若君の香り袋
差し出された手を取ったときから、現実の輪郭はゆるやかに溶け出した。
夜会のざわめきが遠ざかり、やがて――月明かりがやわらかに灯る寝室へ辿り着いた。
「ドレスがしわになる。後ろを向いて」
「は、い……」
ダンスの相手だったら、もう少しうまく振る舞えたかもしれないが、恋の作法はまったくもって不得手。フレッチェはぎこちない動きで、言われた通りにするのが精一杯だ。
彼の指先がドレスの留め金に触れ、思わず身を固くした。
金具が一つ外れるたびに、息が楽になるどころか、胸はますます苦しくなっていく。布が滑り落ちる音がやけに大きく響いて、フレッチェは頼りない肩を自分で抱きしめた。
アンヌ草のおかげで、普段よりは肌がしっとりしているが、骨っぽくて薄っぺらい体まではどうしようもない。
「お見苦しい姿で、申し訳ございません……」
ラウルはちっとも気に留めた様子もない。自らも夜会服を脱ぎ、楽な姿で寝台にフレッチェを招く。
「あちら側を向いて、横になって」
仰向けに待っていたら、瀟洒な硝子窓のほうを示され、フレッチェは寝台の上で体を横向かせた。
ラウルがそっと隣に寄り添う。熱を帯びた腕が回され、背中にぴたりと彼の温もりが触れた。
フレッチェの心臓は大暴れして、隠しようもない。甘い吐息が髪をかすめるたびに、体が自分の意思に逆らって震えた。
「ひゃっ……!」
うなじのあたりに唇が触れて、思わず声が上擦った。
彼の鼻先がうなじをなぞるたび、全身が熱を帯びていく。くすぐったいのか、それとも別の感覚か、フレッチェにはまだ判然としない。
「あの……っ、わ、わたし、どうしたら……?」
「楽にしていればいい」
その声音があまりにも穏やかで、恐怖はなかった。フレッチェは言われるまま、こわばった体をそっと預ける。
触れられているのは首筋だけなのに、ラウルが息をするたび、頬が熱くて瞼の裏がじんじんした。
くすぐったさと恥ずかしさとで、もうどこに力を入れていいのか分からない。
(……い、いつまで……続くのかしら……?)
首筋への口づけは、終わる気配がなかった。
(ずっと、この格好のまま? 初めては……見つめ合って――が理想なのだけれど……。ラウル様は、こういった体勢がお好みなのかしら……)
だんだんと、もどかしいような切ない気持ちになって、フレッチェはラウルの手にそっと触れた。導くように、胸元へ引き寄せる。
「……あの、ラウル様? そろそろ、別のところも……」
返事がない。大胆すぎて興を削いでしまったかと、フレッチェは不安を覚えた。しばし、わきまえて押し黙る。
沈黙はいつまでも続いた。
「ラウル様……?」
息遣いが、静かだ。
まさかと思い、そっと振り返ると――。
美しく、穏やかな寝顔が横たわっていた。
(うそ――! 寝ていらっしゃる!?)
さっきまで、甘く愛を囁いていた口から無防備な寝息がこぼれる。
少しほっとしたフレッチェだが、同時に残念にも感じてしまった。続きを期待していたことに気付くや、顔から火が出そうになる。
腕はしっかり回されたままで、寝返りを打つこともできない。フレッチェはうるさい胸の鼓動を抱いて、長い夜を明かす羽目になった。
˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。
寝室に差し込む月光が、朝の光と入り交じる頃。
フレッチェの背後で、満ち足りた息が吐かれた。
「やはり気に入った香りがそばにあると、寝つきも目覚めも心地がいいな」
晴れやかな目覚めを迎えたラウルは、昨夜と同じように、フレッチェのうなじに唇を寄せる――実際には、鼻先を肌に沿わせているだけなのだが。
フレッチェも、ようやく理解した。
(そうか、ラウル様は、わたしの匂いを嗅いでいただけだったのね……! 思い返せば初めから、そのつもりで仰っていたに違いないわ。それをわたしったら……ああ、恥ずかしい!)
羞恥に押しつぶされ、身を縮こませる。
「どうかしたのか?」
「いっ、いいえ! ……おはようございます」
「ああ、おはよう、フレッチェ」
ラウルには戸惑う素振りもなければ、ためらいもない。当たり前に、フレッチェをぎゅっと抱き寄せる。
「――ああ、こうしていると心が落ち着く」
たとえそれが、香り袋として求められているだけだとしても、フレッチェの胸はときめきで満たされていた。
しかし、窓の向こうでは虫ケラ姫を待つ現実が、ゆっくりと目を覚まし始めている。酔いはもう冷まさねばならない。
「そろそろ帰らねばなりません。ああ、母になんと説明しようかしら……。それに、いけない――ここまで連れてきてくれたリーンにも、何も言っていないわ。どうしましょう」
「それについては、安心してくれ。あなたの馭者には、今日も牧草を届けるよう頼んである」
「え?」
「外泊の件は、久々に再会して話が弾み……ということで、ご友人にも口裏を合わせてもらった」
「わたしの……友人? まさか!」
バークレイ伯爵令嬢エラだ。会場で親しげに話していた姿を、公爵家の者にしっかり認識されていたのだろう。
嫁入り前の娘が無断で外泊など、外聞の悪い話にならないよう、すでに根回し済みというわけだ。
エラにも大きな借りができてしまった。次に会った時には必ず、彼女の助けになれる自分でいよう――、フレッチェは胸に誓う。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。夢のようなひと時を、わたくしは一生忘れません」
「僕もだ。あなたを忘れることなどできない。ずっとこうして、腕の中に閉じ込めておきたいと思っている。……そうだ」
ラウルは何か思い立ち、戸棚から香水瓶を持ち出した。中は空だ。
「こちらは?」
「香りを閉じ込めておける、魔法の香水瓶さ。僕があまりに香りにこだわるものだから、母が譲ってくれたんだ。納得のいくまで、好きな香りを詰めろとね」
「まあ……わたくしも、似たようなものを母から受け継いでおりますわ」
思いがけない共通点に、フレッチェは小さく息を呑んだ。
彼との間に、まるで見えない糸でも結ばれているようで、つい笑みもこぼれてしまう。
「今まで、これを使いたいと思うほどの香りには、出会ってこなかった。フレッチェ、こんなに心が動いたのはあなたが初めてだ」
「わたくしを、最初の香りに選んでくださるのなら、本当に光栄ですわ」
「ああ……、ん? いや……待てよ?」
瓶の蓋を開けかけていたラウルは、ふと手を止め、考え込むように眉を寄せた。
やがて何かに納得したように、小さくうなずく。
「香りは詰めないでおくよ。また会えばいい」
「わたくしのような者が、もう一度……を、望んでもよろしいのですか」
ラウルは穏やかに笑む。
「あなたの香りが――いや、心が好きだ」
飾り気のない告白が、胸の奥深くに沁みる。
フレッチェは、まだ夢を見ているのではないかと、頬をつねってみた。しっかり痛みを覚えたが、目の端に滲んだ涙は、そのせいではない。
「次に会うときは、言い訳の必要もない理由を持って、あなたを迎えに行こう」
「それは……どういう」
「待っていてくれ」
ラウルは、つねった痕に重ねるように、そっと口づけた。
夢ではないと、約束するかのように――確かな温もりが、フレッチェの頬に残された。




