バークレイ伯爵領にて
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フレッチェから手渡された香水瓶は、レース編みでできた装飾袋に包まれていた。
既製品にない温かみは、友人から想いがこもった贈り物だ。
手首にひと吹きした途端、爽やかで、少し苦味のある果実の香りがエラを包み込んだ。
ラウルの静かで深みのある声が蘇る。
――あなたは柑橘の香りを好まれていたが、甘みのあるものよりも、よりシャープな印象を与えられる果皮の香りをおすすめする。香り立ちは華やかでありながら、より理知的で洗練された品格を感じさせてくれる。あなたに相応しい。
香りを確かめようと大きく息を吸い込むと、不思議と胸が満たされて、しぼんでいた心まで立ち上がるようだ。
おかげでエラは、自然な笑顔でロウェルを迎えることができた。
「ようこそ、おいでくださいました。僭越ながら父に代わり、ご案内を務めさせていただきます」
「本日を楽しみにして参りました。バークレイ領産出の木材は、造船技師の間で必ず話題に出るほどです。特に、防水加工に使われる松脂の質が極めて良い、と。わたしの船の骨格を支えているのも、バークレイの森と言っても過言ではありません」
兄弟の中で、最も社交の場に出る機会が多く、また自らも進んで交流を求めるロウェルは、相手の喜ぶ言葉を花束にして持っているようなものだ。
だんだんと心を開かせて、やがて相手の懐に飛び込めた瞬間の達成感と言ったらない。
特に女性が初々しく頬を染める姿は、咲きはじめの薔薇の開花を待つようで楽しいと思っていた――いまだその花を摘むまでに至っていないのが、公爵夫妻の悩みである。
「まして、エラ嬢に案内していただけるとなれば、いっそう格別です」
「もったいないお言葉でございます」
エラが、丁重に頭を下げる。その瞬間、風に乗ってふわりと香りが揺れた。
ロウェルの纏った薔薇の香りの間を縫うように漂った、凛とした果実の気配に、侍従たちもふと辺りを見回す。どこか姿勢が正されるような、澄んだ香りだった。
ロウェルは思わず言葉に詰まった。もう一言二言、甘い言葉を囁こうと思っていたのに、その香りを嗅いだ途端に、それがとても無粋な行為に思えたのだ。
香りの中心で、エラは毅然と背筋を伸ばしている。眼鏡の奥で静かに光る瞳からは、涼やかな知性を感じさせた。
そんな彼女に陳腐な褒め言葉を浴びせたところで、本当の心のうちなど見せてはもらえないと気付いたのだ。
ロウェルは気を引き締めて、改めてエラに向き直る。
「――では早速ですが、案内をお願いできますか」
「かしこまりました。それではまず、造船所と取引のある製材所のほうから、ご案内いたします。どうぞ、こちらへ」
製材所の説明を受けながら歩く道すがら、自然と会話も深まり、二人の歩幅は気付けばぴたりと揃っていた。
そして香りは、ゆっくりと姿を変えて、また別の顔を見せ始める。
――あなたの淑やかさは、花の香りで表現しよう。決して華美ではないが、心の和む花だ。
柔らかく、清らかで、どこか懐かしい。
ロウェルがふと隣を見るたびに、エラの纏った香りが語りかけてくるようだ。
思わず口許を綻ばせると、つられるようにエラも微笑み返す。それは、朝露に濡れる花のような可憐さで、ロウェルはだんだんと胸の高鳴りを覚えていた。
――そして大切なのは、兄上の纏った薔薇の香りと喧嘩させないことだ。いい香りはひとの心を落ち着かせ、良いほうへ気持ちを向けてくれる。
華やかで甘い薔薇の香りを、エラの主張しすぎずも芯のある香りが引き締め、居心地のいい空間を作り出すように、ラウルは調香していた。
