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慎ましやかな恋心


˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。˖✻*˸ꕤ*˸*⋆。



 小躍りでもしているかのような軽妙な足音に、庭で花がらを摘んでいたフレッチェは顔を上げた。

 額の癖毛をぴょこぴょこと揺らしながら、子ヤギのメーメーが飛び込んでくる。その口には、一通の手紙が咥えられていた。


 受け取った手の中から、覚えのある香りがかすかに立ちのぼる。

 もの悲しさの奥に優しさを含んだ香りは、フレッチェの顔に笑みを浮かばせた。


 その晩遅く、ベールグラン城からラウルが帰ってきた。ロウェルに誘われ、久しぶりに兄弟で食卓を囲んできたのだ。

 互いの顔を合わせた瞬間、喜びをこらえきれないというように、二人は笑みを交わした。


「その様子だと、君も聞いたようだね?」

「ええ。エラ様からお手紙が届きました。ロウェル様とのご婚約が、正式に決まったと!」


 エラの手紙には、こうも綴られていた。

――あなたと姉妹になれるのが、何より嬉しい!


「こんなに素敵な未来が待っているなんて……。あの夜には思いもしませんでした」

「兄上は、彼女に物語の向こう側の世界を見せるのだと、今から張り切っているよ。エラ嬢には、しっかり手綱を引いてもらわねばな」

「心配いりませんわ。とてもお似合いのお二人ですもの」


 それは侍従たちも認めるほどであった。

 エラと会った後、婚約者を一人に絞るようレオネル大公にそれとなく迫られた際、彼らは口々に進言したという。

――バークレイ伯爵家のエラ様をご推薦いたします。

――お二人が並び合うと、不思議なほどに空気が変わって、たいへん居心地よく感じました。

――わたくしどもは、ぜひとも末長くお二人のそばでお仕えしたいと願います。


 ラウルの香水は、エラに自信を取り戻させただけではない。ロウェルと調和することで、周囲の後押しまで得られるよう設計されていた。


「身分の差を懸念されていたエラ様には、とても心強いことでしょう」

「しかし……僕も今日はじめて知ったのだが、彼女はそもそも、全く謙遜する必要などない経歴まであるそうじゃないか」


 学生時代にエラが発表した『天候と疼痛についての論文』が医学の発展に寄与したとして、褒章を得ているのだ。

 フレッチェは自分のことのように胸を張り、白い歯を覗かせて笑う。


「エラ様は、慎ましいお方ですから」

「ああ、この香水はまさしく彼女にふさわしい。『慎ましやかな恋心』――と名付けよう」


 保存用に少しだけ残していたエラの香水が、硝子瓶の中で光を弾く。

 近い未来、エラの頬を伝う嬉し涙が思い浮かび、フレッチェも胸に込み上げるものがあった。

 フレッチェは幸せを噛み締めるように、ラウルの肩へ身を寄せる。温かで、心を落ち着かせてくれる心音に息が整うのを感じた。


「ところで……エラ様のお手紙に書かれていたのですが。ラウル様の()()()()()のおかげで、マルルとは少しずつ距離を置けている、と。どういうことでしょうか」

「ああ、それか……実は」


 ひっつき虫のようにまとわりつくマルルと、衝突することなく疎遠になりたいと、エラは願っていた。そんな彼女にラウルが授けた魔法は……。

――彼女に会ったら、身に纏った香りを、うんと褒めてやるといい。

 それになんの意味があるのか、エラもはじめはわからなかった。だが、回数を重ねるごとに、その()()()()()は少しずつ効果を発揮していった。


 褒められて嫌な気分になる者は少ない。マルルは特に、称賛に飢えている。

 それも、エラからもぎ取った香水を、そのエラ本人から褒められるなど――マルルの歪んだ心を満たすには十分だった。褒めたそばからマルルはいい気になって、見せつけるように香水を重ね付けした。


 それを繰り返すうちに、だんだんと香水の使用量は増え、マルルの鼻は鈍感になっていった。

 そしてとうとう、人が鼻をつまみたくなるくらい濃い香りを放つようになると、どこの店もやんわりと彼女の入店を拒むようになった。

 おかげでエラは、ゆっくりお茶を楽しんだり、図書館で静かな時間を過ごせているという。


「そうでしたか。あの子には、本当に困ったものです」

「それはそうと、良い話はまだあるんだ」


 バークレイ伯爵家は、良縁を結んだラウルの「鼻」を讃え、今後起業するのであれば出資の意志があると申し出たそうだ。

 よほど嬉しかったのだろう。ラウルは興奮気味に、理想の工房の姿を語り、早くも店舗の外観に夢を広げている。


「ラウル様は以前、わたしに尋ねましたね。香水を作るなら、どんな香りを、誰に、どのように届けたいかと」

「ああ。見えてきたかい?」

「わたしは……誰もが心のどこかで求めている、運命の香りを―― 一人一人の心に寄り添って、理想の香りとの出会いを提供できるような、そんな魔法のような香水店を作りたいです」

「できるさ。僕たちなら、ね」


 ラウルは共に歩く意志を示すように、フレッチェの肩を抱いた。

 温もりが胸の奥にまで染み込んできて、フレッチェはそっと目を閉じる。すると――、なにか柔らかいものが、ふわりと唇に触れた。


「……えっ」


 触れたのは一瞬だった。

 だが、そのたった一瞬の温もりが、心を甘く締めつける。

 驚いて目を開けると、ラウルが至近距離で微笑んでいた。その整った唇をとても直視できず、フレッチェははにかむように視線をそらす。


「そうやって照れた君からは、甘酸っぱい果実のような香りがして、思わず食べてしまいたくなる」

「も、もう……からかわないでください」

「僕はいつだって本気さ」


 ラウルの涼やかな瞳の奥からほとばしる熱情に、フレッチェはもう捕えられている。じっと見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなってしまった。


「というのも実は、兄上から早速依頼をされていてね」

「まぁ、香りのご依頼を? ロウェル様は、どのようなものを……あ! もしかして、エラ様への贈り物でしょうか」

「ああ、きっとそうだ。初夜を盛り上げる香りを作ってほしい、と言われている」

「……はい?」


 フレッチェは理解に努めようと、思考を巡らせる。

 しかし、ロゼクォット兄弟の崇高なる思想を理解するには至らず、やがて思考は飽和し、フレッチェの意識は数多の星々が瞬く無限の領域にまで到達した。

 ぽかんと口を開けたままのフレッチェの隣で、ラウルは真剣に香りの組み合わせを考える様子だ。


「しかし、困っている。どんな香りがいいのか、さっぱり見当がつかなくてね。僕たちはまだ――この先を知らないだろう? ……というわけでだ、レッテ」

「はぁ、何でしょう……」

「知らなければ、知ればいい。君も、できることは何でも試してみようと言っていたしね」

「な、なな……っ、何を試すというのですか!」


 フレッチェの声は、盛大に裏返った。

 ラウルは、わかっているくせに――とでも言うかのように目を細める。


「ラ、ラウル様っ……! わたしたちはまだ正式に夫婦ではありませんし、慎むべきかと……」

「それを咎める法はない」

「法はなくとも、それが美徳であると神も申されております!」

「美徳で愛は語れないよ、レッテ」

「へ、屁理屈です!」


 反論しながらも、フレッチェの声はどんどん小さくなり、視線はあちこち彷徨ってしまう。

 そんな彼女の手を、ラウルはそっと包み込んだ。


「……だめ、か?」


 子犬のような瞳に、フレッチェは胸を射抜かれた。心臓が破裂したかのように大きく跳ねる。


(うぅっ……その顔はずるい!)


 惚れた弱みが疼く。

 一夜限りと覚悟を決めた出会いを振り返れば……、今その時が巡ってきたのかもしれないとさえ思えた。

 フレッチェは、真っ赤になった頬を両手で覆い隠す。


「み、見つめ合って……たくさん抱きしめてくださるなら……」


 消え入りそうな声に、ラウルの表情が柔らかくほどけた。


「もちろんだとも! ああ、レッテ……僕の可愛いサシェ・レッテ。今夜はどんな香りで、夢に誘ってくれるんだろう。余すことなく、堪能させてもらおうか」

「ど、どうぞお手柔らかに……!」


 その夜、部屋に満ちた香りは、とびきり甘やかであった。しかしそれが形になることはなく、二人の心の中だけに留められた。

 甘く、幸福を呼び覚まし、かすかに背徳の余韻を残す――恋心の続きを知る者だけが纏える、秘密の香りだ。








二章 終

お楽しみいただけておりますでしょうか。

次章は二男レンジュ経由の依頼になります。

コミカルさを増量してお届け予定です。

公開まで、少々お待ちくださいませ。


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