恋とはどんなものかしら
日付が変わって体力が底をつくまで、客室からは泣き声や怒号が漏れていた。
まなじりに眠気を残したまま、朝の支度を終えたフレッチェは、ラウルとともに階下へ向かう。
ふいに足を止めたラウルが足を止めた。階段の先に、鈍色の頭頂を晒すレンジュの姿があった。
「ラウル、フレッチェ! 昨日は醜態を晒し、迷惑をかけてすまなかった!」
股覗きでもするかのような体勢で、許しを得るまで頭を上げないつもりらしい。
ラウルはそばまで歩み寄って、小さく息を吐く。
「いつも言っているが、兄さんは弱いんだから、外で飲む時はエールを一杯までにするべきだ。昨日も三杯目からはほとんど飲めていなくて、胸元にこぼしてばかりだった」
「ああ……本当に面目ない」
レンジュはしょんぼりと肩を落とす。
フレッチェは呆気に取られて、昨日から目を丸くするばかりだ。
(たった二杯のエールで……あそこまで酔ってしまわれたの!?)
夜会での姿とかけ離れていて期待を裏切られたような、しかしどこか可愛げがあって胸をくすぐられるような、不思議な感覚だった。
すっかりしょげた様子の兄に、ラウルは最後に一つ大きな息を吐く。しかし、声音は思いのほか穏やかだった。
「いつも通りで、顔色も良くて安心した。食べられそうなら、一緒に朝食を食べよう。こっちだ」
「ラウル……お前ってやつは……! ありがとう!」
「……だが、兄さん。僕のレッテの手を、勝手に握ったことは許していないよ?」
途端に、ラウルの眼差しが鋭さと冷たさを宿し、レンジュは息を呑んだ。
「ひっ――! す、すまない……」
レンジュはフレッチェに向き直ると、改めて深く頭を下げる。
大きな体が、腰から半分に折り畳まれてしまったかのようだ。頭頂は床すれすれだが、体の軸はぴたりと止まってぶれない。
彼はその鍛え抜かれた体幹を遺憾なく振るい、全身で謝罪の意を示そうとしていた。
「フレッチェ。初めて顔を合わせたというのに、失礼をして本当に申し訳ない。昨夜の温かいスープは、あなたが作ってくれたそうだが、とても心に沁みた。ありがとう」
「いいえっ、どうか頭をお上げください。ラウル様のお兄様で、国にお仕えする騎士様のお身体を思えば、当然のことをしたまでです!」
レンジュはその言葉に、胸を激しく揺さぶられた。顔を上げた拍子に、大粒の涙がこぼれ、彼は天を仰ぐ。
「ラウル、よかったなぁ……。お前はこれから先、絶対に幸せになれる……。そして、絶対に彼女を手放すな。幸せにしてやれよ」
「言われるまでもないが?」
「あの……お二人とも、まだ酔ってらっしゃいますか?」
これ以上付き合っていたら、せっかくのパパスの料理が冷めてしまう。思わず、フレッチェの本音もこぼれてしまった。
自分から率先して食堂へ案内し、やっと食卓につくことができた。
※※※
ところが、席に着いてからもフレッチェは、どうにも落ち着かない。
レンジュの視線が、自分とラウルの間を行き来するように、頻繁に揺れているのだ。時折、フォークを持ったまま固まるほどだ。
(そんなに見られたら、食べているようじゃありません……)
ラウルの話では、昨日の外出中もレンジュは何か言いかけては飲み込んで、代わりにフレッチェとのなれそめや暮らしぶりを、妙に詳しく聞いてきたという。
そして、飲めない酒をあおっていたのだと――。
フレッチェは意を決して、口を開いた。
「あの……レンジュ様。差し出がましいかもしれませんが、何か気掛かりがございましたら、お聞かせください。わたしたちで、お力になれることであれば――」
丁寧に切り出したつもりだったが、レンジュはびくりと肩を揺らした。大柄な体がもじもじと縮こまり、俯いてしまう。
フレッチェがはらはらしながら見守っていると、やがて彼はぽつりと漏らした。
「お前たち……その……」
騎士団では雄々しい声を張り上げて剣を振るう彼が、かすかな声を絞り出すのでやっとだ。
頑張れ、頑張れ――。フレッチェはいつのまにか、拳を握っていた。
レンジュは、ためらいを捨てるように大きく息を吐く。そして、残った一息で、つかえていた言葉を吐き出した。
「……恋とは、どういうものなんだ?」
