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一房の純情


 しかし、ラウルにも思わぬ誤算があった。

 グレドルウィンが訪ねてきた時、セラフィーヌも屋敷にいたことだ。


「あなたたち……わたくしに隠れて、何をこそこなさっておいで?」


 お互いの立場と影響力を考えなさいと、こってり絞られてしまった。

 肩を落とした王弟とラウルの後ろ姿は、とてもよく似ていた。騎士団員ら数名とともに警護の任に着いていたレンジュは、こらえきれずに吹き出す。


「あら、レンジュ。笑っているけれど、あなたもわたくしに黙っていることがあるでしょう」

「は……、な、なんのことでしょうか」

「せっかくの()()()()をどうするつもりなのか……。後で、ゆーっくり話しましょうね。さ、それではまず、グレンの用件を済ませてもらいましょう」


 セラフィーヌは息子たちの監視と言って、相席するつもりだ。応接間に尋常でない緊張が走る。

 その空気を払いのけるように、ラウルは小さく咳払いして、主導権を取り戻した。


「改めまして――本日は王弟殿下自ら、足をお運びいただき恐縮です」

「わたしが頼んだことだからな。それで……どうだった」


 グレドルウィンはもう、逸る気を取り繕いさえしない。


「結論から申しますと……お探しの女性を探し出すことはできませんでした」


 微塵も迷いのないラウルの声に、グレドルウィンは見るからに肩を落とした。


「そうか……やはり、もう一度まみえることは叶わないか」

「しかし、僕は……時を戻す魔法を会得いたしました」


 ラウルの芝居がかった口調に、レンジュがこっそり苦笑いする。


「ご覧にいれましょう。――叔父上、僕がいいと言うまでしばらく目を閉じていてください」

「こう、か……?」

「そう――静かに、口は閉じて。息をゆっくり整えて……」


 グレドルウィンの視界は、自ら作り出した静寂と薄闇に包まれる。その耳許で、キュッ……と何かの栓を抜くような音がした。

 途端に、鼻先を葡萄の香りがかすめた。思わず目を開きそうになるのを、ラウルの声が穏やかに制する、

 落ち着いて息を吸い、グレドルウィンは思い出した。その香りは、自分で魔法の香水瓶に詰めた思い出の香りだ。


(ラウル……優しい子だ。しかし、残念ながら……この香りには何かが足りないのだ。わたしが一番そう感じている。これでは、あの夜には帰れないのだと)


 グレドルウィンは甥の心遣いには感謝し、辞意を告げようとした。しかし、それを遮るように、ラウルの手許でもう一つの香水瓶の蓋が外れる。


――ポンッ……。


 コルク栓が抜かれるような音に続いて、香りが弾けた。

 甘さの中に爽やか風を感じさせる、心が湧き立つような香りが、グレドルウィンの前で揺れる。それは初めの香りと重なり、煌びやかな二重奏を奏で始めた。


 発泡する白ワインの中で、細やかに立ち上る透明な泡。踊る淑女らの足元で、波のように揺れるドレスの裾。管弦の調べが響く夜空には、大輪の花火が――。

 祝宴の夜の光景が、グレドルウィンの閉じた瞼の裏に鮮やかに蘇った。


 誰かが、窓を開ける気配があった。風が香りをさらい、グレドルウィンのもとから離れていく。


「待ってくれ――」

「もう目を開けていいですよ」


 彼が腰を上げるのと、ラウルが告げるのは同時だった。

 ゆっくり開かれたグレドルウィンの瞳に、風をはらんだ帷が膨れ、舞い上がる光景が映る。開け放たれた窓の向こうには、小さな人影があった。


 風とともに、香りは軽やかに踊り、帷をめくり上げる。足元から、姿を暴くようにゆっくりと……。

 香りの残照の中で、青銅色のドレスを翻し、人影は振り返る。

 グレドルウィンの記憶から飛び出したかのように、仮面を付けた令嬢が、たおやかに一礼した。


 よろけるように一歩を踏み出したグレドルウィンの膝が、テーブルの角にぶつかった。


「きゃっ、お茶が……! グレン、落ち着きなさい」


 揺さぶられた茶器にセラフィーヌの声が上がるも、彼の耳には届かない。


「ああ……っ、わたしは夢を見ているのか! 彼女は……彼女は……!」


 仮面の令嬢に、グレドルウィンは手を伸ばす。

 あの夜、手放してしまったものを、今度こそ掴もうとするかのようだ。

 

