策謀の気配
フレッチェは息を呑み、思わず辺りを見回した。声を抑えようと努めるも、驚きは隠しきれていない。
「ラウル様は、王弟殿下がお探しの女性が、その女王陛下だと仰るのですか……?」
「香水瓶の蓋を開いて、真っ先に思い浮かんだのがこの香りだった。実際に嗅いでみて、仮面の女性がサリーマ女王である可能性は限りなく高いとも思った……ただ」
ラウルは言葉を切り、表情を曇らせた。
「確信を強めるほどに、腑に落ちなくなってくる。……二十年前、叔父上と婚約関係にあったのもまた、当時はイシュカリムの王女だった彼女なんだ」
「ま、待ってください。ラウル様のご推測ですと、仮面のご令嬢と元婚約者様は同じ人物で……え?」
グレドルウィンが仮面の令嬢に出会い、恋に落ちたほんの数日後、婚約は取り消された。
それを陰謀かもしれないと、グレドルウィンは疑ってもいたのだが――。
「サリーマ様ご自身が王弟殿下にお会いしたことで、何らかのお心変わりをされて、婚約を破棄された……ということでしょうか?」
「僕は、叔父上の憂いが晴れるのなら、香りの行方を探したいと思った。しかし、この答えは叔父上をかえって苦しめてしまうのかもしれない」
「当時のことをご存知の方に、お話を伺えたらいいのですが……」
仮面の令嬢については、誰もが「見なかった」「知らない」と口を揃えたという。その事実が今になって、二人の前に壁のように立ち塞がる。そこに作為がないとは思えなかった。
どうしたものかと二人で顔を見合わせて立ち止まっていると――。
「レチェ姉様ではございませんか?」
澄んだ声が、往来に響いた。
声の在処を探し辺りを見回すと、声は弾むようになって近づいてくる。
「わぁ、やっぱり! レチェ姉様!」
右に左にと、元気いっぱいに手を振って駆けてくる小さな子は、フレッチェの異母弟のオーレンだ。
身に纏ったよそ行きの上着は、ボタンがすべてきちんと留められている。そのかっちりした着こなしも、オーレンの人懐っこい笑顔が、不思議と柔らかな雰囲気に仕立ててしまう。
そんなお日様のような笑みを、オーレンはフレッチェの前で弾けさせた。
「とってもお綺麗になられて、声を掛けるのを迷ってしまいました!」
「まぁ、お上手になったわね。どこでお勉強してきたのかしら」
「レチェ姉様には、お教えしてもいいですよ。毎朝、新聞配達に来るお兄さんです」
「まぁ! ……お義母様には絶対に内緒ね」
フレッチェが言うと、オーレンは悪戯っぽく歯を覗かせて、人差し指を立てた。
アイリーンの目を盗んでは、裏山を駆け回っていた小さな後ろ姿を思い出し、フレッチェは小さく吹き出す。
心が温かくなるような再会だった。
しかし、再会を嬉しく思う一方で、フレッチェの視線はどうしても彼が走ってきたほうへ向かう。
まだ七つばかりの彼が、一人で王都にいるはずがない。
今に、甲高い声が聞こえてくる予感がしていた。
ほどなく、予感は的中する。
「オーレン! 急に走り出して、いったいどうしたというの!」
甲高い声が、通りに割れるように響いた。
もう見つかっちゃった、とオーレンが悪戯っぽく舌を出す。
息を切らして現れたアイリーンは、フレッチェを見るなり、あからさまに眉をしかめた。後ろには、いつぞやの真紅のドレスを纏ったマルルもいる。
その出立ちにいまだ胸がざらつくフレッチェだが、久しぶりに顔を合わせる義妹には、鼻のほうも敏感になっていた。
(香り……思っていたより薄まっていて安心したわ)
香水の重ね付けのせいで、行く先々で人々を辟易させたマルルは、さすがに気付いたらしい。控えめに香らせる程度に落ち着いたようだ。
それでも、ラウルの鼻にはきついようで、マルルの風下に立つのをさりげなく避けている。
