愛の巣に突然の襲撃
フレッチェの膝に顎を乗せて、悠々と微睡んでいたメーメーが、ふいに頭を起こした。
通りを、幌を左右に揺らしながら、一台の馬車がやってくるのが見える。ガタゴトと鳴く車輪の音で、メーメーは馭者が誰か聞き分けたようだ。
フレッチェも腰を上げて、通りに面した塀のそばまで行くと、大きく手を振った。
「今日もご苦労様、リーン」
「おやまぁ! 奥様自らお出迎えとは、リーンめは幸せ者でございます」
リーンは馬の足を止め、大仰に目頭を押さえる。
「奥様だなんて、よして。気が早いわ」
「そうでございますか? では、これまで通り、フレッチェお嬢様と呼ばせていただきますが……それにしても――。近頃のお嬢様は美しさに磨きがかかって参りましたね。以前より頬がふっくらとなさって、柔らかな雰囲気になられました」
「リーンもそう思う? わたしったら、すっかり太ってしまったの。だって、料理人のパパスが作るお食事が、あまりに美味しいんだもの……」
輪郭を両手で押し上げて、フレッチェは幸せなため息をこぼす。するとリーンに大笑いを返された。
「いやですねぇ、お嬢様! そういう意味ではございませんよ。女ぶりに磨きがかかったと申しているのです。旦那様に愛されている証拠でございますね」
「な、何を言うの、リーン。わたしたちはそんな……」
関係でもない。婚姻はまだだというのに。
何を言っても墓穴を掘りそうで、フレッチェは口を噤んだが、赤面した顔は雄弁だ。
「あらあらまぁ、おほほほほ。わたくしの腰がしゃんとしているうちに、お子様を抱かせていただけそうで、安心いたしました」
「もう、からかわないで!」
「はいはい、お嬢様に嫌われては、おまんまを食いはぐれてしまいますから、リーンはこれで退散いたしますよ。さぁメーメー坊ちゃん、今日も朝採れのいいところを選りすぐってきましたからね、たんとお召し上がりくださいな」
「めー! んめぇー!」
再び走り出した馬車を追って、メーメーは裏門のほうへ駆けて行く。
フレッチェは静けさを取り戻した庭で、すっかり熱くなってしまった頬を風に慰めてもらった。
今日は特別な予定もない、ゆったりとした一日を約束されている。
ラウルは次兄レンジュの誘いで、朝から出かけているし、フレッチェにできることといったら、彼の帰りを温かく迎えられるよう、屋敷を調えておくことくらいだ。
(お掃除が済んだら、パパスのところで焼菓子を作っておこうかしら。ラウル様は意外と甘いものがお好きなのよね)
好きなものを前にした時の、そっと笑んだ彼の口許が好きだ。その顔を見たい――そう思ったら、フレッチェの足はもう動き出していた。
幸いにして、フレッチェが厨房に立つことを咎める者はここにはいない。ロゼクォット家から遣わされた使用人たちは、その家柄によらず、みな心温かく大らかであった。
フレッチェを粗末にしないのは当然として、仰々しくへりくだることもない。話に聞くと、それは公爵家の内でも同じようだ。
興味のあることは何でもやってみるといい――大公夫妻の人柄がそのようなので、以前にはセラフィーヌが包丁を握ったこともあるらしい(結果、自分には向いていないと悟ったそうだ)。
おかげでこの屋敷にも、のびのびとした空気が引き継がれている。
時にはフレッチェが手ずから淹れた茶を飲んで、談笑することもあれば、庭の花は皆で相談しながら植え替えたりしている。
執事のジュークには、もう少し威厳を……と小言を言われることもあった。――が、そんな彼も遅くまでラウルとカードゲームに興じては、本気で悔しがっていたりするのでおあいこだ。
※※※
焼き上がった菓子の粗熱が取れる頃、表がにわかに騒がしくなった。
使用人たちが慌ただしく駆け出す気配に、フレッチェも外をうかがう。馬車から降りてくるラウルの銀髪が夕陽に輝き、フレッチェの胸をきゅっと締め付けた。
玄関には、うんと疲れた顔のラウルと、その肩に重たく寄りかかっている青年の姿があった。ラウルより一回りも二回りも大柄な彼からは、咽せるような酒の香りが漂う。
「誰か、水を持ってきてくれ」
げんなりしたラウルの声に、すぐさま厨房から水差しが運ばれてくる。
ラウルはそれを受け取ると、何を思ったか頭上高く掲げた。差し出された杯には注がず、寄りかかる青年の頭頂めがけて水差しを傾けるではないか。
