こぼれた果実は実を結ぶ(1)
王弟の馬車を先頭に、隊列はまだ大きく動いてはいなかった。騎士たちは各所で最終確認を行い、出立の時を待っていた。
最後尾に控えるレンジュは、見送りに出てきたラウルとフレッチェを馬上から見下ろし、軽く顎を引く。
「ラウル……。殿下から話は行っていると思うが、惚れ薬の件はなかったことに……。それこそ、母上に知られたら大変なことになる」
「ああ、わかった。兄さんは、相手の女性とはもう会わないのか?」
「俺は……そのほうがいいと思うが」
ちらりと馬車のほうを見遣る。セラフィーヌがそうはさせてくれないのだろう。
「兄さん自身は、どうしたいんだ?」
「俺にそれがわかるなら、お前たちを訪ねたりしなかっただろう? ……っと、そろそろ時間だ。じゃあ、またな。ラウル、フレッチェ」
前方で上がった合図の声に合わせ、レンジュは背筋をぴんと伸ばした。
軽く踵を入れると、馬は素直に歩を進めた。隊列の最後尾につくレンジュの背中を、ラウルとフレッチェは並んで見送る。
初恋に幕を下ろした叔父と、初恋を知らず頭を悩ませる甥が、同じほうへ走り去る光景を、フレッチェはぼうっと眺めていた。
隊列の後方が、曲がり角に差し掛かる頃、ふいに、人だかりがざわりと波打った。
押すな、と誰かが声を上げたのに続き、人々の隙間から、小さな影が飛び出した。
褐色の肌をした男の子が、フレッチェ目がけて一直線に駆けてくる。手には何かが握られていて、フレッチェの目の前で拳を突き出した。
「レッテ!」
「フレッチェ!」
気付いたレンジュが馬の足を返し、ラウルがフレッチェを庇おうと立ち塞がる。
しかし――。
どちらも、一歩遅かった。
観衆の切り裂くような悲鳴とともに、真っ赤な飛沫が上がった。フレッチェの青銅色のドレスが、滴る雫に紅く染め上げられる。
自分の身に何が起きているのか分からず、フレッチェは立ち尽くす。
その目の前で、鋭く風が切られた。
何かが砂埃を上げながら、子供に突進を繰り出す。ドンッ! と痛々しい音がした。
「わぁあっ!」
男の子は後方に大きく吹き飛ばされて、尻餅をついた。その手には熟れた果物が握られ、ぐずぐずに果汁を滴らせている。
フレッチェのドレスには、その汁がべっとりとなすりつけられていた。
「レッテ! 無事か!」
「え、ええ……いったい何が起きたのか……」
「んっ……めえええええええ!!」
ざわめきの中で、聞き覚えのある鳴き声が上がる。アンヌ草のすっきりとした香りが、砂埃を晴らしていく。
そこには、一頭の子ヤギが凛々しく四肢を踏ん張っていた。額の癖毛が、ぴょこんと起き上がる。
「メ、メーメー!?」
ベールグランで留守番をしているはずの彼の名を、フレッチェは叫ぶ。
敵意の矛先を失ってもなお、鼻息荒く地面を蹴っていた子ヤギの耳が、ぴくりと耳が動いた。
次の瞬間、メーメーは一直線にフレッチェへと向かい、勢いそのまま彼女の腕に飛び込んだ。
「めえっ、めええ……」
震える声で鳴きながら、ぐいぐいと額を押しつけてくる。怒りと不満と、それから置いて行かれた寂しさが、すべて混じった甘え方だった。
「まさか、一人でここまで来たの? もう、なんて無茶を……」
馬車でも二日がかりの距離だ。それを温室育ちの子ヤギが自分の足で駆けてきたなど、無事だっただけ奇跡のようだ。
フレッチェがそっと抱き締めると、メーメーはようやく安心したように力を抜いた。小さな体が、ふっと重くなる。
まるで緊張の糸が切れたように、ぐっすりと眠っていた。
愛らしい寝顔で和んだ空気に紛れるように、男の子は這いながらその場を脱しようとしていた。辺りは進行を停めた騎士たちに囲まれ、逃げ切れる望みは薄い。それでも、どうにか切り抜けようとしていた。
