新人侍女は有能です(2)
フレッチェの襟足を分ける真似をして、新米侍女は困り顔を覗かせる。
「奥様が、虫に刺されてしまいました。冷やして差し上げたいのですが、お水をお借りできませんか?」
「ややっ、それは大変だ。しかし、参りましたな。今は水を止めておりまして……」
「えっ、お水が使えないのですか!?」
「いえいえ、ご安心ください。通水管は生きておりますので、役所に届けを出せばすぐに水は出ます! ああ、でも今日中には難しい、困ったなぁ」
あどけなさを残した侍女は、表情を取り繕おうともしない。わざと不安を煽るようなまなじりで、ちらりとフレッチェを見る。それで、フレッチェはフィンリーの懸念を察した。
自らアンバー氏のほうに進み出て、口を挟む。
「わたくしの侍女が大事にいたしまして、申し訳ございません。馬車に戻れば軟膏もございますから……ところで、アンバー様」
「はい、なんでございましょう?」
「通水管の劣化や、設備に不具合があった場合は……どのようになるのでしょうか」
物件を安く手に入れたはいいが、修繕費がそれ以上にかかったという話もよく聞く。ずさんな修繕で引き渡す悪徳業者もいるそうだ。
ラウルの嗅覚でアンバー氏が善人だと信じられても、契約上はきっちりさせねばならない。
「ご安心くだされ。引き渡し前にこちらで点検し、支障のある箇所は修繕いたします。費用は、我が子の門出のため、こちらで負担いたしましょう」
どん、と胸を叩くアンバー氏を、ラウルがやんわりと遮る。
「すべて負担していただくのは、申し訳ない。この場所は、これから僕たちが育てていく工房でもあるのだから」
「では……折半でいかがでしょうか。お見積りや状況を都度、確認していただくため、お引き渡しまで日をいただくと思いますが」
「ああ、よろしくお願いする」
フィンリーがほっと息をつく気配に、フレッチェも胸を撫で下ろす。
――兄さんは少し浮世離れしてて危なかっしいから。
フィンリーは後に、そんなことを言って、フレッチェに釘を刺した。
「アンバー殿。今後とも変わらぬご縁と、お力添えをいただければ幸いです」
ラウルの差し出した手を握り、アンバー氏は深く頷く。
「こちらこそ。良き巡り会いに感謝を」
その言葉に、フレッチェは胸の奥が、温かくなるのを感じた。
この場所で生まれる香りが、人々の生活を潤すものになるよう願うとともに、建物とアンバー氏に感謝し、深く一礼した。
※※※
帰りの馬車の中で、穏やかな沈黙を破ったのは、フィンリーだった。
「でもさぁ、おじさんも言っていたけど、確かに立地は不利だと思うなぁ。正直……この辺りの住民は、一般的な香水の購買層からは外れているよね?」
「それでいいんだ。贅沢品と思われがちな、香りを纏うという行為を、もっと人々の生活に根付くような場所にしたいんだ。そのために、垣根をこちらから踏み越える」
「ふうん……、兄さんの理想はわかったよ。でも、どうやって?」
フィンリーはわざわざ指を折りながら、問い詰める。
「原料の確保は? 自家栽培? それとも契約? 安定して仕入れられる? 運搬費用は? 精製の設備はどこまで揃える? 雇い人は何人必要? 商品に使う資材の質は? どうしたって経費がかかるよ」
「違うんだ、フィンリー」
ラウルは言葉を選ぶように、一拍置く。
「僕たちが考えているのは、安易に価格を抑えて、手元に届けるというものではない」
ラウルはフレッチェに目配せする。思いを受け取るように、フレッチェはゆったりと頷いた。
「どういうこと?」
「まだ交渉中のものや、これから協議しなければならないものもありますが……。わたしたちが思い描ける中で、最良の選択を大公閣下に示すつもりです」
今度はラウルが頷き返す。
フィンリーは、呆れたように息を吐いた。
「理想論だよ、無茶だね――って、わかってるのになぁ。二人して、そんな生き生きした顔を見せられると、止めづらいよ」
その声の調子は柔らかい。
「迷うこととか、悩むことがあったら、せめて相談くらいしてよ。できる限り力になるから。現実の厳しさに打ちひしがれて、潰れたりしないでよね。二人が泣いたりするのを見るなんて、僕は嫌だから」
「ああ、頼りにさせてもらう」
「ありがとうございます、フィンリー様」
フィンリーは少し照れたように視線を逸らし、それでも安堵したように笑った。
その横顔に、フレッチェは思わず見入ってしまう。翌年には成人を迎える少年に向ける言葉ではないので口には出さないが、くるりと上向いた睫毛が人形のように愛らしい。化粧も手伝って、セラフィーヌの面影が強調されていた。
やがて、屋敷が見えてくると、馬車が減速し始めた。
大きく伸びをしながら、フィンリーが外を覗いて、首を傾げる。
「あれ? ……うちの馬車が停まってるよ」
彼が訝しで投げる視線の先で、馬車に刻まれたロゼクォット家の紋章が輝く。
ほどなく、執事のジュークが現れ、ラウルに告げた。
「セラフィーヌ様がお見えです」
突然の来訪に首を傾げながらも、ラウルは素直に邸内へ向かう。一方フィンリーは珍しく、あからさまに厄介ごとに直面したような顔を見せた。
その反応を見てフレッチェはふと、フィンリーがこの屋敷に来た理由は、別にあるのかもしれないと思った。




