王弟殿下のお呼び出し
朝の城は、冷たい石畳まで磨き上げられたように静かだった。貴人たちの一日は、昼から始まる。多くの者が、まだ夢の中にいる時間だった。
王弟グレドルウィンの御所は、騎士団の宿舎が見下ろせる場所にある。案内役の侍従が扉を開けると、グレドルウィンはまさに、騎士らが交差する馬場を眺めているところだった。
黒に近い濃紺のマント、肩には獅子の留め具――優雅さの奥に数多の騎士を束ねる威厳が滲む背に、ラウルは臆せず声をかけた。
「ラウル・ロゼクォット、参上いたしました」
「久しいな、ラウル。君の成人祝い以来だから、四年ぶりか」
グレドルウィンは、親しみ深い微笑みで振り返った。
向かい合った二人は、目鼻立ちや顎の辺りがよく似ている。少し前までセラフィーヌは、王弟を見ればラウルの十数年後の姿が見える――などと揶揄したものだ。
しかし、グレドルウィンの持つ静かな風格は、ラウルにはないものである。朝日の眩しさを背負いながらも、どこか憂いを感じさせる涼やかな目許は、三十半ばという年齢を少し高く見積もらせた。
「まずは婚約おめでとう。今日は、婚約者殿は一緒ではないのか?」
「ええ、もちろん。本日、殿下から声がかかったのは僕ですからね。慎ましい彼女は今頃、母の話し相手になってくれているのではないかと。ご紹介は、然るべき時にいたしましょう」
「セラフィーヌが気に入っていらっしゃるのなら、何も心配はなさそうだ。ラウルにロウェルと、めでたいことが続いてロゼクォット家は安泰だな」
そこまで言うと、グレドルウィンは目許の影を濃くした。
ラウルに席を勧め、自らも着席するが、なかなか本題を切り出せずにいる。痺れを切らしたラウルは、ずばり言い放つ。
「叔父上。正直に申し上げると、僕は一秒でも早く彼女のもとに帰りたい。お話は手短に願います」
「まったく、手厳しいな。……わかった、では単刀直入に言う。惚れ薬の類を作ろうとしているのなら、やめてくれ」
ぴんと来ていない様子の甥に、王弟は困ったように眉を寄せる。
「レンジュから、見合いの話は聞いたな?」
「ええ、伺いました」
「わたしが余計な気を回したのがいけなかった。どう考えても、レンジュはわたしに気を遣って彼女と会っている様子だったのに。休暇から戻った途端、どこか吹っ切れた様子で縁談を進めてほしいと言い出すから、何があったのか問いただしたんだ」
結果、惚れ薬の開発をラウルに頼み、それを自分に使って相手の女性を好きになろうとしていることが発覚した。
「愚か者め、それこそ相手に失礼ではないか」
グレドルウィンは拳を握りしめる。骨が軋みを上げるほど、強い怒りが込められていた。しかしそれは、レンジュにではなく自分自身への苛立ちだった。
「しかし、本当に愚かなのはわたしだ。薬に縋りたくなるほど、レンジュを追い詰めてしまった……。まやかしで手に入れた恋心など、誰も幸せにならないと知っているのは、誰よりもわたし自身のはずなのに――」
憂いを帯びた視線が、棚の端に置かれた香水瓶へ向かう。ラウルがセラフィーヌから受け継いだものと意匠が似ているが、それよりも一回り大きい。
香りのこととなると途端に食指の動くラウルは、当然見過ごさなかった。
「そちらは魔法の香水瓶では?」
「ああ、さすが目ざといな」
「母から、似た品を譲り受けました」
「ああ、それならきっと同じものだ。瓶底をひっくり返してみるといい。きっと同じ通し番号がある」
グレドルウィンは棚から香水瓶を持ち出す。目の前で見せてくれた瓶の底には、「001/003」と番号が刻まれている。
「わたしは幼かったので覚えてはいないが、 陛下が王太子だった当時に、成人を記念して、数人の身内に贈ったものだそうだ。わたしも、これは母から受け継いだ」
「そちらには、どのような思い出が詰まっているのですか?」
ラウルの率直な問いに答えたくなければ、嘘をついてもよかった。しかしグレドルウィンは、それができる性格ではなかった。
