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青い薔薇白い薔薇  作者: 霧島勇馬
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第九章 カメラは見ていた

   第九章 カメラは見ていた

 今回の映画では、大がかりなセットが組まれていた。ドリスが演じる姉のマギーが住む部屋が一階で、ローズが演じる妹のペギーが住む部屋が二階。

 壁一面をなくした形で、ちょうど道路を挟んだビルの位置から、二部屋が丸見えの構造になっている。

 急勾配の階段を、上ったり下りたりするのも、今回の映画の特徴だった。

 ルイスが出演者全員に、階段を使う理由を説明していた。

「階段を上っていくうちに、殺意が強まる。階段を下りるときは、諦めの気持ちを表す。階段の上り下りは、人間の気持ちの上下を上手く出すための映像手法なんだ」

 確かに、殺意を持っている人間が動くとき、階段を上っていく手法は、いい案だ。ローズたちも、気持ちを作るのが容易になる。

 ただ、男たちにとっては雑作もなかったが、ハイヒールを履いたドリスとローズには、気を遣う現場となった。

 撮影班も、いつも以上に気を遣う。二階のセットと同じ位置にカメラを置いているのだが、足場が悪い。油断すると、二階の位置から落下する。床には尖った機材も多い。落下事故は、命の危険もあった。

 チーフ・カメラマンのトマス・ジョーンズが、足場の悪い二階位置で、ローズにカメラの扱いを伝授していた。

「カメラっていうのは、回すのは簡単なんだ。初期の頃なんて、ロケで大変なのは三脚を持つことのほうだったからね。ほら、ここを押すと、自動で回り出す」

 ローズは胸を撫で下ろした。手動でなくて、よかった。つまり、カメラマンが見ていなくても、カメラは勝手に回ってくれるわけだ。

「明日の私のシーンでは、二階のセットの端に立ち、マイケルと激しい言い合いをするのよね。声も同時録音?」

「離れているからね。一応はマイクで拾うけど、あとで吹き込んだほうが、できがいいんじゃないかなあ。そこら辺は、ルイスに従うよ」

「私が立つ位置に、カメラをズームしてくれる?」

 トマスは、にこにこして、ローズの要求に応えた。

「スタンドインが立ってくれないと、なかなか上手くはいかないけれど、僕もこの仕事が長いからね。大概のシーンは、上手く焦点が合わせられる。明日の台本通りだと、こんなもんかな」

「ちょっと見せて」

「どうぞ。足下に気をつけて」

 本来は一人しか座らない位置に、二人の人間がいる。ローズだって、ここで落ちたら、馬鹿丸出しだ。注意深く、トマスと位置を取り替えた。

「まあ! こんなにアップで撮るの?」

「ルイスの指示は、たぶん、もう少し、引き、だろうな。君とドリスが似ている点を強調しなきゃいけないから、アップを撮って、観客に粗探しをされても困るんだよ」

 観客に粗探しされる、か。今回の主役はローズ、観客はルイスだ。自分の妻を、どの程度までボケていたら、ドリスと判断してくれるだろうか?

