表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

12/26

愛の巣に突然の襲撃

 フレッチェの膝に顎を乗せて、悠々と微睡んでいたメーメーが、ふいに頭を起こした。

 通りを、幌を左右に揺らしながら、一台の馬車がやってくるのが見える。ガタゴトと鳴く車輪の音で、メーメーは馭者が誰か聞き分けたようだ。

 フレッチェも腰を上げて、通りに面した塀のそばまで行くと、大きく手を振った。


「今日もご苦労様、リーン」

「おやまぁ! 奥様自らお出迎えとは、リーンめは幸せ者でございます」


 リーンは馬の足を止め、大仰に目頭を押さえる。


「奥様だなんて、よして。気が早いわ」

「そうでございますか? では、これまで通り、フレッチェお嬢様と呼ばせていただきますが……それにしても――。近頃のお嬢様は美しさに磨きがかかって参りましたね。以前より頬がふっくらとなさって、柔らかな雰囲気になられました」

「リーンもそう思う? わたしったら、すっかり太ってしまったの。だって、料理人のパパスが作るお食事が、あまりに美味しいんだもの……」


 輪郭を両手で押し上げて、フレッチェは幸せなため息をこぼす。するとリーンに大笑いを返された。


「いやですねぇ、お嬢様! そういう意味ではございませんよ。女ぶりに磨きがかかったと申しているのです。旦那様に愛されている証拠でございますね」

「な、何を言うの、リーン。わたしたちはそんな……」


 関係でもない。婚姻はまだだというのに。

 何を言っても墓穴を掘りそうで、フレッチェは口を噤んだが、赤面した顔は雄弁だ。


「あらあらまぁ、おほほほほ。わたくしの腰がしゃんとしているうちに、お子様を抱かせていただけそうで、安心いたしました」

「もう、からかわないで!」

「はいはい、お嬢様に嫌われては、おまんまを食いはぐれてしまいますから、リーンはこれで退散いたしますよ。さぁメーメー坊ちゃん、今日も朝採れのいいところを選りすぐってきましたからね、たんとお召し上がりくださいな」

「めー! んめぇー!」


 再び走り出した馬車を追って、メーメーは裏門のほうへ駆けて行く。

 フレッチェは静けさを取り戻した庭で、すっかり熱くなってしまった頬を風に慰めてもらった。


 今日は特別な予定もない、ゆったりとした一日を約束されている。

 ラウルは次兄レンジュの誘いで、朝から出かけているし、フレッチェにできることといったら、彼の帰りを温かく迎えられるよう、屋敷を調えておくことくらいだ。


(お掃除が済んだら、パパスのところで焼菓子を作っておこうかしら。ラウル様は意外と甘いものがお好きなのよね)


 好きなものを前にした時の、そっと笑んだ彼の口許が好きだ。その顔を見たい――そう思ったら、フレッチェの足はもう動き出していた。


 幸いにして、フレッチェが厨房に立つことを咎める者はここにはいない。ロゼクォット家から遣わされた使用人たちは、その家柄によらず、みな心温かく大らかであった。

 フレッチェを粗末にしないのは当然として、仰々しくへりくだることもない。話に聞くと、それは公爵家の内でも同じようだ。

 興味のあることは何でもやってみるといい――大公夫妻の人柄がそのようなので、以前にはセラフィーヌが包丁を握ったこともあるらしい(結果、自分には向いていないと悟ったそうだ)。


 おかげでこの屋敷にも、のびのびとした空気が引き継がれている。

 時にはフレッチェが手ずから淹れた茶を飲んで、談笑することもあれば、庭の花は皆で相談しながら植え替えたりしている。

 執事のジュークには、もう少し威厳を……と小言を言われることもあった。――が、そんな彼も遅くまでラウルとカードゲームに興じては、本気で悔しがっていたりするのでおあいこだ。