 しかし、令嬢はその手をかわすように、自分の手を頭の上へ掲げた。

 ()()指先がひらりと舞って、髪に触れる。黒髪に()()()()()()かぶったヴェールをつまんで、そっと外した。


 ヴェールの下から現れたのは、肩にかかるくらいの、ふわふわとした髪だ。逆光の中でも、その髪は淡く桃色がかった金色に輝いている。


 魔法が少しずつ解けていくように、グレドルウィンは現実へと引き戻されていく。

 令嬢は最後に、ゆっくりと仮面を外した。


 白い頬を桜色に染め、緊張に唇を引き結んだ姿が、初々しい。

 澄んだ瞳が碧く瞬いて、呆然とするグレドルウィンに申し訳なさそうに頭を下げた。

 ラウルは彼女の隣に進み出る。


「叔父上、ご紹介いたします。僕の婚約者、フレッチェです」


 まさか彼女まで噛んでいたとは思わなかったのだろう。セラフィーヌとレンジュも、目を丸くして腰を浮かせた。


「……ははは、これは参った。すっかり術中にはまってしまったよ」


 グレドルウィンは、少し安堵したように息をつく。声からは、張り詰めていたものが抜け落ちていた。


「見事な魔法だった。しかし……、わたしがどれほど思い返しても再現しきれなかった香りを、君はどのようにして蘇らせたんだい?」

「彼女のおかげです」


 ラウルの手には二種類の香水瓶があった。大きいほうを王弟の手に戻し、小ぶりなほうはフレッチェの手を包み込むようにして握らせる。


「叔父上は、ご自身の感情が誰かの手で仕組まれた、まやかしではないかと疑っておられましたね。だから無意識にご自身で、この香りに蓋をしてしまっていたのでしょう」

「いったい、何の香りなんだ?」

「これは、初めての恋にときめく胸の鼓動の香りですよ。僕を見つめる彼女から感じる香りを、借りました」

「ラ、ラウル様っ! そこまでは仰らないと約束しましたのに! 皆様の前で恥ずかしいっ!」


 フレッチェは顔を真っ赤にして、ラウルの胸を小さな拳でぽかぽかと叩いた。

 ちっとも痛くない攻撃を、ラウルは微笑んで受け入れる。


「すまない。僕が君の目にどう映っているのかを、つい自慢したくなってしまったんだ」

「も、もう……ラウル様ったら」


 皆、ラウルのように鼻が良いわけではないが、この時ばかりは甘ったるい空気が部屋に満ち、胃がもたれそうだった。

 そんな空気にした張本人は、悪びれる様子もなく、すっと表情を切り替えてグレドルウィンに向き直る。


「そういうわけでして、あと一歩というところまでは迫れたと思ったのですが……ご期待に添えず、申し訳ございません」

「いや、十分だ。ありがとう」

「最後に……、これは調査の過程で得られたものです」


 ラウルは一枚の手巾を差し出す。


「お探しの方が現在、纏っておられる香りと思われます」


 グレドルウィンの手が震えた。

 ほのかに甘い香りを漂わせる手巾に鼻を寄せて、彼はそっと目を閉じた。

 深く吸った息が香りを掴み、失われた二十年の時を物語る。


「――ああ……そうか」


 グレドルウィンは小さく呟くと、手巾を握ったまま、しばらく黙り込んだ。




 ※※※


 やがてグレドルウィンは香水瓶と手巾を手に、退室を告げた。

 ふと目が合って、フレッチェが頭を下げると、彼はラウルと似た落ち着きのある眼差しを傾けた。


「君も――感謝するよ」

「恐縮でございます」

「帰る前にもう一度、その香水瓶の香りを試してもいいかい?」

「ど、どうぞ!」


 シェリーの香水瓶に詰めた、フレッチェの「初恋」。知られてしまった今となっては、それを王弟に鑑賞してもらうのは、畏れよりも気恥ずかしさが勝る。


「ありがとう、十分堪能した」

「お、お粗末様でございました!」


 慌てて蓋を戻そうとした拍子に、フレッチェの指から蓋が滑り落ちた。

 グレドルウィンが咄嗟に掴み取ってくれたおかげで、床を這わずに済んだ。


「申し訳ございません! お手を煩わせてしまいました」

「なに、かしこまらなくていい。……おや?」


 蓋を差し出しかけていたグレドルウィンは、フレッチェの顔を覗き込んで、小さく首を傾げる。


「君とは……以前にどこかで会っていないか?」

「え――?」

「まぁ! 久しぶりに聞いたわ、そんな口説き文句!」


 すかさず、セラフィーヌが間に割って入った。

 グレドルウィンから蓋を奪うようにして、シェリーの香水瓶に戻す。その手つきは優雅だが、フレッチェを庇うように立つ横顔は凛々しい。こうして並ぶと、血縁を強く感じさせた。