しかし、ひょいと首根っこを掴まれて、持ち上げられる。
「わっ、わぁっ! やめろ! 離せよぉ!」
「動くな。大人しくしていれば、怪我をさせるつもりはない。どういうつもりで、僕の婚約者に不埒な真似を働いた?」
冷たい声と、冷え切った青灰色の瞳に、少年はすくみ上がる。
宙に浮いたまま、じたばたとばたつかせていた足も、観念したように動きを止めた。
「お姉ちゃんに頼まれたんだ」
「お姉ちゃん?」
言葉には、砂漠地方の訛りがある。
握りしめた褐色の拳からは、赤い果汁と甘い香りが滴った。
「腹が減って泥棒した俺に……果物、買ってくれた人。名前は知らない」
「それで?」
「お礼がしたいって言ったら……、このお姉ちゃんは悪い奴だから困らせろって……」
子供は一瞬だけフレッチェに視線をやると、逃げるように目を伏せた。
「俺、悪いことしてない。恩返ししただけだ。あの人は、俺みたいなやつを助けてくれた女神様みたいな人なんだ」
握りしめた果物を見つめながら、必死に言い訳を重ねる。自分を説得しているようだ。
ラウルは同情の余地を見せず、問いを重ねる。
「その人の見た目は?」
「……金色の髪。真っ赤な、綺麗なドレス……」
それだけで、フレッチェには誰の差し金かわかった。
メーメーを起こさないように横たえ、フレッチェは少年に歩み寄る。すっと冷えてしまった胸を慰めるように、シェリーの香水瓶を握り直した。
「……あなたのことは、責めないわ」
警戒したままのラウルに頼んで、どうにか少年を地に下ろしてもらう。それから、フレッチェは子供の目の高さにしゃがみ込んで、彼の強張った拳を撫でた。
「美味しそうね。とってもいい香り」
「え……」
「女神様がくれた、大切な果物だったのでしょう? こんなことで無駄にしてはだめよ?」
穏やかな彼女の声に、少年の小さな肩が震える。
「まだ食べられるものはある? お腹は空いてない?」
「……俺っ……うっ、うぅ……ごめんなさい! ごめんなさい!」
泣きながら謝る子供の声に、見物人たちのざわめきの間から、白い衣の一団が顔を覗かせる。フレッチェはほっと笑みをこぼし、少年の肩を叩いた。
「見て。本当の女神様ってね……優しいばかりじゃなくて、こんな時こそ、ちゃんと叱ってくれるものよ。お母さんのような人なの」
フレッチェが指差す先には、馬車から降りてやってくるセラフィーヌの姿があった。
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王都からベールグランの屋敷に戻り、数日が過ぎた。
エラに物語の感想をしたためていたフレッチェのもとに、来客が告げられる。
急いで立ち上がると、メーメーもとことこと後をついてきた。首元で、一張羅のリボンがひらりと揺れる。すっかり、フレッチェのナイト気取りだ。
応接室には、すでにラウルの姿があった。
フレッチェの入室とともに、椅子から腰を上げた客人はレンジュだ。さっぱりとした笑顔が気持ちいい。
「今日は王弟殿下の遣いと、騎士団の任務として伺った。まずは、これを受け取ってくれ」
卓の上に、ずっしり重い革袋と洗練された包装の小箱が差し出される。
「王弟殿下から、報酬と感謝の品だ」
「何か香りがする」
ラウルは小箱のほうを持ち上げて、鼻を寄せる。かすかに花の香りが漂う。金貨よりも、そちらを気にするのがラウルらしくて、フレッチェもレンジュも思わず吹き出した。
「それから、先日の難民の子だが……」
「どうなりました?」