早々にこの場を去りたくて、フレッチェが笑顔を取り繕うのを、アイリーンは見逃さない。お互いに話などしたくないはずなのに、すました顔でわざわざ歩み寄ってきた。
「フレッチェ、随分ご無沙汰じゃないの。新居に移ったそうだけれど、我が家に招待状が届くのはいつになるのかしら?」
一見にこやかだが、刺々しい言葉は相変わらずだ。
フレッチェは落ち着いて、丁寧に微笑みを返す。
「不義理をして申し訳ございません。何分、不慣れなことばかりで。……それにしても、お揃いで王都へとは珍しいですね。何か大事なご用が?」
すると、アイリーンを遮って、オーレンが胸を張った。
「あのね、姉様。僕、王立学院へ編入できることになったんです! 今日は宿舎利用の説明会に出席して参りました」
「まぁっ、そうだったの。狭き門だと聞いているわ。すごいわ、オーレン。頑張ったのね」
オーレンは照れながらも誇らしげに笑って、ちらりとラウルのほうを見る。
「ラウル殿のように立派に学問を修めて、大公領を足元から支えられる領主になりたいんです!」
オーレンの真っ直ぐな瞳に、フレッチェはシェバー家の未来を明るく臨むことができた。
だがその一方で、気になることもあった。
(王立学院に編入して寄宿まで……そんな資金をどうやって?)
余計な詮索はよそうと、フレッチェは視線を伏せかけるも、ふとマルルのドレスが目に留まってしまった。
腰回りに縫い付けられていたはずの、希少な虹色蝶の繭が見当たらない。
虫嫌いなマルルのことだ。ロゼクォット家の夜会の後で、汚らわしいと取り除いたのだろう。しかし、その後は――?
金を生む繭を、アイリーンが棄てるはずもない。
フレッチェの胸に、ぎりぎりと締め付けられるような痛みが走った。しかし、オーレンの無垢な笑顔に、泥を塗るようなことはしたくない。
ぐっとこらえていると、ラウルがフレッチェの手をそっと取った。
「レッテ、そろそろ行こう。寄りたい所ができた」
「え、ええ――」
手短かに挨拶を済ませると、ラウルはすぐに歩き出す。
「あの、どちらに?」
「仕立て屋さ。ご両親の想いには敵わないかもしれないが、君のための一着を、僕からも贈りたくなった」
彼の瞳には温かさと、少しの怒りが同居する。彼も、真紅のドレスから欠けたものに気付いていたようだ。
「それを着て神官の前に立ち、改めて僕と永遠の愛を誓ってほしい」
温かな声に、胸を締め付けた痛みがほどけていく。彼の言葉は、ドレスよりも嬉しい、何よりの贈り物だ。フレッチェは噛み締めるように、ゆっくりと頷いた。
「わぁ……素敵だなぁ」
仲睦まじい二人の姿を、オーレンはうっとりと眺めていたが、アイリーンは鼻で笑って背を向ける。息子の手を握ると、対抗するように踵を返した。
マルルも後に続きながら、何度も通りを振り返る。その口許は嫉妬で引きつり、醜く歪んだ。
少し前まで、みすぼらしい虫ケラだったくせに――! 腹の奥で黒い感情が煮え返る。
桃花蜜の髪が人混みの中でも鮮やかに輝くのを、恨めしく睨み据えていると、目の前をふいに小さな影が横切った。
薄汚れた衣服を纏った子供が、果物の入った籠を抱えて駆けていく。慌てて走るせいで、籠からいくつも実がこぼれ落ちるが、子供は気にせず走り続ける。角を曲がると、ゴミ箱の中に潜り込んだ。
落ちた実よりも気にしているのは、後ろから追いかけてくる声のようだ。
「泥棒! どこへ行きやがった!」
商店の前掛けを付けた男が、悪態をつきながら通り過ぎていった。
ゴミ箱の蓋を少しだけ押し上げて、子供は息を潜めながら辺りをうかがっている。彼と目が合った瞬間、マルルはいいことを思いついた。
「ねぇ、坊や。その果物、おいしくいただきたいと思わない――?」
逃げようとする子供に、拾った果実を差し出して、マルルは優しく微笑みかけた。




