虫ケラの羽化
「まぁまぁまぁまぁ! どうしましょう! 大変だわ!」
夜会から二ヶ月が経ったある日。
アイリーンが甲高い声を響かせて、執務室を飛び出した。
言葉だけは不本意そうに、しかし顔には笑みを浮かべて、屋敷中の使用人に言い渡す。
「お前たち。五日のうちに、屋敷を隅から隅まで、塵のひとつも残さず磨き上げなさい」
後を追うあどけない男の子が、彼女のスカートの裾を引く。まだ七つになったばかりだが、彼が当主のオーレンだ。
「母様、どなたかいらっしゃるのですか?」
「ええ、大公様のご子息がね」
届いたばかりの手紙を何度も眺めて、アイリーンは真っ赤な唇を吊り上げる。
「マルルに婚約の申し入れがあったの! ご子息直々に足をお運びくださるそうよ」
「えっ! マルー姉様、結婚するの!?」
「ええ。喜ばしいわ!」
しかしアイリーンには少々気がかりがあった。相手が、三男のラウルであることだ。
(夜会では大勢の前で、可愛い娘に恥をかかせておいて、どういう風の吹き回しかしら――)
思案を遮るのをためらいながら、使用人がおずおずと手を挙げる。
「奥様。裏庭のほうは、いかがなさいますか」
「そうね……庭師をもう二名ほど短期で雇って、体裁を整えましょう。納屋は……見苦しいものが見えないように、表から鍵をかけておしまい――」
※※※
あの夜から、寝ても覚めてもフレッチェの胸には、ラウルの言葉が光を灯していた。
母の形見の香水瓶を手のひらで包み込み、彼が来る日を夢見て待った。
ある日、納屋の外が騒がしくなった。扉もガタガタと動いたりするので、フレッチェはそっと表を覗こうとした。
すると、どうしたことか、扉が開かなくなっていた。押しても引いてもびくともしない。
「あの、どなたかいらっしゃいますか? ここを開けていただきたいのですが」
しばらくすると、窓から下女の一人が顔を出した。フレッチェが顔を寄せると、あからさまに面倒くさそうな顔をして口を開く。
「大切なお客様がいらっしゃるので、屋敷を綺麗にしているんです」
「まぁ、そうなの。それならわたしも手伝うわ。裏庭はご覧の通りだから、手入れは大変でしょう?」
「いいえ、お嬢様に出られちゃ困ります。汚いものは隠せ――と、奥様からの言いつけですからね」
窓を外から大きな布で覆われてしまった。卑しい笑顔が見えなくなって、足音が遠ざかる。
フレッチェは呆れた。
またいつもの、使用人をも巻き込んだ継母の嫌がらせ――見苦しいのはどちらなのかと問うてみたかった。
幸いにして夏の盛りは過ぎ、一日を通して過ごしやすい季節になっていたし、水も汲んだばかりだ。食料が少し心許なかったが、客人が帰るまでの辛抱だとフレッチェはまだ前向きだった。
裏庭の手入れに入った庭師たちが、楽しそうに噂しているのを聞くまでは。
「えらい玉の輿に乗ったもんだよ。屋敷の裏を、こーんな藪だらけにしているような家だってのに」
「相手は大公様の三男だって? いったいどうやって射止めたんだか」
(――ラウル様?)
話し声は、聞き慣れないものだ。
新しく雇われた者たちなら、虫ケラの声も聞いてくれるかもしれない。フレッチェは閉ざされた扉を叩く。
「あの、今のお話……もう少し詳しくお聞かせ願えませんか」
庭師の一人が近づく気配があった。しかし、もう一人が遮る。
「よせよ。気がふれた下女を閉じ込めてあるって、言ってただろ?」
「なんてことを言うの。わたしはシェバー家の長女です!」
「ほれ見ろ。こんなこと言ってら。相手しちゃだめだぜ。さぁ、仕事仕事!」
「仕事ぶりを気に入ってもらえたら、花嫁のおこぼれで公爵家に召し抱えてもらえるかもしれないもんな」
フレッチェは愕然とした。
屋敷にラウルが来る。そしてシェバー家からは、花嫁が出る。そこまではわかった。
なのに、どうして自分はここに閉じ込められているのだろう。自分でなければ誰が、彼の花嫁になるのだろう。
「どうして……?」
心変わりしてしまったのか、それとも公爵家の事情か。
頬が急に冷たくなっていく。
フレッチェは香水瓶の蓋を開け、優しい母の温もりを解き放つ。それでも、胸の奥の痛みは日に日に募るばかりだった。
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数日後、シェバー家の門前に、公爵家の紋章が刻まれた馬車が横付けされた。
出迎えたオーレンの幼さに、公爵家の一行は一瞬戸惑いの色を浮かべる。しかしラウルはすぐ彼に向き直り、男爵家の当主として丁重に礼を尽くした。
「ただいま、娘を連れて参ります」
アイリーンが席を立つ。
隣室で最後の化粧直しをしていたマルルは、迎えに現れた彼女に、ため息をついてみせた。
