アマリスの恋物語
オウル通りにある仕立て屋は一軒だけで、迷うまでもなく見つかった。
真紅のドレスを仕立ててくれた老爺はすでに引退していたが、店は息子たちが変わらず切り盛りしているらしい。
店の隅で鋏を研いでいた老爺は、フレッチェの顔を覚えていて、目を細めて歓待してくれた。婚礼衣装を作りたいと告げると、大喜びで巻尺を取り出した。
しばしラウルと別れ、フレッチェは採寸のために店の奥へ案内される。すると、隣の部屋から聞き覚えのある声がした。
気のせいかと耳を澄ませているうちに、声の主の姿はむしろはっきりと形を成していく。どうにも気になってしまい、フレッチェはそっと声をかけた。
「……エラ様?」
驚きも露わな「えっ」という声の後、採寸室にその人物はやって来た。
「フレッチェ! 思いがけず、あなたに会えるだなんて。わたくしたち、本当に縁があるんだわ!」
バークレイ伯爵令嬢――いまはロウェルの婚約者となったエラが、驚きと喜びを隠しきれない笑みを浮かべる。
「ドレスを仕立てに来たの? もしかして……特別な日に纏うものかしら」
「ええ、そのつもりで――エラ様は……」
ロウェルとの挙式を控えているが、婚礼衣装はバークレイ領の馴染みの店に頼んだと聞いている。
エラは少し恥ずかしそうに、私用で訪れたと答えた。
「先日、ロウェル様と観劇した舞台の衣装が、とても素晴らしかったの。刺繍やボタンの一つ一つまで、世界観へのこだわりを感じられてね。聞けば、こちらでデザインから請け負われているそうで、いろいろと拝見させていただいていたのよ」
物語を愛する、エラらしい余暇の過ごし方だ。フレッチェの心も和む。
「わたくしは、エラ様のお元気そうなお顔を見られて、嬉しいです」
「フレッチェも……と言いたいところだけれど――」
エラはきゅっと目を細め、眼鏡の奥から静かにフレッチェを覗き込んだ。
「特別なドレスをあつらえに来た女の子の顔じゃないわ。何かあった?」
友人思いの観察眼が、温かく語りかける。
洗いざらい吐き出して、すっきりしてしまうのも悪くない。しかし、幸せを目前にした彼女に、マルルの話を持ち出すのはどうにも気が引けた。
フレッチェはぐっとこらえて首を振る。
「少し難しい謎解きに頭を悩ませていて……」
そう言って誤魔化したまではよかったのだが、これにエラが思いのほか興味を持ってしまった。王弟殿下の話と悟られないように説明するのに、だいぶ骨が折れた。
「仮面で正体を隠して、婚約者に会いに行く――ね。似たような筋書きの小説を、以前読んだことがある気がするわ。確か……」
エラは記憶の本棚を探るように、遠くを見る。どこに栞を挟んだか、すぐには思い出せないようで、首を傾げた。
「フレッチェは、しばらく王都に滞在する予定?」
「ええ、当面は」
「それなら、思い当たる本が見つかったら、こちらからお知らせするわね」
「よろしいのですか? ありがとうございます」
※※※
それから数日して、王都屋敷にバークレイ伯爵家からの遣いが姿を見せた。絹布で丁寧に包まれた一冊の本と一緒に、手紙が差し出される。
「必ず、本を読了してからお読みくださいませ、とお嬢様からことづかっております」
「承知しました。」
フレッチェは逸る気を抑え、遣いの者を丁重に見送る。それからラウルの部屋を訪ねると、寄り添うように席を並べ、二人で一冊の本を広げた。
深緑色に金糸が縫い込まれた装丁が荘厳な雰囲気を醸し出す。
タイトルは擦り切れて読めないが、著者の名前がかすかに読み取れた。そこには小さく――アマリスと刻まれている。
「では……読みましょうか」
仮面の令嬢の真意を紐解く手助けになれば――と、かすかな期待に指先を震えさせながら、フレッチェはページをめくった。
◇◆◇◆◇◆◇◆
その本に綴られていたのは、語り部である少女の、一生に一度の恋の物語だった。
登場人物に名はなく、「わたし」「あなた」といった呼び方だけで進んでいく。