言い淀みながらも――しかし心のどこかでは、誰かに聞いてほしかったかのように、落ち着いた声で語る。
そしてすべてを語った後、彼はラウルに頭を下げた。
「鼻の利く君にしか頼めない。この香りを纏っていたひとを、探し出してくれないか。わたしの罪深い初恋に、答えが欲しいんだ――」
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「まぁ、フレッチェ! わたくしの思った通り、素敵に着こなせているわ!」
ドレスの試着を終えてフレッチェが帷を開けると、セラフィーヌの喝采が迎えてくれた。
「あなたは腰が細いから、傘のようにふわりと広がったスカートがよく似合うわね! こちらもいただきましょう」
「奥様、わたくしには贅沢すぎます」
ラウルがグレドルウィンと会っている間、王都に構えたロゼクォット家の別邸で時間を潰すのは退屈だろうと、セラフィーヌが街へ連れ出してくれたのだが――。
衣料品店に入った途端、セラフィーヌはフレッチェを、着せ替え人形のように着飾るのに夢中になった。
すでに五着のドレスが、持ち帰り用の包装に回されている。フレッチェの目玉が飛び出しそうな値段のドレスが、これでもう六着目だ。
フレッチェがどんなに遠慮しても、セラフィーヌは財布の紐を締めてくれない。むしろ遠慮するほどに、甘やかそうとしている気配すらあった。
「奥様だなんて寂しいじゃないの、フレッチェ。本当のお母様に敵わないのは承知だけれど、わたくしのことはもっと近くに感じてちょうだい。母代わりになれないのなら、伯母のようなものでもいいのよ?」
「そんなっ……滅相もございません」
「お願いよ。わたくし、娘とこんなふうにお買い物するのが夢だったの。だけど、我が家は男の子ばかりでしょう?」
セラフィーヌは、ありし日を振り返るように遠くを眺める。思い思いに王都のあちこちへ散っていく少年たちの背中を追い疲れたのか、くたびれた息を吐いた。しかしその目許に刻まれた笑い皺が、温かな思い出を物語る。
「末っ子のフィンリーだけは、わたくしのお買い物に付き合ってくれるけど、ドレスは買ってあげられないものね。だから今、あなたとこうしている時間がとても楽しいのよ」
セラフィーヌは気さくに、ぱちりと片目を閉じる。何も言わずに付き合って、とねだるかのようだ。
フレッチェもそれ以上は言わず、素直に彼女の魅了の魔法にかけられることにした。
ついでだからと勧められ、小物類を眺めていた時だ。
フレッチェは、真紅のリボンに目を引かれた。マルルに奪われたドレスの色合いに似ていて、胸に込み上げるものがあったが、それを上塗りして浮かぶ顔がある。
手に取って、相手に似合うかどうか考えていると、セラフィーヌがにこにこと手を差し出した。
「そちらも一緒にお会計しましょう。気に入ったんでしょう?」
「はい、ですが……わたくしが使うのではなく、お土産にしたいのですが」
「あら、どなたに?」
「ええと……その……メーメーに」
こんな高級店の品を、子ヤギの首飾りにしたいなどと言ったら叱られてしまうのではないかと、フレッチェの声は小さい。
「とても付いてきたがっていたのに、お留守番させてしまって、可哀想なことをしました。別れ際のあの子、すごく怒っていたんです。だから、わたくしばかりおめかしするのは、メーメーに申し訳なくて……」
「おほほほほほ。なんて可愛らしいのかしら、あなたもメーメーも。お貸しなさい」
セラフィーヌはリボンを受け取ると、店員を呼びつけた。
「せっかくだから、名前の刺繍を入れてもらいましょう」
「ありがとうございます――お義母様!」
セラフィーヌは少しだけはにかみを見せた。
夢が叶った喜びでか、その微笑みはどこか少女のように可憐だ。
そして、フレッチェだけが知るラウルの優しい笑みとも、よく似ていた。
※※※