「確か、年増女を綺麗に撮るために、ぼやけた絵を撮るときがあるわよね。今回は、それは使わないの?」

 トマスが驚いて顔を上げ、小さく笑い出した。

「なんだ、そりゃ? ドリスをソフト・フォーカスで撮れってか?」

「だって、実際に、小母ちゃんでしょ?」

 トマスが愉快そうに大笑いした。

「ははは、たった一歳、違うだけで、小母ちゃん扱いか。ローズとドリスの確執は、根が深いねえ」

「まあね。でも、若くても、『ガス灯』や『カサブランカ』のイングリッド・バーグマンのアップも、ソフト・フォーカスで撮られていたわ。綺麗だった」

「カメラの前に、画質がぼやけるような幕を置くだけなんだよ。これは、プラスチックの板に女性の透明なリップ・グロスを塗ったものでも、代用できるんだよ」

 リップ・グロスか。なかなかに名案だ。

「じゃあ、自信のないシーンのときは、カメラのレンズにグロスを塗っておこうかしら」

 トマスが大袈裟に驚いてみせた。

「よしてくれよ! そんな真似したら、カメラが駄目になっちまう。レンズの前に、板を差し込むだけでいいんだ。こんな感じでね」

 トマスは何の疑問も抱かず、ソフト・フォーカス用のフィルターを、レンズの前に付けてくれた。

「どうだい? 普段は、こんな遠くから、ソフト・フォーカスなんて撮らない。だけど、雰囲気は、わかるだろう?」

「ええ、そうね。なかなか、いい感じだわ」

 これでいい。準備は万端だ。

「女優を辞めて、監督業でもやる気かい?」

 ローズは、にっこり微笑んだ。

「それもいいわね」

 そこへ、下からルイスが呼ぶ声がした。

「おおい、トマス! そんなところで女王さまのご機嫌を取っていないで、こっちへ降りてきてくれ!」

 トマスが眼鏡を上げ、「ああ、わかった」と応えた。

 ローズは、名残惜しい振りをし、ずっとカメラを見ていた。本来ならば、フォーカス・プレートを外し、電源も落とさなければならないところなのだろうが。

 トマスが小さく息を吐き、ローズに告げた。

「じゃあ、電源だけ切っておいてくれるか? 僕はルイスに呼ばれたから、行かなければならない」

 ローズはじっと、レンズを見たまま、応えた。自分の声が、頭の中で、鳴り響く。

「ええ、そうするわ。ちゃんと、切っておくから」

 もちろん、そんなつもりは、さらさらなかった。

 長いハリウッドの歴史の中で、映画が偶然に犯罪現場を捉えていたときは、あっただろうか?

 たとえば、階段から誰かが突き落とされるシーン。落下した人間が、打ち所が悪くて、死んだとする。しかし、その臨場感溢れるシーンを、そのまま映画化したいと考えた監督は、一人か二人は、いたのではないだろうか?

 無声映画時代のぼやけたモノクロの映像は、実際に死者が出たのではないかと思われるほど、不気味なものがある。

 草創期の撮影所には、ときどき、事故死したエキストラの亡霊が出ると、噂されたという。

 ところで、ローズは現在、監督業に手を出す気は、さらさらなかった。しかし、これから行われる撮影は、一回こっきりの、ローズ主演の密かな監督作品となる。

 トニーの楽屋のドアにカードを挟んでおいた。白い薔薇が浮き彫りになったカードで、ドリスが私用によく使っている。

 ――「話があるの。セットの二階で待っているわ。七時に。ドリス」――。

 精一杯、ドリスの字に似せた。末尾に記したサインには、特に自信があった。その上に、赤い口紅のキスマーク。これで、完璧なはずだ。

 ローズは一足早く、照明の落とされたスタジオに入った。セット二階にだけ、スポットライトが浴びるような形で、灯りを点ける。

 その場でハイヒールを脱ぎ、先程、撮影の仕方を教わったカメラに上る。そのまま息を殺し、トニーの登場を待った。

 二階に呼び出したトニーを、ドリスの形をして、突き落とす。この一部始終をカメラに収める趣向だ。

 ただ、ここで、時間の壁が立ちはだかる。

 映画フィルムが一度に撮れる時間は、ワン・リール、たったの十分。これはハリウッド草創期から変わらない。昔の映画は、一巻もの、二巻ものと呼ばれ、十分から二十分程度の短さだった。長編映画を撮るようになっても、リールの数が増えるだけだった。

 つまり、ローズは十分の間に、カメラのスイッチを入れ、足下の悪い段を下に降り、セットまで走り、今度は二階に上って、トニーを突き落とさなければならない。

 赤いボブヘアのローズを見つけたら、トニーは二階から降りてしまうかもしれない。だから、ひっそりと二階にいるトニーに近づかなければならない。

 もちろん、ヒールのある靴で動くなんて、無理だ。足音がするし、足場も悪い。最初から素足で来て、誰かに見咎められるわけにもいかない。そこで、脱いだまま、右手に持っていた。