薔薇と似た香りを放つ紫檀が、親和性をいっそう高め、二人の通った後には香りの美しい調べが奏でられる。二人を見守る侍従らの頬も、いつしか自然と緩んでいた。
※※※
やがて、山々が金色に縁取られる頃、二人が歩んできた小径の香りも、夕暮れの空気に溶け始めた。
気付けば時間も忘れる一日になっていた。
ロウェルは、名残惜しさを胸の奥に押し込めるように、ゆっくりと口を開く。
「本日は、まことに有意義な時間でした。よろしければ、また改めて伺わせていただきたく存じます」
「光栄に存じますわ。父もきっと喜びます。大公領の発展のためにも、今後とも良きお付き合いをお願いできますと幸いです」
エラの声は落ち着いていて、彼に目をかけられている存在としてではなく、あくまでも伯爵家の一員に徹する誠実さに満ちていた。
だが、そこに悲壮感はない。横顔に宿るどこか晴れやかな微笑みは、今日という日を心から楽しんだ証だ。
(ありがとう、フレッチェ、ラウル様。もう心残りはないわ。たとえ結ばれることがなくても、わたくしは今日の幸せを忘れない――香りと一緒に、この恋心はそっと仕舞っておきましょう)
そんな小さな決意が胸に芽生えるのを、エラは確かに感じていた。
最後の挨拶を交わし、ロウェルは馬車へ足をかける。扉が閉まる刹那——風がエラの香りをさらい、彼のもとへと運び込んだ。
その時、ロウェルは何も感じなかった。
しかし、やがて馬車が走り出し、エラから遠ざかるほどに香りの余韻が彼を包み込んだ。
雨上がりの夜のように清らかで、胸の奥を静かに揺らす……どこか寂しげな香りだ。
ロウェルは思わず、通りを振り返った。
もうエラの表情までは見えない。ただ凛とした立ち姿だけが、遠ざかっていく。
エラの姿が見えなくなっても、香りの残響はいつまでも、後ろ髪を引くようにロウェルの胸へ留まり続けた。
※作中では世界観を壊さないように、香料の詳細を明記しませんでしたが
少しでも香りが伝わればと思い、ラウル氏監修のもと、エラの香水のレシピを公開します
想像してお楽しみください
エラ専用香水
制作メモ
◇トップノート
ベルガモット、マンダリン、グレープフルーツ
狙い「知的で凛とした女性像を描きつつ、澄んだ第一印象をつくる」
・ベルガモットは「上品で理知的な印象」を与える柑橘の代表。
・マンダリンを足すことで、エラに備わる柔らかい優しさをほんのり滲ませる。
・グレープフルーツのほろ苦さは、過度に甘くならないよう香りを引き締め、冷静さ・理知・控えめな強さを感じさせる。
※ロウェルの纏うダマスクローズとぶつからないよう、甘さの少ない果皮の香りを中心に構成。
◇ミドルノート
アイリス、ミュゲ(鈴蘭)
狙い「冷静さの下にある、エラの女性らしさ、繊細さ、気品を表現する」
・アイリス、ミュゲはともに静かで凛とした花。知性や品格、慎ましさの象徴。
アイリスだけだと硬すぎるので、ミュゲで優しさを。
※ダマスクローズを邪魔しないよう、甘さ控えめで透明感の高い白い花を選択。
◇ラストノート
ローズウッド、シダーウッド、ベンゾイン
special essence エラの涙
狙い「ロウェルの香りと自然に同調し、二人が並び立ったときに調和した余韻を生み、周囲の賛同を得られるように調整。涙で別れの余韻を高める」
・ローズウッド(紫檀)はロウェルのダマスクローズと親和性が高く、ぶつからずに寄り添う。
・シダーウッドは「落ち着き・静けさ」を演出。ローズウッドの軽い香りを引き締めつつ、影を与える。
・ベンゾインはほんのり甘く、温もりのある香り。
・「涙」にひそませた恋心が溶け出して薫る時、思わず後ろ髪を引かれるはず――。