裕福な商家に生まれた少女「わたし」は、富を何より尊ぶ父に育てられた。彼の天秤の上で、人の命や心は軽いもの。娘すら、資産の一つに過ぎなかった。
少女は、美しくあること、立派に振る舞うこと――それが店の価値を底上げすると信じる父のもとで、飾りのように磨かれ続けた。
やがて、少女と大店の末子との婚約が決まると、父はたいそう喜んだ。少女が男に褒められたのは、そのただ一度きりだった。
少女の心は、いつも飢えていた。
身を飾る煌びやかな宝飾よりも、揺るぎのない愛――ただそれだけが欲しい。
だが少女は、それを口にしてはいけないと、心を戒めていた。自分が他人より恵まれていることを、知っていたからだ。
やがて、成人を迎える頃。
父の荒々しい商いの陰で苦しむ、使用人や店子たちの声を耳にした時、少女は自分に与えられた豊かさの代償を知った。
父のやり方では、いずれ店は傾く。そう悟った少女は、ある決意を固めた。
強欲と呼ばれても、裏切り者と罵られてもいい。当主の座を我がものにし、父の過ちを正していこう、と――。
そして、彼女が歩む暗い道に、婚約者とその家族を巻き込みはしないと決めた。
婚約を破棄しよう。
だがその前に一度だけ、少女は見知らぬ「あなた」の姿を確かめたくなった。
仮面で顔を隠し、彼の店へ忍び込む。
遠くから目にできればいいと思っていたが、彼は視線に気付くと、優しく手を取って微笑みかけてくれた。
少女は初めて、値踏みされるのではなく、自分の心の内を見つめてもらえたように感じた。
家に戻り、仮面を外した途端、少女の目から涙が溢れた。あの手の温もりを知ってしまった自分を、悔いた。
会いに行かなければよかった――そう思うほどに、恋は鮮烈な痛みを覚えさせる。
それでも少女は、震える指先で婚約破棄の書状をしたためる。初恋を手放しても、彼の未来だけは守りたかった。
だが運命は、少女の覚悟より一歩早く動き出す。
手紙が届くより先に、彼が少女のもとを訪ねて来たのである。
少女の顔を見た瞬間、彼はすべてを悟った。
少女が背負おうとした罪も、仮面に隠した涙も――。
そして、少女の罪をともに背負うと告げた。
その瞬間、少女は無償の愛を手に入れたのだった。
「わたし」と「あなた」は手を取り、父の築いた歪みを打ち壊すと、新しい店をいちから築き上げた。
罪も喜びも、すべてを二人で分かち合いながら、末永く幸せに暮らしたという。
◇◆◇◆◇◆◇◆
本を閉じたところから、ため息のような空気が抜け落ちた。
「確かに……似ているシチュエーションかもしれませんね」
「ああ。しかし、現実では二人は結ばれていないし……サリーマの真意は定かではない」
物語は物語だ、と呟き、ラウルは結論を出せない自分が不甲斐なさそうに眉をしかめた。
フレッチェも、気にかけてくれたエラに申し訳が立たない。
「そうだわ。エラ様からのお手紙……」
本を読み終えたら広げるように言われていたのを思い出し、フレッチェは手紙を手に取る。
かすかに針葉樹の香りを纏ったエラの文字が、穏やかに語りかけてきた。
※※※
――あなたはこの物語をどう読み解いたかしら。
――アマリスの著書は多数あるけれど、恋愛小説はこの処女作だけ。それだけ特別な意味が込められているのかもしれないわね。
――若さゆえの未熟な筆致も目立つわ。けれど、眩しいくらいの純粋さに、胸を打たれる物語でしょう? ヒルダガルデ帝国では歌劇になるほどの人気だそうよ。
――そんな名著なのに、我が国レーヴェリアと熱砂の大陸では、出版を許されていないのは、なぜかしらね。(この本も以前に人からいただいたものよ)
――謎解きで頭を悩ませているあなたに、余計な謎を増やしてしまったかしら。
――でもね、フレッチェ。
――あなたが探している答えは、「アマリス」を紐解いたら分かるはずよ。
――そして、最後に……この物語のタイトルは『一夜の夢』。あなたなら、きっと答えが見つかるわ。
――追伸。わたくしには、物語の感想だけ教えてちょうだい。それでは、また近い日に。