 トニーは抵抗するかもしれない。だから、不意打ちを食らわせるしかない。

 心臓が、ドキドキと高鳴った。大きく深呼吸するが、ちっとも治まらない。

 ――大丈夫。上手くいくわ。絶対に、上手くいく。

 やがて、スタジオのドアが開いた。男の足音が、中に入ってきた。

「ドリス? 僕だ、トニーだ。どこにいる?」

 今、ここで声を出すわけにはいかない。

 ――セットの二階で待ってるって、書いておいたでしょうが。この、盆暗が!

 トニーは頭を掻き、手にした白いカードを見ていた。独り言のように呟く。

「なんで、わざわざ、二階なんだよ」

 文句を言いながらも、セットの階段に近づいていった。

 まだ、駄目だ。動けない。トニーの姿をファインダーに収め、殺害現場を撮影できると確信できるまで。

 トニーが階段を上がっていく。

 そう、その調子だ。セットに立ち、きょろきょろと周囲を見回す。トニーの体がすっぽり、ファインダーに収まった。これでいい。今だ!

 カメラのスイッチを入れる。カメラは低い音を立てて、回り始めた。

 よーい、アクション!

 動き出すと同時に、首に掛けたストップウォッチのボタンを押した。

 ローズは四つん這いになって、精一杯の素早さで段を下りた。それでも、三十秒以上は掛かった。

 足音を立てないよう気をつけながら、セットに近づく。トニーが痺れを切らして、降りて来ないうちに、階段を上らなければ!

 これまた、三十秒以上が掛かった。大丈夫。制限時間は、まだまだ八分以上ある。

 ――落ち着いてやれば、充分過ぎる時間はある。焦っちゃ駄目、焦っちゃ駄目よ!

 トニーは一人でセットにいるのが不安なのか、大きな声を上げた。

「おおい、ドリス! どこにいるんだよぉー!」

 本物のドリスは、トニーを名乗る人間に呼び出されて独りトニーの部屋にいる。ローズの策略だった。

 ――トニー、どうか、その場を動かないで! フレームから外れちゃうと、計画が台無しなのよ!

 たとえ突き落としても、映像が残っていなければ、ドリスに罪を被せられない。

 耳に、頭に、心臓の音がどきんどきんと聞こえる。あとはなにも聞こえないといっていいくらいだった。

 階段は急勾配だが、普段の撮影で、上り慣れてきた。ハイヒールを脱いだ点も、幸いした。

 あと、五分四十二秒。

 トニーが痺れを切らして階段を下りようとするところに、ローズが現れた。トニーは、暗がりに立つ赤毛の女に、笑顔を向けた。

「ドリス、なんなんだよ、こんなところで。僕たちは、別に人に見られない場所を選ぶ必要はないんだぞ」

 この位置じゃ駄目だ。フレームから外れている。声を出して、指示が出せないから、動作だけで、誘わなければ。

 あと五分。

 ローズは無言で、トニーの胸を突き、後ろに下がらせた。

 最初はトニーも、素直に後ずさっていたが、だんだん顔が険しくなった。

「ドリス? なぜなにも言わない? 声を出しちゃ、不味いのか?」

 ――そうよ。容貌は暗がりでそっくりでも、声を聞かれたら、ばれるもの。

 この男、意外とタフだ。やがて、突いても突いても、まったく動かなくなった。

「ドリス、何してるんだよ? 意味が全然わからない」

 あと四分と十五秒。時間がなくなってきた。

 ライトが当たる場所に出ると、すばやく、トニーの胸に抱きついた。これで、トニーはドリスの顔を確認できなくなった。

 甘える仕草をしてみせたせいだろうか。トニーが警戒心を解いた。

 いつもより、背が低い事実に気づいたようだ。背中を抱き寄せながら、不思議そうな声を出す。

「ハイヒールを脱いだのか。ま、いいや。ところで、こんなところで、なにをするつもりなんだ?」

 ローズは横目で、素早く位置を確認した。この位置だ! 今、二人は、しっかりとカメラに収まっている。

 問題は、時間だ。ローズの姿がドリスだと、フィルムを見た人間が納得する時間も欲しい。しばしローズは、トニーの腕の中で、甘えるようにじっとしていた。ストップウォッチの音が耳に響く。僅かにトニーから体を離し、左手で時間を確認する。