息を呑むフレッチェの周りで、使用人たちはすでに次の行動に移っている。拭くものを用意したり、廊下を濡らさぬようゲストルームまで絨毯を引いたりと、用意周到だ。
水差しが空になると、ようやく青年が顔を起こした。きりりと凛々しい眉と、酒気で潤みながらも曇りなく輝く青い瞳は、大公レオネルに似通うものがある。
フレッチェも覚えのあるその人物は、ラウルの次兄レンジュであった。
「うぅうん……ここはどこだ……? 宿舎か?」
彼は頭を大きく振って、鈍色の髪から大粒の滴を吹き飛ばす。大きな体を震わせるさまは、大型犬のようだ。
夜会で、ラウルとマルルの仲裁に入った時の、精悍な姿とは雲泥の差で、フレッチェは呆気に取られて見守ることしかできない。
隣でまともに飛沫をかぶったラウルが、うんざりとため息をついた。
「しっかりしてくれ、僕の住まいに着いたぞ。嫌だと言っているのに、無理矢理くっついてきたのは兄さんだろう」
「そうだったか……? いやっ、そうだ……そうだった!」
唐突に酔いが覚めた様子で、レンジュの眼差しに正気が戻る。
すると彼はやにわにラウルのそばを離れ、フレッチェのほうへ歩み寄った――足がイカかタコのようだ。転ばずに済んでいるのは、騎士団で鍛えられた体幹のなせる技か。
「フレッチェ! ようやく会えたな!」
「えっ、あっ、はい! お初にお目にかかります!」
「なかなか任務の合間がなく、すっかり挨拶が遅れてしまった。俺はレンジュだ」
「フレッチェと申しますっ。ど、どうぞよろしくお願いいたします!」
レンジュはフレッチェの手を両手で包み込み、激しく上下に揺する。彼から好意的に思われているのは伝わるが、フレッチェの細い腕は今にも、肩から引っこ抜かれて飛んでいってしまいそうだ。
「噂に違わぬ美しさだな! それに小さい! 愛らしいとは、君のような女性を指すに違いない」
「あ、ありがとうございます……あのぅ、そろそろお手を離していただけますと……」
「君が来てくれてからというもの、両親は輪をかけて上機嫌だし、弟は幸せそうで……うぅっ!」
饒舌だったレンジュの目に、突然涙が湧き上がった。――と思いきや、次の瞬間には口から怒号が飛び出した。
「羨ましいぞぉぉぉぉお!!」
体じゅうの血を煮えたぎらせるように、彼は大声で叫んだ。
「ラウル! お前は俺と同じ側の人間だと思っていたのに! こんなに素敵な恋人を、さっさと見つけちまうなんてな!」
「恋人じゃない。妻になる人だ」
「くあぁぁぁあ! 羨ましいいいいいいい!!」
またもレンジュの叫びが木霊する。
ともすれば、警ら隊が集まりかねない事態だが、騒ぎは使用人らの手によって、すぐに制圧された。
慣れた手つきで両脇から抱えられ、ずるずると客室へ運ばれていくレンジュは、泣きながらに「羨ましい」を連呼している。
ぽかんと見送るフレッチェの横に、ラウルが疲れ果てた顔で寄りかかった。
「今日はずっとあの調子なんだ。明朝にはいつもの兄に戻るだろうから、今晩は泊めてもいいだろうか」
「ラウル様がよろしいのでしたら、わたしが口を挟むことでは……それに――このままお帰ししたら、お風邪を召されてしまいます。何か温かいものと、お腹の落ち着くものをご用意いたしましょうか?」
「ああ、頼む」
料理人のパパスと厨房へ向かおうとするフレッチェを、ラウルは背中からふわりと包み込んだ。
「ど、どうされました?」
「君の優しさに感謝する。今日は本当に、疲れた……」
甘えるように髪に頬擦りする仕草に、フレッチェはまた胸がきゅっとなった。
柔らかな銀髪を撫でてみたいのをこらえ、穏やかに笑み返す。
「お菓子でもつまみながら、後程ゆっくりお話をお聞かせください。さぁ、ラウル様も濡れた髪では、冷えてしまいますよ。早く、お湯を使ってくださいね」
「湯殿まで、君もついてきてくれるかい?」
「ご、ご冗談を! さぁ、離してください! わたしは厨房へ参りますからね!」
燃えるように背中が熱くなって、フレッチェは逃げるようにパパスのもとへ向かった。
ラウルに甘えられると、何でも許してしまいそうになる。それではだめだと自制しながら、甘えられるのが嬉しくて、頬は緩んでしまった。
(だめだめ! ラウル様は本当にお困りの様子だったのだから!)
いったいどうして、レンジュはあれほど酩酊し、ラウルを振り回すに至ったのか。その答えは、夜明けを待つしかなさそうだった。




