表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/29

若君の香り袋

 差し出された手を取ったときから、現実の輪郭はゆるやかに溶け出した。

 夜会のざわめきが遠ざかり、やがて――月明かりがやわらかに灯る寝室へ辿り着いた。


「ドレスがしわになる。後ろを向いて」

「は、い……」


 ダンスの相手だったら、もう少しうまく振る舞えたかもしれないが、恋の作法はまったくもって不得手。フレッチェはぎこちない動きで、言われた通りにするのが精一杯だ。


 彼の指先がドレスの留め金に触れ、思わず身を固くした。

 金具が一つ外れるたびに、息が楽になるどころか、胸はますます苦しくなっていく。布が滑り落ちる音がやけに大きく響いて、フレッチェは頼りない肩を自分で抱きしめた。

 アンヌ草のおかげで、普段よりは肌がしっとりしているが、骨っぽくて薄っぺらい体まではどうしようもない。


「お見苦しい姿で、申し訳ございません……」


 ラウルはちっとも気に留めた様子もない。自らも夜会服を脱ぎ、楽な姿で寝台にフレッチェを招く。


「あちら側を向いて、横になって」


 仰向けに待っていたら、瀟洒な硝子窓のほうを示され、フレッチェは寝台の上で体を横向かせた。

 ラウルがそっと隣に寄り添う。熱を帯びた腕が回され、背中にぴたりと彼の温もりが触れた。

 フレッチェの心臓は大暴れして、隠しようもない。甘い吐息が髪をかすめるたびに、体が自分の意思に逆らって震えた。


「ひゃっ……!」


 うなじのあたりに唇が触れて、思わず声が上擦った。

 彼の鼻先がうなじをなぞるたび、全身が熱を帯びていく。くすぐったいのか、それとも別の感覚か、フレッチェにはまだ判然としない。


「あの……っ、わ、わたし、どうしたら……?」

「楽にしていればいい」


 その声音があまりにも穏やかで、恐怖はなかった。フレッチェは言われるまま、こわばった体をそっと預ける。

 触れられているのは首筋だけなのに、ラウルが息をするたび、頬が熱くて瞼の裏がじんじんした。

 くすぐったさと恥ずかしさとで、もうどこに力を入れていいのか分からない。


(……い、いつまで……続くのかしら……?)


 首筋への口づけは、終わる気配がなかった。


(ずっと、この格好のまま? 初めては……見つめ合って――が理想なのだけれど……。ラウル様は、こういった体勢がお好みなのかしら……)


 だんだんと、もどかしいような切ない気持ちになって、フレッチェはラウルの手にそっと触れた。導くように、胸元へ引き寄せる。


「……あの、ラウル様? そろそろ、別のところも……」


 返事がない。大胆すぎて興を削いでしまったかと、フレッチェは不安を覚えた。しばし、わきまえて押し黙る。

 沈黙はいつまでも続いた。


「ラウル様……?」


 息遣いが、静かだ。

 まさかと思い、そっと振り返ると――。

 美しく、穏やかな寝顔が横たわっていた。


(うそ――! 寝ていらっしゃる!?)


 さっきまで、甘く愛を囁いていた口から無防備な寝息がこぼれる。

 少しほっとしたフレッチェだが、同時に残念にも感じてしまった。続きを期待していたことに気付くや、顔から火が出そうになる。

 腕はしっかり回されたままで、寝返りを打つこともできない。フレッチェはうるさい胸の鼓動を抱いて、長い夜を明かす羽目になった。




˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。




 寝室に差し込む月光が、朝の光と入り交じる頃。

 フレッチェの背後で、満ち足りた息が吐かれた。


「やはり気に入った香りがそばにあると、寝つきも目覚めも心地がいいな」


 晴れやかな目覚めを迎えたラウルは、昨夜と同じように、フレッチェのうなじに唇を寄せる――実際には、鼻先を肌に沿わせているだけなのだが。

 フレッチェも、ようやく理解した。


(そうか、ラウル様は、わたしの匂いを嗅いでいただけだったのね……! 思い返せば初めから、そのつもりで仰っていたに違いないわ。それをわたしったら……ああ、恥ずかしい!)


 羞恥に押しつぶされ、身を縮こませる。


「どうかしたのか?」

「いっ、いいえ! ……おはようございます」

「ああ、おはよう、フレッチェ」


 ラウルには戸惑う素振りもなければ、ためらいもない。当たり前に、フレッチェをぎゅっと抱き寄せる。


「――ああ、こうしていると心が落ち着く」


 たとえそれが、香り袋として求められているだけだとしても、フレッチェの胸はときめきで満たされていた。

 しかし、窓の向こうでは虫ケラ姫を待つ現実が、ゆっくりと目を覚まし始めている。酔いはもう冷まさねばならない。


「そろそろ帰らねばなりません。ああ、母になんと説明しようかしら……。それに、いけない――ここまで連れてきてくれたリーンにも、何も言っていないわ。どうしましょう」

「それについては、安心してくれ。あなたの()()には、今日も牧草を届けるよう頼んである」

「え?」

「外泊の件は、久々に再会して話が弾み……ということで、ご友人にも口裏を合わせてもらった」

「わたしの……友人? まさか!」


 バークレイ伯爵令嬢エラだ。会場で親しげに話していた姿を、公爵家の者にしっかり認識されていたのだろう。

 嫁入り前の娘が無断で外泊など、外聞の悪い話にならないよう、すでに根回し済みというわけだ。

 エラにも大きな借りができてしまった。次に会った時には必ず、彼女の助けになれる自分でいよう――、フレッチェは胸に誓う。


「お気遣いいただき、ありがとうございます。夢のようなひと時を、わたくしは一生忘れません」

「僕もだ。あなたを忘れることなどできない。ずっとこうして、腕の中に閉じ込めておきたいと思っている。……そうだ」


 ラウルは何か思い立ち、戸棚から香水瓶を持ち出した。中は空だ。


「こちらは?」

「香りを閉じ込めておける、魔法の香水瓶さ。僕があまりに香りにこだわるものだから、母が譲ってくれたんだ。納得のいくまで、好きな香りを詰めろとね」

「まあ……わたくしも、似たようなものを母から受け継いでおりますわ」


 思いがけない共通点に、フレッチェは小さく息を呑んだ。

 彼との間に、まるで見えない糸でも結ばれているようで、つい笑みもこぼれてしまう。


「今まで、これを使いたいと思うほどの香りには、出会ってこなかった。フレッチェ、こんなに心が動いたのはあなたが初めてだ」

「わたくしを、最初の香りに選んでくださるのなら、本当に光栄ですわ」

「ああ……、ん? いや……待てよ?」


 瓶の蓋を開けかけていたラウルは、ふと手を止め、考え込むように眉を寄せた。

 やがて何かに納得したように、小さくうなずく。


「香りは詰めないでおくよ。また会えばいい」

「わたくしのような者が、もう一度……を、望んでもよろしいのですか」


 ラウルは穏やかに笑む。


「あなたの香りが――いや、心が好きだ」


 飾り気のない告白が、胸の奥深くに沁みる。

 フレッチェは、まだ夢を見ているのではないかと、頬をつねってみた。しっかり痛みを覚えたが、目の端に滲んだ涙は、そのせいではない。


「次に会うときは、言い訳の必要もない理由を持って、あなたを迎えに行こう」

「それは……どういう」

「待っていてくれ」


 ラウルは、つねった痕に重ねるように、そっと口づけた。

 夢ではないと、約束するかのように――確かな温もりが、フレッチェの頬に残された。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