 ※※※



 焼き上がった菓子の粗熱が取れる頃、表がにわかに騒がしくなった。

 使用人たちが慌ただしく駆け出す気配に、フレッチェも外をうかがう。馬車から降りてくるラウルの銀髪が夕陽に輝き、フレッチェの胸をきゅっと締め付けた。


 玄関には、うんと疲れた顔のラウルと、その肩に重たく寄りかかっている青年の姿があった。ラウルより一回りも二回りも大柄な彼からは、咽せるような酒の香りが漂う。


「誰か、水を持ってきてくれ」


 げんなりしたラウルの声に、すぐさま厨房から水差しが運ばれてくる。

 ラウルはそれを受け取ると、何を思ったか頭上高く掲げた。差し出された杯には注がず、寄りかかる青年の頭頂めがけて水差しを傾けるではないか。


 息を呑むフレッチェの周りで、使用人たちはすでに次の行動に移っている。拭くものを用意したり、廊下を濡らさぬようゲストルームまで絨毯を引いたりと、用意周到だ。


 水差しが空になると、ようやく青年が顔を起こした。きりりと凛々しい眉と、酒気で潤みながらも曇りなく輝く青い瞳は、大公レオネルに似通うものがある。

 フレッチェも覚えのあるその人物は、ラウルの次兄レンジュであった。


「うぅうん……ここはどこだ……? 宿舎か?」


 彼は頭を大きく振って、鈍色の髪から大粒の滴を吹き飛ばす。大きな体を震わせるさまは、大型犬のようだ。

 夜会で、ラウルとマルルの仲裁に入った時の、精悍な姿とは雲泥の差で、フレッチェは呆気に取られて見守ることしかできない。

 隣でまともに飛沫をかぶったラウルが、うんざりとため息をついた。


「しっかりしてくれ、僕の住まいに着いたぞ。嫌だと言っているのに、無理矢理くっついてきたのは兄さんだろう」

「そうだったか……? いやっ、そうだ……そうだった!」


 唐突に酔いが覚めた様子で、レンジュの眼差しに正気が戻る。

 すると彼はやにわにラウルのそばを離れ、フレッチェのほうへ歩み寄った――足がイカかタコのようだ。転ばずに済んでいるのは、騎士団で鍛えられた体幹のなせる技か。


「フレッチェ! ようやく会えたな!」

「えっ、あっ、はい! お初にお目にかかります!」

「なかなか任務の合間がなく、すっかり挨拶が遅れてしまった。俺はレンジュだ」

「フレッチェと申しますっ。ど、どうぞよろしくお願いいたします!」


 レンジュはフレッチェの手を両手で包み込み、激しく上下に揺する。彼から好意的に思われているのは伝わるが、フレッチェの細い腕は今にも、肩から引っこ抜かれて飛んでいってしまいそうだ。


「噂に違わぬ美しさだな! それに小さい! 愛らしいとは、君のような女性を指すに違いない」

「あ、ありがとうございます……あのぅ、そろそろお手を離していただけますと……」

「君が来てくれてからというもの、両親は輪をかけて上機嫌だし、弟は幸せそうで……うぅっ!」


 饒舌だったレンジュの目に、突然涙が湧き上がった。――と思いきや、次の瞬間には口から怒号が飛び出した。





「羨ましいぞぉぉぉぉお!!」




 体じゅうの血を煮えたぎらせるように、彼は大声で叫んだ。


「ラウル! お前は俺と同じ側の人間だと思っていたのに! こんなに素敵な恋人を、さっさと見つけちまうなんてな!」

「恋人じゃない。妻になる人だ」

「くあぁぁぁあ! 羨ましいいいいいいい!!」


 またもレンジュの叫びが木霊する。

 ともすれば、警ら隊が集まりかねない事態だが、騒ぎは使用人らの手によって、すぐに制圧された。

 慣れた手つきで両脇から抱えられ、ずるずると客室へ運ばれていくレンジュは、泣きながらに「羨ましい」を連呼している。

 ぽかんと見送るフレッチェの横に、ラウルが疲れ果てた顔で寄りかかった。


「今日はずっとあの調子なんだ。明朝にはいつもの兄に戻るだろうから、今晩は泊めてもいいだろうか」

「ラウル様がよろしいのでしたら、わたしが口を挟むことでは……それに――このままお帰ししたら、お風邪を召されてしまいます。何か温かいものと、お腹の落ち着くものをご用意いたしましょうか?」

「ああ、頼む」


 料理人のパパスと厨房へ向かおうとするフレッチェを、ラウルは背中からふわりと包み込んだ。


「ど、どうされました?」

「君の優しさに感謝する。今日は本当に、疲れた……」


 甘えるように髪に頬擦りする仕草に、フレッチェはまた胸がきゅっとなった。

 柔らかな銀髪を撫でてみたいのをこらえ、穏やかに笑み返す。


「お菓子でもつまみながら、後程ゆっくりお話をお聞かせください。さぁ、ラウル様も濡れた髪では、冷えてしまいますよ。早く、お湯を使ってくださいね」

「湯殿まで、君もついてきてくれるかい?」

「ご、ご冗談を! さぁ、離してください! わたしは厨房へ参りますからね!」


 燃えるように背中が熱くなって、フレッチェは逃げるようにパパスのもとへ向かった。

 ラウルに甘えられると、何でも許してしまいそうになる。それではだめだと自制しながら、甘えられるのが嬉しくて、頬は緩んでしまった。


(だめだめ! ラウル様は本当にお困りの様子だったのだから!)


 いったいどうして、レンジュはあれほど酩酊し、ラウルを振り回すに至ったのか。その答えは、夜明けを待つしかなさそうだった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