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夜会の野花

 ˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。


 テラスにラウルの姿はなく、軽やかな夜風が庭園から吹き込んだ。それはまるでフレッチェを(いざな)うかのように、ドレスの裾を揺らす。


 アーチや小径に沿って灯された灯籠が、星々の瞬きを生み出している。そのなかを、フレッチェは夢心地で歩んだ。

 足元がふわりと浮かぶように軽いのは、さっき飲んだ葡萄酒のせいだ。


 気付けば、庭園の奥深くへと迷い込んでいた。肝心のラウルの姿は、やはりどこにも見当たらない。


(一言だけ、お礼が言えたらよかったのだけれど……)


 近くのベンチに腰を下ろし、胸の高鳴りを鎮める。

 草花が夜風と語り合うように、さやさやと揺れている。その音に耳を傾けて目を閉じると、ほんの束の間、世界がやわらかに溶けていく気がした。


 もう帰ろう――そう思って立ち上がった刹那。

 背後の生垣がガサリと揺れ、フレッチェは思わず飛び上がった。


「な、なにっ?」

「んん……めぇっ!」


 生垣から頭をねじこんできたのは、一頭の子ヤギ――真っ白な額の毛が、クリームの角のように、ぴょこんと立っている。

 子ヤギはしきりにフレッチェに鼻を寄せ、生垣から出てこようとしていた。


「待て、メーメー。そっちに行きたいなら、脇から回れる」


 静かな声に、子ヤギもフレッチェも一緒に耳をひくつかせる。

 少しして、生垣の向こうから、銀の光がこぼれた。


 灯籠の明かりを受けた銀髪がゆるやかに揺れ、その下に灰がかった青の瞳が覗く。公爵家の子息ラウルだ。

 子ヤギは彼の足元から離れ、一直線にフレッチェに飛びつくと、足首をぺろぺろと舐めた。


「きゃっ! ふふふ、くすぐったいわ! もうやめて」

「メーメー、お座り」


 ラウルの声に、子ヤギはぴたりと動きを止めた。

 その従順さに、フレッチェは犬の姿を思い出した。


「失礼。人がいたとは……しかし、メーメーが僕以外の人間に馴れるのも珍しい」

「……もしかしたら、わたくしから鼻に馴染んだ香りがするのかもしれません。身を清めるのに、牧草の茹で汁を使いましたので」

「茹で汁で風呂に――?」


 ラウルの眉がかすかに動き、フレッチェは顔を真っ赤にした。正直に答えすぎてしまった。


「申し訳ございません! 大公様の城を汚すつもりでは決してなくて……その……」

「いいや、別に責めはしない。おもしろいことをすると思ってな」


 ふと、ラウルが歩み寄り、距離が縮まる。彼はそのまま顔を寄せ、フレッチェの髪に鼻先を近づけた。

 息が触れるほどの距離で、澄んだ声が低く響く。


「確かに。我が家のヤギたちが好む、アンヌ草特有の清涼な香りが、ほのかに残っている。香油は使っていないな。それなのに、このしっとりと濡れた手触りとツヤは……熱で溶け出した油分だろうか?」


 囁きが耳をかすめ、フレッチェは身を固くする。跳ね上がる鼓動が空気を震わせ、彼に聞こえてしまいそうで、たまらず後ずさった。


「失礼。僕はラウルだ。あなたは?」

「シェバー男爵家のフレッチェと申します。先程、お褒めいただいた真紅のドレスを着ていたのは、次女のマルルです。妹が無礼を働きましたこと、深くお詫び申し上げます」

「ああ……なるほど。あのドレスはもとはあなたのものか。妹君に貸したというわけだな?」


 ラウルはフレッチェの出立ちを見て、マルルより年嵩の姉と見受けた様子だった。

 フレッチェは言葉に詰まり、静かに首を横に振ることで、愚痴っぽくなりそうな心を押さえつけた。


「そうではございませんが……先程のあなたの一言で、わたくしの胸のつかえは下りました。そのお礼を、お伝えしたかったのです。父と母の深い愛情を称えてくださり、ありがとうございました」


 フレッチェはそっと頭を下げた。

 もう会うこともない――しかし礼を言えただけよかった。そう思って踵を返そうとした、その瞬間――。


「待ってくれ」


 短い一言に、足が止まった。胸が高鳴ったのは、心のどこかで彼のその言葉を待っていたからかもしれない。

 振り向くと、ラウルはまっすぐに見つめてきた。月明かりが撫でるように銀髪は淡く輝き、涼やかな瞳には少しの濁りもない。


「メーメーが気に入るはずだ。あなたからは、特別に良い香りがする」

「……お上手ですのね」


 社交辞令だと信じようとしないフレッチェに、彼は他では見せない本性を、誠意として示した。


「僕は、他人の感情を香りとして感じる体質でね。夜会はいつも、欺瞞と虚飾の香りで満ちている。大嫌いだ」


 ラウルは夜風を吸い込み、満ち足りた息を吐く。


「だが、あなたの香りは心地良い。泉に湧く水のように清らかで、心を冴えさせる香りだ」

「きっとアンヌ草の香りですわ」

「それだけではない。あなたの心には、静かな怒りが燃えている。それがスパイスのようにヒリヒリと、鼻をくすぐるんだ」


 フレッチェは胸がいっぱいで、息を詰まらせた。

 胸の奥に秘めていた怒りも痛みも、彼が見つけてくれたようで、しこりがほどけていく。


「そして――すべてを許すように、優しく穏やかな香りが包み込んでいる。あなたは、澄んだ強い心の持ち主なのだろう」


 フレッチェの胸に、言葉では言い尽くせない温もりが満ちていく。今宵一番の笑みが、涙と一緒にこぼれた。

 涙を拭う風がふっと吹き抜け、庭の木々をざわめかせる。舞い上がった葉がひとひら、フレッチェの肩をかすめて飛んでいった。


「めぇ!」


 子ヤギのメーメーは、それを追いかけて駆け出す。芝の上を軽やかに跳ね、やがて風とともに庭の奥へと消えていった。

 ――途端に、子ヤギと入れ替わるように、強い風が吹き抜けた。

 見えない手で背中を押されて、フレッチェの体が前へ傾く。よろけたところを、そっとラウルの腕が抱き留めた。


 その瞬間、時が止まったように、世界から物音が消えた。

 彼の腕の中で、フレッチェは胸の鼓動が自分のものか彼のものか、わからなくなる。

 ラウルも、腕の中の温もりを確かめるように、再びフレッチェの髪へ顔を寄せた。


「このまま帰すのが惜しい」


 花々の香りが入り混じる庭園の中で、ラウルにはフレッチェの香りだけがとても鮮やかに感じられていた。


「こんな気持ちは初めてだ。あなたが香り袋(サシェ)だったなら、胸に抱いて朝も夜も離さないのに」

「ふふ……香り袋を抱きしめたら、熱で香りが変わってしまいますわ」


 桃花蜜の髪がふわりと揺れ、かすかに甘く香る。

 ラウルの瞳も、熱を帯びて瞬いた。


「あなたも、そうだろうか?」

「……お試しになられますか?」


 大胆な言葉が、フレッチェの口をついて出た。

 屋敷に帰れば、またいつもの嘲笑が待っているだけ……。それならば、せめて今夜だけでも、この夢に身を浸していたかった。


「僕の枕をその美しい香りで満たしてくれないか?」

「ええ、若君。よろこんで――」


 夜会の空気と美酒に酔っているのだと、フレッチェは自分に言い聞かせる。酔いが冷めてしまわぬように、差し出された手に手を重ねた。


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