でもおかげで、ロウェルもようやく焦り始めたようですわ」
「そうか。やはりあの夜会は開いて正解だったな」
父と同じように、ラウルも頷く。
「ええ。まさに運命的な夜でした。そして実を言うと、彼女と引き合わせてくれたのは、そのメーメーなのです」
「まぁ、お前はそんなに良い仕事をしたの。偉いわ。何か称号を授けてやりましょうね」
夫人の手で撫でられて、メーメーはご機嫌に首を持ち上げた。
たいそう可愛がられている子ヤギの姿もそうだが、思い描いていたよりもずっと物腰が柔らかな夫妻に、フレッチェの緊張もほどける。張り詰めていた息をほっと吐くと、ラウルが隣で小さく笑った。
「さて――では本題に入らせてもらおう」
にこやかなまま、レオネルの声色がわずかに落ち着いた。
空気がそっと張りつめ、フレッチェは思わず両手を膝の上で揃える。次の言葉を待つあいだ、胸の奥で鼓動が静かに跳ねた。
レオネルは一度視線をラウルに、それからフレッチェへと向ける。
「二人の婚約を、わたしたちは喜んで認めている――が。今すぐに婚姻を成立させるわけにはいかない。身分の違いを、世間はそう易々とは受け入れてくれるものではないからな」
きっぱりとした言葉に、フレッチェの胸が少し沈む。しかしレオネルの声には、どこか残念そうな響きがあった。
「本音を言えば、早く初孫の顔を見たいくらいなのだがね」
思わぬ一言に、フレッチェは耳まで熱くなった。
セラフィーヌは、くすくすと上品に笑みを漏らす。
「正直すぎる主人で、ごめんなさいね。――けれど、わたくしも本当は同じ気持ちなの。だからこそ焦らずに、誰もが祝福してくれる形を整えなければね?」
「うむ」
レオネルは頷き、改めて二人を見据えた。
「そこで、わたしからお前たちに一つ試練を与えたい。二人の存在が人々にとって有益であると、証を示したまえ。事業を興すも、慈善活動に励むも――方法は問わない。何か功績を上げなさい」
ラウルは真摯な面持ちで頷く。フレッチェも、粛々と頭を下げて受け止めた。
試練を躊躇うどころか喜ばしく感じている様子の顔つきに、レオネルも満足げに微笑む。それから短く息を吐いた。
「ふう、肩の荷が降りた気分だ」
「もう、あなたったら。本当に正直者ですこと」
「仕方がないだろう。嬉しくて頰が緩んでしまいそうなのを、必死で我慢していたんだ」
改めて咳払いをし、レオネルは懐から鍵束を取り出した。
「ささやかな祝いとして、二人で住まうための屋敷を街の外れに用意してある。今後は、そちらで暮らしを立てていくといい」
「格別のお計らい、ありがたく存じます」
「めぇめめぇー!」
タイミングを見計らったように、メーメーが甲高く鳴いた。
どうやら自分も一緒に行くつもりのようだ。鍵束と一緒に持っていけとでも言うかのように、ラウルに手綱の端を差し出す。
「まあ。このおちびさんは、取り持った仲を最後まで見守るつもりですわね。若い二人の、お邪魔ではないかしら?」
柔らかな笑い声が、応接間に広がった。
※※※
その後は歓談を交えながら、屋敷に移る日取りなどを話し合った。
夫妻が王都へ戻る刻限のぎりぎりまで、明るい声が絶えることはなかった。
去り際、夫人は桃花蜜の髪をよく見たいとフレッチェを手招いた。
王都で流行りの結い方を教示していたセラフィーヌの目が、ふとフレッチェの首元で揺れる香水瓶に向けられる。
「まぁ……。髪もさることながら、可愛らしい首飾りをつけているのね」
「母の形見です。わたくしは母の顔も覚えておりませんが、この瓶に残された香りを嗅ぐと、優しい腕に抱かれている気分になれるんです」
「……そう。お母様はさぞ、あなたの成長をそばで見守りたかったことでしょうね」
フレッチェの髪にそっと触れるセラフィーヌの眼差しは、母親のそれだ。
フレッチェは香水瓶を、両手で大切に包み込む。
「ラウル様とのご縁は、香りが繋いでくださいました。どこかで、母が導いてくれたのだと感じています。これまで心配ばかりかけておりましたから、今こうしてラウル様の隣で心から笑えるわたくしを見て、安心していることだと思います」
「よかった、あなたがそう言ってくれて。もしも、ラウルのわがままに無理に付き合わせているなら、考えるところもあったけれど心配いらないわね。ちゃんと、幸せそうな顔をしているわ」
セラフィーヌの瞳はフレッチェを見つめながらも、どこか遠い記憶を映すような、深い慈しみの色を宿していた。
「フレッチェ。これまでの分も、たくさん幸せにおなりなさい。遠慮せず、ラウルを困らせるくらいでいいのですよ」
柔らかな声音が、まるで祈りのように響いた。
フレッチェは深く頭を下げる。
その肩にそっと触れて、夫人は公爵の後を追って退室した。
ふわりと温かな空気を閉じ込めるように、応接間の扉が静かに閉じられた。




