仮面の下に隠した素顔
翌日、ラウルが向かったのは、会員制の高級香水店だった。
半個室状に仕切られたカウンターでは、顧客一人一人に担当者がついて、丁寧な接客がされている。
既存の香水から、顧客の好みに応じた商品を提案するのはもちろん、国外から希少な香水を取り寄せたりもしているそうだ。
カウンターの後ろには、鍵付きのガラス棚がはめ込まれ、瓶だけでも価値が高そうな香水が並ぶ。
意匠を凝らした瓶たちが、手に取る者を品定めするかのように、高みから店内を見下ろしていた。
ラウルが目当ての香水の試香を頼むと、店の者は恭しく一礼して、硝子棚へ向かう。
フレッチェは格調高い店の雰囲気に緊張してしまい、お人形のような笑顔を貼り付けて、じっと待つばかりだ。
暖かな店内には、ほのかに良い香りが漂い、少しずつ心を落ち着けてくれた。試香の邪魔にならない程度のさりげない香りで、日ごと違う香りを楽しめるのだそうだ。
「お待たせいたしました」
コトン――と静かながらも、重々しい音が響く。
二人の前には、葡萄を模した琥珀色の瓶が置かれていた。葡萄がそのまま宝石になったかのように、一粒一粒が輝きを放つ。
接客係が、液体を吸い上げる器具を瓶の口に挿し入れる。うっすら琥珀色をした雫が、試香紙に落とされた。
ふわり……と立ち上った最初の香りに、フレッチェは時間が引き戻されたような錯覚を覚えた。
昨夜嗅いだ香りとよく似ている――。
思わずラウルを見上げると、視線の先で彼も頷いていた。
ラウルと同じ感覚を得られたことにフレッチェは胸が高鳴るとともに、彼の鼻の良さにも改めて感嘆した。
だが、その感動はほんの一瞬だった。
香りは手のひらを返すように、フレッチェの鼻先で別の顔を見せ始めたのだ。
瑞々しさを帯びた白葡萄の爽やかさは、たちまち溶けて、ゆるやかにうねるような甘さが立ち上る――。
フレッチェの驚いた顔を、接客係は香りへの感嘆と受け取ったらしい。にこやかに説明が添えられる。
「いかがでしょうか。第一印象の瑞々しさが弾けた後に、濃醇な甘みと温かな香辛料の余韻が広がってまいりますでしょう? 異国の夜風を思わせる、イシュカリム産の名品でございます」
ラウルは神妙に頷いた。
けれどフレッチェの心は、追いつけずに混乱したままだ。
(最初は同じ香りだと思ったのに……)
昨夜、王弟の香水瓶に閉じ込められていたのは、甘やかだが軽やかで澄んだ香りだった。
グラスの中で淡い泡が弾けるように、胸をそっと浮かせる、可憐なときめきが閉じ込められていた。
だが、いま目の前で花開いているのは、全く別の姿である。
甘さが幾層も重なり、深い酔いを誘う。
それはもう、瑞々しさとは真逆の――円熟した女性が纏う、妖艶で揺るぎない香りと言えた。
ラウルはこの違いを前にしても、自身の胸にある確信に、揺らぎはない様子だった。
にわかに不安も入り混じり始めたフレッチェの隣で、彼は落ち着いた声で交渉を続ける。
「こちらを一瓶いただこう。それから……、早摘みの葡萄の香りも試させてほしい」
「ありがとうございます。ただ、そちらは非売品となりますが」
「構わない。見聞を広めたいんだ」
「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」
早摘みの葡萄――その意味深な響きが、フレッチェの耳の奥に静かに残る。
どんな香りが姿を見せるのか。
胸のざわめきを押さえきれないまま、接客係の戻りを待った。
新たに差し出された試香紙をそっと鼻先へ寄せた瞬間、フレッチェの胸の奥がかすかに震えた。
揺れる青銅色のドレス、妖しげな仮面の奥に瞬く澄んだ瞳――グレドルウィンが恋に落ちた情景が、香りを纏って目の前に現れたようだった。
まさしく、王弟の香水瓶から溢れた香りに違いなかった。
隣を見ると、ラウルは静かに頷き、店の者に礼を述べていた。その横顔には、一つの点と点が結びついた者だけが浮かべる、ごく小さな確信の色がある。
問いただしたい言葉が、フレッチェの喉の奥でせり上がる。しかし、この場ではさすがに憚られ、店を出るのをじっと待った。
※※※
先の品を包んでもらい、支配人に恭しく送り出されて二人は店を後にした。
人通りが落ち着いたところで、フレッチェは抑えていた言葉をようやく口にできた。
「本当にお試しになりたかったのは……〈早摘みの葡萄〉のほうだったのですね?」
ラウルは目を細めて頷く。フレッチェの嗅覚が研ぎ澄まされ、同じ景色を隣で捉えようとしてくれているのが嬉しい――そんな表情をしていた。
彼の手には、金貨二枚分の重さが詰まった小箱がある。その表面を、ラウルは思案を込めるように親指でゆっくりと撫でた。
「これは〈一房の葡萄〉というシリーズの現行品で、先程嗅いだ〈早摘みの葡萄〉はその一作目だ。すでに廃盤になっている」
「では、その流通時期などから、購入者をお調べになるおつもりで? お店の方は、イシュカリム産と仰っていましたが――」
イシュカリムは、レーヴェリアとは内海を隔てた対岸に位置する。〈流砂の大陸〉とも呼ばれる広大な砂漠地帯の、入り口にあたる国だ。
商人と旅人が絶えず往来する東西交易の要所で、古来より商業の中心地として栄えてきた。
反面、人の出入りの激しさは、しばしば内乱や政変の種を生み、不安定な国情を嘆く声も聞こえてくる。
フレッチェはふと、昨日 目にした白露院の炊き出しの光景を思い出した。そこにいた浮浪者の中にも、流砂の国から来たと思われる者らがいた。レーヴェリア人との顕著な違いは、肌の色だ。
「そういえば……、王弟殿下がお探しの仮面のご令嬢も、黄褐色の肌をしていたと申されていましたね。流砂の大陸では、身近な香水なのですか?」
「――いや、あちらでは寧ろ敬遠される香りだ」
「こんなに良い香りなのにですか?」
ラウルはその問いには答えず、〈一房の葡萄〉の価値について言及した。
「これは、ある女性が自分のために作らせた香水で、年齢に合わせて調合を変えさせた結果、シリーズが生まれたんだ。〈早摘み〉は彼女が十代の頃に纏っていた香りと言われていて、市場には一年ほどしか出回らなかった希少品さ」
「では、購入者は限られているはずですね」
フレッチェが期待に目を輝かせる。しかし、ラウルは静かに首を振った。
「だとしても、流砂の大陸の民は、この香りを纏わない。彼女の香りを纏っていいのは、彼女ただ一人だと敬われている」
「それは……どなたなのですか?」
もう答えはすぐそこにある。
鼻腔に残る葡萄の香りが、仮面の影を洗い流そうと鮮やかに匂い立った。
ラウルが息を整えて口を開く。彼の静かな声は、王都のざわめきを、どこか遠くへ押しやるように重々しい。
「〈一房の葡萄〉は別名〈女王の雫〉――この香水を作らせたのは……」
フレッチェの鼓動は跳ね、喉がごくりと鳴った。
「イシュカリムの女王サリーマ、その人だ」