「一応、傷害事件だからな。一旦は騎士団で拘束したが、今は白露院で引き受けてもらったよ。元気にしているそうだ」
「よかった……」
仮にも自分の妹が、幼い子をそそのかしたのだ。その責任を感じていたフレッチェは、数日ぶりに心から胸を撫で下ろした。
「それでだな。君の妹君も、外見の特徴から捜査の対象となっていたのだが……」
レンジュは口ごもりながら、言葉を選んで報告を続ける。
「王都の滞在先を訪ねたら、思いのほか歓待されて戸惑った……」
「えぇと……マルルが、ですか?」
「どうやら、俺が彼女を個人的に訪ねたものだと、勘違いさせてしまったようで、な」
「あら……まぁ……それは何とも……」
マルルらしいと言えばそうだが、フレッチェは苦笑を否めない。
「事件の捜査だと告げた途端、顔色が変わって追い返されてしまった」
「はぁ、想像がつきます」
青ざめるのではなく、顔を真っ赤にしたに違いない。その恥ずかしい姿を思い浮かべると、可笑しくなる。今はそれで溜飲を下げてやることにした。
「証拠不十分で捜査は打ち切り――力になれずすまないな」
「いいえ。弟は大切な時期です。身内が捕縛などされたら、彼の未来がどうなるか……お心遣いに感謝申し上げます。あとは……利用された子供の心が癒えるのを、願うばかりです」
「ああ、俺も騎士として、いっそう王都の警護に励むよ。女性が安心して、出歩けるようにな」
その声は、先程までよりも低く、真剣だった。
フレッチェは、彼が具体的に誰かを思い浮かべて言っているように感じた。
「あの、レンジュ様。今、どなたのお顔を思い浮かべていらっしゃいますか?」
「ん? どうした?」
「どなたを守りたいと思ったか……。そこに、レンジュ様が求めるものの答えがあるのではないかと、わたしは思うのですが」
レンジュは、わけがわからないと言いたげな顔で、首を傾げる。
結局その場では答えを出せぬまま、彼は王都へ帰っていった。
彼の胸の奥で眠った想いが、いつか芽吹く日をフレッチェは祈る。ティーカップに残った茶を飲み干し、余韻に浸っていると、隣でガサガサと紙を畳む音がした。
箱の中身が気になって仕方なかったラウルは、レンジュが帰るや、封を開け始めていたのだ。
「見てくれ、レッテ。とてもいい品だ」
「まぁ、可愛らしいですね。これは何でしょうか?」
緩衝材に埋もれて、丸いものが収められている。
少しずつ色合いの異なる桃色が、螺旋状に何層も重なっていて、菓子のような見た目だ。
手にしてみると、粉を固めたような質感で、しっかりとした硬さがあった。薔薇やベリーの香りが漂い、二人をうっとりとさせる。
ラウルは添えられた手紙を読みながら、目を輝かせた。
「帝国で流行の、香の一種らしい。風呂に入れて楽しむものだそうだ」
「聞いただけで、胸がわくわくいたします! とても珍しいお品物なのでは?」
家庭に浴室がしつらえられているのは、富裕層に限られたことだ。軽々しく触れた手を、フレッチェは引っ込める。
「こんな高価なものまでいただいてしまって、よろしいのでしょうか」
「叔父上からのお気持ちだ。ありがたく使わせていただこう」
「はい!」
「では早速、今夜使ってみよう。楽しみだな」
「はい!」
……
…………
………………
…………
……
(どうして……)
湯船につかったフレッチェは、脚をぎゅっと閉じて、膝の頭をこすり合わせる。
いつもの入浴なら、ゆったりと脚を伸ばしているところだが、今夜はそれができない。
真正面に、ラウルがいるからだ。
(どうして、こんなことに――!?)
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