「はい……?」
騎士団で声を張り、剣を振るっている彼からは想像もつかない小さな声だった。
レンジュは考えをまとめるように深呼吸し直してから、再び口を開く。
「実は……王弟殿下の計らいで、ある侯爵家のお嬢さんと何度かお会いしているんだが」
王弟グレドルウィンは騎士団の総監を務め、レンジュにとっては上司になる。気乗りしないが断れず、月に一回は会っているという。
「それは見合いということか?」
「ああ、そうなる。一番ないと思っていたお前が早々に一抜けして、ロウェル兄まで――となったら、順番的に俺も……と殿下はお考えになったんだよ」
「兄さんは、結婚が嫌なのか?」
「そんなわけないだろう! お前たちが羨ましい!」
声の迫力が尋常でない。嘘偽りのない本音に違いないようだ。
「昔から憧れているんだ。白い屋敷に、広い庭、帰りを待っていてくれる妻。子供は三人は欲しい。大きな犬を二頭飼って、休みの日はみんなでピクニックに行くんだ」
「では、その女性に不満があるか」
「そんなことはない。ないんだが……」
レンジュの言葉の端々に、どこか言いにくさが滲んでいた。
「俺にはもったいないような、素晴らしい方だよ。教養もあって、立ち居振る舞いも美しい。何より、どうやら俺に好意を持ってくれているようなんだ。俺はまったく知らなかったんだが、見合いの前から何度も、騎士団の剣術大会などを応援に来てくれていたらしい」
「まぁ、素敵ですね! そんな方と結ばれたら、きっと理想はすぐに形になりますわ」
「ああ、わかってる。嫌いではないし、愛らしいとも思う。この先だって、一緒にいればきっと大事にできるとわかっている。それでも――」
レンジュは眉間をぎゅっと寄せる。
「けれど、それだけなんだ。普段、身近に接する女性たちへ抱く好感と、たいして変わらない。特別な感情がわかないまま、見合いをまとめてしまうのは、彼女に失礼だとは思わないか」
「たいていの見合いはそういうものではないのか? 一緒にいるうちに変わっていくんじゃ」
「それはお前が、そっち側に行った人間だから言えるんだよ」
羨ましいぃぃい……、と唸ってレンジュは茶を飲み干す。茶葉の香りを含んだため息は盛大だが、ティーカップを置く仕草は優しかった。
「断れば、王弟殿下の面目を潰してしまうし、あああ……。どうしたら恋や、愛ってやつを知れるんだ」
「どうと言われても、この人しかいないと思ったんだ。レッテ、君のことだよ」
「も、もう、ラウル様……人前で恥ずかしい」
この難題に斬り込める剣を持っている者がいればよかったのだが、あいにくこの場には「恋愛経験=出会ってからの日数」の二人しかいない。
レンジュはそもそも相談する相手を間違えていた。
それでも縋るように、レンジュはラウルに詰め寄る。
「ラウル。お前、ロウェル兄の縁談を香りで取り持ったんだろ? 相手の香りを嗅いだら惚れてしまうような魔法を、俺にもかけてくれよ」
「惚れ薬のような香水か……一種の媚薬のようだな。ひょっとして、兄上の依頼から転じて作れるだろうか」
「んんん゛っ……、こほんっ! お、お二人とも、お茶が空ですわ! お注ぎいたしますね!」
フレッチェは話題を例の話題からそらすべく、慌てて茶を注いで回った。
レンジュは、なみなみと注がれた茶の最後の一滴まで勢いよく飲み干すと、真剣な顔でラウルに頭を下げた。
「よろしく頼んだ」
それだけ告げると、彼は席を立ち、朝のうちに手配していた馬車で王都に向けて、発ってしまった。
ロウェルの「初夜を盛り上げる」香りに続いて、レンジュは「惚れ薬になる」香りを所望とは――、フレッチェは頭が痛くなってしまった。ラウルが乗り気でいることが、またいっそう彼女を不安にさせる。
そして不安はすぐに的中し、その晩もフレッチェはあまり眠れなかった。理由は──思い出すだけで頬が熱くなってしまうような、秘密の時間のせいだ。
それから数日が経って、ラウルのもとに王城からの使者がやってきた。
彼らは王弟グレドルウィンからの手紙を携えていて、この場で返答が欲しいという。
いったい何が書かれているのか、封蝋を割るラウルの手を、フレッチェは祈るように見つめた。