その後もフレッチェはセラフィーヌに連れられて、王都の賑やかな通りを一巡りした。
父を亡くしてから初めて訪れた王都は、ますます煌びやかさを増し、フレッチェを華やかな世界へと手招く。
大きな建物の中に、いくつもの店が並ぶ先進的な商館や、意匠を凝らして飾られた路面の市――すべてが目新しい。歩くだけで、フレッチェの胸は躍った。
夢中で目を輝かせていると、セラフィーヌが「見せたいものがある」と声を潜めた。そして、賑わう大通りから外れた路地へと導かれた。
通りの脇に拓けた場所があった。広場というよりは、ぽつりと空いた空き地のようである。
焚かれた火を囲み、子供も含む様々な肌の色をした人々が、肩を寄せ合って暖を取っていた。
強い風が吹くたびに、薄い上着をかき合わせ身をすくめる。春を間近にしながらもまだまだ寒いこの季節、屋外で過ごすには心許ない服装だ。
するとそこへ、白い衣に前掛けをつけた男女が現れ、彼らに暖かな毛布を手渡して回り始めた。
火のそばでは食事の支度も始まり、空き地はたちまち温かな湯気に煙り、人々の顔には血色と笑顔が戻り始めた。
白い衣の一団は、セラフィーヌに気が付くと、一斉に恭しく頭を下げた。
彼らはセラフィーヌが主宰する慈善団体――白露院の職員だ。
セラフィーヌは侍従にフレッチェを任せると、しばし炊き出しの輪に加わった。一人一人に微笑みかけ、特に子供たちへは輪をかけて優しく語りかける。
そうして戻ってきた彼女の表情には、微かな影が差していた。
フレッチェは自分が身につけた繊細な布地のドレスに触れて、重々しく口を開く。
「華やかな通りの真後ろに、支援を必要とする人々がこれだけいるのですね」
「――ええ。内戦の続く近隣の国から、逃れてきた方々もいるのだけれど……」
セラフィーヌは視線を火のほうへ向ける。
「ほとんどが、このレーヴェリア王国の民よ。豊かで穏やかに見える我が国でも、これだけの貧富の差が歴然と横たわっているの。昨年、白露院が王都で保護した母子だけでも、二百人を超えるわ。この数字が多いか少ないか……わたくしにも判断しがたいわね」
フレッチェは静かに頷く。胸の奥に、ひやりとした重さが落ちた。
セラフィーヌは悩ましげに、額を撫でる。
「保護施設はどこも、空きが出ればすぐに埋まってしまうような状態で、白露院は支部も含めて常に人手不足だわ」
「保護された方々が、施設から自立されることもあるのですよね?」
「ええ、もちろん。白露院では就労支援や職業訓練も行なっているわ。それでも出来ることには限りがあって、求められるまでの読み書きができなかったり……当然だけど偏見もね。なかなか道は険しいのよ」
ひゅう――と冷たい風が吹いて、セラフィーヌは襟巻きを口元に引き寄せた。
横顔が、ふっと陰を帯びる。胸の内で何かを決めたように、セラフィーヌはフレッチェに向き直った。
「香りを選んで身に纏えるのは、限られた人たちだけよ、フレッチェ」
セラフィーヌの声は穏やかなままだが、どこか現実の厳しさを含んで沈んでいた。
「あなたとラウルの婚姻を正しいものと周囲に示すために、香水作りを選ぶのは素敵なことだと思うわ。でも……贅沢品に関わるということは、その権利を持たない者から反感を買うこともあるかもしれない」
フレッチェは息を呑む。セラフィーヌは、それに気付いて、安心させるように微笑む。
「無理をして、香りにこだわらなくてもいいの。社会に貢献する方法は、たくさんあるのですからね。白露院だって、そうよ。いつでも、あなたの助けを待っているわ」
その言葉は、差し出された手のひらのように柔らかかった。フレッチェはセラフィーヌの思いを真摯に受け止め、深く頭を下げる。
ラウルとともに歩むと決めた道を、まだ一歩踏み出したばかりだ。その道行きが険しいからと、選択肢を閉じてしまうのは、どこか違う気がした。
まずはラウルと話したい――そのうえで、フレッチェは自分にできる形を探したいと思った。