「あなたが独り身でいる間に、とっくに使い古された言葉よ」

「姉上……わたしはそんなつもりで言ったのでは」

「叔父上、レッテを……僕の婚約者を口説こうとしたのですか……」

「違うぞ、ラウル! 誤解だ!」


 場の空気が一瞬ざわついたが、セラフィーヌは涼しい顔のまま、そのざわめきを押し流すように手を叩く。


「グレン、わたくしがどなたかご紹介して差し上げましょうか」

「いや、結構――」


 慌てて断ろうとする王弟の声など意に介さず、セラフィーヌはエスコートを求めるように手を差し出す。


「この後、わたくしも登城の予定があるのだけれど……時間が惜しいわ。あなたの馬車に同乗して、お話しましょう」

「あ、姉上……」


 ほとんど返事を待たずに、セラフィーヌの爪先は表へ向かう。

 グレドルウィンももはや抵抗する気力を失って、姉に腕を差し出した。

 こうして、王弟の帰還の馬車には、当然のような顔をした彼の姉が同乗することとなった。



 ※※※


 往来の安全確認、護衛の配置など、セラフィーヌが加わったことで、出発の準備が整うまでにたっぷり時間があった。

 客車の中で、グレドルウィンはぼんやりと遠くを見ていた。

 窓や扉が閉まりきっているのを確かめて、セラフィーヌは咳払いする。こらえていた言葉の堰が切られたように、最初の一言は重たく滑り出した。


「あなた、本当は初めから知っていたのでしょう? 二十年前の真実を……彼女の素顔も」


 グレドルウィンはまぶたを伏せ、静かに頷く。


「……ええ。ひとより察しが悪いので、しばらくは躍起になって、彼女を探していたのは事実ですが。うっすらと仮面の下の輪郭が見えてからも、どこかまだ夢を見ているような気持ちでした」


 グレドルウィンは、確証が欲しかったのだと打ち明ける。後悔と迷いの日々に、答えが欲しかったのだと。


「答え――ね。あなたは……、香りを愛し、本気で叔父を思う、ラウル(あの子)の気持ちに付け込んだのよ。自分の未練を解かせるために」


 セラフィーヌの声音は冷たくはない。だが甘くもない。身内だからこそ厳しくなれる、姉の声だった。

 グレドルウィンは痛みを堪えるように、膝の上で手を握りしめる。


「申し訳ございません。ラウルに示された、新しい香りを嗅いで悟りました」


 手巾を再び鼻に当てた後、彼はゆっくりと息を吐いた。


「こんなにも円熟した香りを纏っている。これは、彼女が濃い人生を歩んできた証です。……二十年前に踏み出すことができず、夢に溺れたままの青二歳の私が、いまさら彼女の隣に立てるはずがないのだと」


 彼は、騎士たちには決して見せない、弱々しい笑みをこぼす。そこには悔恨ではなく、不思議な清々しさがあった。


「思い出は香水瓶にしまって、静かに海の向こうを眺めていようと思います」


 グレドルウィンは窓の向こうを眺め、出立の時を待つ。

 外では騎士たちが、王弟の馬車を眺めに来た見物人を押し返している。人だかりの後方で、褐色の肌をした浮浪者が、ごそごそと怪しい動きをしているのが、客車の高さからはよく見えた。

 セラフィーヌは長く息を吐き、額に手を当てる。


「納得できなかったらどうするつもりだったの。まさかとは思うけれど、再び混迷に陥っているイシュカリムに、援軍を送ろうだなんて思っていないわよね?」

「……わたしの迷いが断たれなければ、陛下に奏上するつもりでした」

「ああ、これだから……若いって恐ろしい!」


 呆れと怒りが渾然となり、セラフィーヌはぐったりと目を閉じた。国家もろとも玉砕覚悟の告白に巻き込まれかけたラウルとフレッチェには、同情と危うさを憶えた。


 疲弊したセラフィーヌの鼻先で、芳醇な果実の香りが揺れた。目を開くと、グレドルウィンが手巾を懐にしまうところだった。

 初々しさを捨て、一国をその背に負った女性の、逞しくも美しい香りは、香水瓶とともに彼の胸の奥へしまわれた。


 グレドルウィンのすっきりした顔を見て、セラフィーヌは静かに息を吐いた。ふっと、昔を懐かしむような柔らかな微笑を浮かべる。


「はあ……よちよち歩きだったあなたが、恋に落ちる瞬間を、この目で見てみたかったわ」

「からかわないでください、姉上」


 馬車はゆるやかに進み出す。

 過ぎ去る恋の香りとともに、王弟の胸にはようやく出口を見つけた想いが、すとんと落ち着いていた。




お読みくださりありがとうございます

三章はもう少し続きます

この後には少しのハプニングと甘々な展開が待っておりますので

ブックマークでお待ちいただけると嬉しいです!

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