二人で見つけよう
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王都屋敷に戻ると、ラウルのほうが先に帰ってきていた。
王弟グレドルウィンとの面会がつつがなく済んだことを聞いて、セラフィーヌはほっと胸を撫で下ろす。その上で、レンジュの縁談が白紙に戻りそうなことには、肩を落としていた。
その晩、フレッチェは王都観光で見たもの、セラフィーヌから告げられたことを、ラウルに伝えた。
「そうか、母上がそのようなことを――」
ラウルはしばし考え込んだ後で、
「叔父上からのご依頼の件は、黙っていて正解だったかもしれないな」
そう呟き、少し大きめの香水瓶を取り出した。
「叔父上から、香りを手がかりに、人を探してほしいと頼まれた。母上の耳に入れば、ますます貴族階級に肩入れすることになると、反対されるだろうからな」
「では、王弟殿下のご依頼をお引き受けなさるのですか?」
「僕たちは、一人一人の心に寄り添う香りを求めるんだろう? あのように沈んだ顔で香水瓶を眺められている叔父上を、僕は放ってはおけない」
フレッチェは、ラウルの決断を支えるように、彼の手にそっと手を重ねた。
「王弟殿下のお探しの人物とは、どのような方なのですか?」
「叔父上からは、このように伺っている」
出会いは二十年前――。
新王の即位を祝うため、王城では連夜、絢爛たる舞踏会が続いていた。
そのざわめきの中で、王弟グレドルウィンはひときわ目を引く一人の女性と出会った。
青銅色のドレスからしなやかに伸びた黄褐色の手足と、豊かに波打つ黒髪が腰まで流れ落ちる後ろ姿に、思わず声をかけずにはいられなかった――と。グレドルウィンは目を細めながら、ラウルに語り聞かせたという。
「さぞ、お美しい方だったのでしょうね」
「しかし、叔父はその女性の素顔を知らないそうだ」
「え――どういうことでしょう……」
グレドルウィンの声に振り返った令嬢の相貌は、仮面に覆われていたのだ。
だが、その仮面越しの澄んだ瞳に、グレドルウィンは彼女の心の美しさを垣間見た。そして、二人の視線が交わった瞬間、互いに恋に落ちたのを確信した――。
令嬢は名乗りさえしなかったが、それさえ気にならないほど、語り合う時はあっという間に過ぎ去ったという。
やがて夜会の終わりが告げられ、名を問わなければ再び会う機会は永遠に失われると分かっていながら――グレドルウィンは、名を尋ねることも、自らの想いを口にすることもできなかった。
フレッチェが、悲しげに問いかける。
「なぜでしょうか」
「その時、叔父上には婚約者がいらっしゃったそうだ」
翌年には、他国の王女のもとへ夫として迎えられる予定だった。
一度も会ったことのない婚約者に愛情などあるはずもなく、名前もろくに覚えていないくらいだ。同じように、顔も名前も知らない仮面の令嬢にこれほど心を動かされたのを、運命と感じるのは当然のことだった。
それでも、国と国の約定を軽んじるほど、彼は無責任ではなかった。
初恋の温もりは胸の奥にしまい込み、これまで通り王族として生きていくと決意し、彼女を追うのを諦めたのだ。
ところが――。
その矢先、運命は残酷な悪戯を仕掛ける。
「仮面の令嬢と別れて、数日後――叔父上は突然、婚約を破棄されたんだ」
王女は程なくして別の男と結ばれたことを、何事もなかったかのように報せてきたそうだ。
王女の非礼には腹も立ったが、若きグレドルウィンはそれ以上に安堵した。彼の恋を戒めるものは、なくなったのだ。
彼は遅ればせながら、仮面の令嬢の捜索を始める。
しかし、舞踏会の参加者は、誰も彼も首を傾げるばかりだった。素性どころか、その姿さえ目にしていないという。
グレドルウィンだけが見た夢か幻のように、彼女は影も形もなく、すべての者の記憶から消えてしまったのだった。
「そんなことが、起こりますか?」
フレッチェと同じ言葉を、ラウルは叔父の口からも聞いたばかりだ。
あまりの不自然さに、当時のグレドルウィンは、胸の内で一つの可能性を疑ったという。
『まるで、婚約者への忠誠を試されたようだった。わたしが彼女に惹かれたのを知って、王女は婚約破棄へ踏み切ったのではないか』
誰かが仮面の令嬢を仕立て、まやかしの恋心を植え付けられたのかもしれない。そんな苦い予感を口にした時、王弟はラウルの前で自嘲するように唇を歪めた。
どうせこんなことになるのなら、あの夜に想いを告げていればよかった――。後悔を引きずったまま、グレドルウィンは現在も独り身のままだ。
叶うならば、もう一度彼女に会って、あの日の想いに終止符を打ちたいと、恥を忍んで甥のラウルに打ち明けたのだった。
「顔も名前もわからない、誰も見ていないという幻のような女性を……探し出せるでしょうか」
「少なくとも叔父上は、生身の人間だと確信しているから、僕にすがったんだろう。幻や幽鬼が、香りを残すはずがないとね」
ラウルが手にする香水瓶を、改めて見つめたフレッチェは首を傾げる。
「そちらの香水瓶は……ラウル様がお持ちのものと、同じ方の作ではありませんか?」
「よく気付いたね。さすがはレッテだ。これも僕が譲り受けたものも、国王陛下がお若い頃、ご身内に贈られたものそうだ」
それまで瓶の底など気にも留めたことがなかったフレッチェは、首飾りを外してシェリーの香水瓶をひっくり返した。もしかしたら、贈り主の名前などが刻まれているものかと、期待したが――。
何もなかった。もちろん、王弟の香水瓶と同じ通し番号などあるはずもなく、綺麗に平らな底面が光を弾いただけだった。
だからといって、フレッチェにとっての価値が変わるわけではない。世界に一つだけしかない、母が遺した幸せの宝箱だ。
「わたしも、香りを試してもいいですか?」
ラウルは待っていたと言うように頷いて、蓋をフレッチェの眼前で外した。
瓶の口から真っ先に飛び出したのは、軽やかな甘い香りだ。甘ったるさはなく、瑞々しい果実感と透明感が弾ける。
フレッチェの脳裏には、初めての白ワインに頬を赤らめる令嬢の姿が、ふわっと浮かんだ。
「叔父上はこの香りを確かめながら、記憶とは少し違うかもしれないと仰っていた。実際には、もっと華やかで、眩しさに目が眩むような高揚を覚えたらしい」
「きっと……王弟殿下が、強いときめきを感じていらしたからでしょう」
初恋の鮮やかなときめきを、フレッチェは今まさに身をもって体験中だ。
二十年越しの想いを閉じ込めた香水瓶は、埃もかぶらず、繊細な彫り込みまで磨き上げられている。王弟の想いの深さが、そこに現れていた。
「見つけて差し上げたいですね」
切なげに微笑むフレッチェの肩に、ラウルはそっと腕を回す。
「今日は、母上に独占されてしまったからな。明日は僕に付き合ってくれ。ある香水を確かめに行きたいんだ」
「もちろんです」
フレッチェの快諾を受けて、どこか強張っていたラウルの表情がふわりと緩んだ。王城への呼び出しは、彼でも気が張っていたに違いない。
フレッチェは胸のあたりが、ほわっと温かくなるのを感じながら、今夜は早めに休むようラウルに声をかけた。