「やっぱり嫌だわ。あの嫌味ったらしい虫好きの男と結婚だなんて。それなら二男のレンジュ様のほうが、お優しくて素敵だったわ。見た目は及第点だけれど」
「滅多なことを言うものじゃありません。我が家のような下級貴族が、こんな良縁をいただけることなど、普通ないのだから」
「だけど、あんな恥をかかされたのよ?」
「相手は変わり者の若造ですもの。あなたの美しさに照れて、憎まれ口をきいてしまっただけよ。それでも忘れられなくて、求婚してきたに違いないわ」
アイリーンに諭されて、マルルはだんだん頬を染め始める。
「ふ、ふんっ。わたしはあんな人、好きでもなんでもないけど、そんなに言うなら追いかけさせてあげてもいいわ」
軽やかに髪を払って、マルルは応接間へ向かった。
まだ式を挙げるわけでもないのに、あざとい純白のドレスに身を包んで現れた彼女に、公爵家の侍従の眉がひそめられる。
次いで、ラウルの口からは……。
「あなたじゃない」
冷たく言い放たれた。
マルルの笑みが凍りつき、アイリーンの顔からは血の気が引く。
「ど、どういたしました? いただいた手紙には確かに、シェバー家の娘を嫁に――と書かれていたではありませんか」
ラウルは一瞬ぽかんとし、それから「ああ」と小さく声を漏らした。自分のうっかりに気付き、額を押さえる。
「そういえば、姉妹だと言っていたな。うっかりした……彼女のことしか頭になかった」
脇に控えていた侍従が、無言で天を仰ぐ。思い当たる節があるのだ。
本来なら手紙も彼が確認し、礼を整えた文に仕上げる。しかし今回は、早くフレッチェに会いたい一心のラウルから、「手紙ならもう出した」と事後報告されていた。
その結果、シェバー家には「おたくの娘さんをください」と、あまりに簡潔な一文だけが届けられ――アイリーンは見事に勘違いしてしまったのである。
「僕の愛しいフレッチェはどこにいる?」
アイリーンはそっぽ向いて、答えようとしない。
すると、ラウルの衣の裾を小さな手が引っ張った。
※※※
何日も続いていた、藪を刈り、木を切り出す音が途絶えた。
馬車の軋む音が、遠くから近づいてくる。心臓が、どくりと鳴った。
(公爵家が、マルルとラウル様の婚約をお決めになったのなら……。わたしがここにいると声をあげたら、きっと迷惑になるわ)
諦めなければならない。それが身分違いの恋のさだめだと、フレッチェは息を潜め、声を殺して涙を流す。
しばらくすると、窓から差し込む光がかすかに揺れた。見る間に、かけられた布が取り払われ、まばゆい光が雪崩れ込む。数日ぶりの陽射しが、涙に濡れた目を刺した。
《《汚いもの》》を隠す必要がなくなった――それは彼が去った合図。フレッチェはそう感じる。
胸の奥で、何かが崩れる音がした。止めていた息が、嗚咽と一緒にこぼれる。
彼の名を叫ぶが先か、納屋の扉が剥がされんばかりの勢いで開かれた。
「フレッチェ!」
その声を聞いた瞬間、時間が動き出した。
光の中に、月のように静かな銀髪が揺れる。ぼんやりと眩しくて、フレッチェは目を細めたが、そこにいるのは確かにラウルだった。
どちらからともなく寄り添って、夢ではないと確かめ合う。
「こんな目にあっていたとは知らず、すまなかった」
ラウルの声に、怒りと悲しみが滲む。納屋の中は、長年の生活の形跡が明らかだった。
すすで汚れた肌、擦り切れた衣。桃花蜜の髪はくすみ、輝きを失っている。目の前にいるフレッチェは、あの夜とはまるで別人のようだった。
「シェバー前男爵夫人、これは……恥ずべき行いではございませんか」
ラウルの後ろに控えた侍従たちでさえ、思わず声をあげたほどだ。
アイリーンが慌てて言い繕う。
「娘が自ら望んだんです! わたしたちとは暮らしたくないと言って……」
「そうよ! それに、お義姉様は虫みたいに、野山の花や葉っぱを食べるのよ! 貴族失格だもの、こんな場所がお似合いじゃない。ね? ね? そんな人、ラウル様にもふさわしくございませんわ!」
望んでそうしたわけではない。そうせねばならぬまで追い込んだのは二人だ。
口をつきそうになる呪いの言葉を、フレッチェは噛み殺す。
するとラウルが、ほうっと軽やかな息をついた。
「……痺れるようだ」
「え?」
ラウルは慈しむ手つきで、フレッチェの頬を濡らした涙を拭う。
「言っただろう、僕は心を嗅ぎ分ける。隠したって、僕の鼻が見逃さない。よく耐えた、あなたの香りは本当に気高く美しい。頑張り過ぎて心配になるくらいだ」
長い孤独の終わりを告げる、慈しみに満ちた声だった。
フレッチェは抗うことなく、ラウルの胸に身を預け、静かに涙を涸らした。
「吉日を待つなどできない。フレッチェ、今すぐ僕と来てほしい」
「許されるのなら――わたくしも、一秒だって離れたくありません」
アイリーンは大慌てだ。盤上をひっくり返そうと、必死で叫ぶ。