※※※
エラの手紙を受け、二人は改めて本を開いた。
声に出して読みながら、ラウルはいくつかの文章を紙に書き写していく。
「意識して読んでみると、所々言い回しが独特な部分がある。ほら、ここだ」
「本当ですね。綴り違い……ではなさそうです。訛りでしょうか」
それらに注目してみると、砂漠地方特有の表記が目立った。さらに――。
「フレッチェ。これを見てくれ」
ラウルが寄越した紙には、綴りの一つ一つを確かめるように大きく、アマリスの名が書かれていた。
「アマリスを紐解くとは、こういうことではないか?」
彼の指先が文字を拾いながら、並べ替えていく。
Amaris → marisA → misarA → mrAsai → mrsaiA→ sirAma → sAmari → sAmira……
綴りを入れ替えるだけで、いくつもの人名が浮かび上がった。そして……その中の一つに、彼女の名があった。
…… → sArima
「サ――っ……」
イシュカリムの女王サリーマ。
フレッチェは息と一緒にその名を飲み込む。
ラウルは静かに立ち上がると、「確かめたいことがある」と告げて、屋敷を出ていった。
空の色が茜色に変わり始めた頃、ラウルは分厚い書物を抱えて戻ってきた。国立資料館の所蔵印が捺されている。
「近年史を確認してきた」
机に広げられた資料には、前イシュカリム王の病死による退位、それに次ぐサリーマの即位の事実が記されている。それらは、現レーヴェリア国王の即位式と、ほぼ同時期に起きたことを示していた。
「筆致に残されたイシュカリム訛りと、アマリスに隠された名前、小説にある商家を国家と捉えるなら……。現実と時期は前後するが、これらが示すものは……」
サリーマが、実の父を弑して女王の座に就いたこと。婚約破棄の裏に潜めた、グレドルウィンへの想い――。
「アマリスこそが仮面の下の素顔……そう考えるのは、こじつけが過ぎるだろうか?」
「いえ、わたしもそう思います。エラ様はきっと、このことを仰っていたんだわ……」
おそらくエラは、本を探して読み返すうちに、この事実に行き着いた。そして、気付いた上で知らぬふりを貫きながら、国の秘事を明かそうとしているフレッチェに、そっと道を示してくれている。
『物語の感想だけ教えて』
エラは何も知らないし、聞いていない。謎解きの答えをどうするかは、フレッチェに託す――それが追伸に込められた思いだった。
「……エラ様には、本当に頭が上がりません」
とても素晴らしい物語だった。そう伝えて、いつかエラと一緒に、件の歌劇を観にいけたらいいとフレッチェは願った。
「仮面のご令嬢は見つかりましたが……、王弟殿下にはどのようにお伝えするのですか?」
関わった者が皆、サリーマと口裏を合わせて、グレドルウィンに真実を隠した。彼の明るい未来を望んでそうしたことが、二十年間も後悔に縛り付けることになるとは、思わなかったのだろう。
ラウルもまた、叔父を苦悩から解放したい思いで、香りを追いかけたつもりだったが。暴いてはならないものが目の前にある。
「『一夜の夢』……サリーマは、叶わない願いを空想の世界に閉じ込めた。この物語は、届くことのない叔父上への恋文だ。僕たちが触れていいものではない」
「ええ、その通りです……」
「叔父上のご依頼には……香りで答えよう。僕たちにできるのは、それくらいだ」
ラウルの祈るような声に、フレッチェはそっと頷き、アマリスの綴った恋物語を閉じた。
※※※
調査結果が出た。
ラウルからの報せを受けたグレドルウィンは、居ても立っても居られず、ロゼクォット家へと馬を急がせた。
こうなることを見越していたラウルは、然るべき準備をすでに整えていた。
応接間の空気が張り詰める。
「うまく行くといいのですが……」
「大丈夫。君から預かった心が、必ず応えてくれるさ」
ラウルが掌の中のものを大切に包み込む。
フレッチェも祈りを込めて、彼に手を重ねた。