「お待ちください! 婚約には、両家の承諾がなくては!」
「ロゼクォット家はみな、彼女を歓迎している。それとも、ご夫人は大公閣下のご意向に不満でも?」
「めめめ滅相もございません!」
「では、シェバー男爵――」
ラウルはオーレンに向き直る。
「姉君との婚姻にお許しをいただきたい」
「若君! わたしが代理人でございます! その子はまだ幼く、大きな決定を求めるには不安もございましょう!?」
その幼さを盾にして好き放題しているのは誰なのか。アイリーンに向けられる視線は、冷ややかなものだった。
ラウルはオーレンに静かに問いかける。
「この先、いつまでも母親とともに社交の場に出るつもりか? そんな頼りない爵位など、国王陛下に返上するがいい。シェバー男爵、あなたはどうしたい?」
幼い当主はしばしきょとんとしていたが、やがて胸を張って答えた。
「レチェ姉様のお幸せを願います。どうぞ、よろしくお願いいたします!」
その一言で、すべてが決まった。
男爵家から飛び立つフレッチェの手には、なんの荷物もない。
首に下げたシェリーの香水瓶一つだけが、彼女の未来を約束するように、穏やかな香りを放っていた。
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馬車は二人が出会った城へ向け、初秋の光の中を滑り出す。
窓の外を流れる景色を眺めながらも、フレッチェの胸はまだ落ち着かない。
「申し訳ありません。義母は今後もわたくしたちをお認めにならないでしょうし、持参金も用意してくれるかどうか……」
控えめに切り出すと、ラウルはすぐさまその言葉を遮った。
「構わない。フレッチェがいれば、それで」
「ラウル様……」
肩に添えられた手。
見つめる、静かな眼差し。
車窓から差し込む、温かな陽射し。
口づけには絶好の情景だ。
フレッチェは息を呑み、そっと瞳を閉じた――が。
「ところでフレッチェ。あなたは本当に、野花などを口にしていたのか?」
「え、ええ……お恥ずかしい限りですが、食べられそうなものは何でも口にいたしました」
肩に触れるラウルの手がわなわなと震え始めた。
「素敵だ!」
「えっ?」
「いや、あなたの境遇を思えば看過できるものではないし、怒りも覚えるのだが……。フレッチェ、今までに食べたもので、一番美味だった植物は?」
「え……あの?」
「花の蜜を吸ったりしたのかい? 僕もずっと試してみたいと思っているんだが、いつも侍従たちに止められてしまうんだ」
ラウルはどんどん早口になっていく。
「花の蜜そのものは、蜂蜜とは違うだろう? それから、同じ花でも春咲きと秋咲きで、味に違いは出るのだろうか。どうなんだ、フレッチェ!」
「ふ……ふふっ!」
目を輝かせる姿が子供のようで、フレッチェはおかしくて笑ってしまった。
「時間はたっぷりございますから。これから少しずつ、たくさんお話していきましょうね」
可憐な笑みが咲く。ラウルはたまらず、フレッチェを抱きしめた。
「ああ、やはり本物に勝る愛しさはない……」
「わたくしも。夢で見るあなたより、胸がずっと切なくなります」
「恋しかった……あなたの残り香を抱いて、この二ヶ月を過ごしたんだ。今日からは片時も離さず、好きなだけ堪能できるんだな」
髪に触れたラウルの鼻先が大きく息を吸い込もうとする気配を感じ、フレッチェは身を退けた。
「せ、せめて湯を浴びさせてください! もう何日も身を清めていないんです」
「そうなのか!?」
ラウルの瞳が、好奇心と興味を瞬かせて、きらきら輝く。
「な、なんでちょっと嬉しそうなんですか!?」
「より香りが濃いということだろう。またとない機会だ」
「やっ……嗅がないでください! だめったらだめです!」
慌てて距離を取るフレッチェを、ラウルが逃がすものかと引き寄せる。二人が攻防を繰り広げるたびに、客車はせわしなく揺れた。
馭者がちらりと振り返り、咳払いをひとつ――。
「お二人とも、仲睦まじくて結構ですが……お帰りになってからになさいませ」
何か勘違いさせてしまったようで、フレッチェは顔から火が出そうになった。だがラウルは気にも留めず、あっけらかんと言う。
「そうか、では帰ってからのお楽しみだな」
「だめですってば!」
揺れる客車の中、笑い声が弾けた。
――二人の進む先に、幸福の香りは確かに立ちのぼっている。
序章 終
次章以降は
兄弟周辺のお悩み相談を通して
香水ブランドを立ち上げていくお話になります
ふわりと香りが立ちのぼるような物語をお届けできたらいいなと思います
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遅筆ですが頑張ります