 あと、二分。突き落とせるか?

 ここでローズは初めて、声を発した。

「トニー、今まで、いろいろありがとう」

 トニーの顔が強張った。

「え? ローズ?」

「あんな我が儘な姉さんの相手、ご苦労さま。あなたのコーヒーがもう飲めなくて、残念だわ」

 その言葉を聞き、瞬間、トニーの体から力が抜けた。ローズは渾身の力で、トニーの胸を突いた。

「うわぁ! ああああああ!」

 トニーの体が、フレームから消えた……はずだ。ローズはカメラに背を向け、赤毛の髪を掻き上げた。

 左手でストップウォッチを手にし、ボタンを押す。

 あと十五秒。間に合った。ドリスがトニーを突き落とすシーンは、しっかりとカメラに収まった。

 ローズは大きく息を吐くと、まだ素足のまま、ゆっくりと階段を下りた。トニーが落ちた方角に、恐る恐る近づく。

 トニーは仰向けに、大の字になり、床に寝ていた。ピクリとも動かない。

 念のため、首筋を触ってみた。脈はない。

 はぁああっと息を吐き、つい、その場に座り込みそうになる。一度でも腰を落とすと、もう動けなくなりそうで、なんとか堪えた。

 右手にしっかり握っていたハイヒールを履き、ウィッグにそっと触れた。このウィッグは証拠となり得るから、今日のうちに処分しなければ。

 ローズはドリスの格好のまま、スタジオを出た。目撃者が現れても、その場にドリスがいたと証言してもらうように。

 幸い、誰ともすれ違わず、自分の楽屋までやって来た。中に入り、深く息を吐くと、ウィッグを脱いだ。

 鏡を見ると、目を爛々と光らせている自分がいた。

 これで二人も殺した……。それでも、ドリスを陥れるためなら、多すぎる犠牲ではないと信じた。

 朝の日差しの眩しさに、ドリスは重たい瞼を開いた。結局、夜を明かしたが、トニーは帰って来なかった。

 いつ帰るかわからない男のために、時間を取るなんて、したためしがなかった。屈辱感と、怒りが湧き起こる。

「今、何時なのかしら?」

 柱時計を見ると、午前十一時になろうとしていた。

 もう、帰ろう。朝帰りに母はいい顔をしないだろうが、知ったことではない。

 マネージャーのクリスがたぶん、ハート家にいるだろうから、今日の予定の確認をしなければ。

 髪を整え、メイクを軽く直して、外に出た。大通りでタクシーを拾う。

「ビバリーヒルズのドリス・ハート邸までお願い」

「はいよ」

 運転手がアクセルを踏んだところで、バックミラーを見た。

「あれ、あんた……もしかして、本物のドリス・ハートかい?」

 否定するのも面倒だ。素直に白状して、サインの一つもすれば、上手くいけば運賃をサービスしてくれるかもしれない。

「ええ、そうよ」

「大変な事態になったねえ。あなたもショックだったでしょう?」

 何の話だろうか? ドリスの車でキャロルが事故を起こし、死亡した件かもしれない。

「ええ、そうね。いい人だったから、ショックだったわ」

「いい人? その程度のものだったのか、トニーって? 恋人じゃなかったっけ?」

 ドリスは怪訝な思いに眉根を寄せた。

「トニー? トニーがどうかしたの?」

「あれ、知らないんですか? 朝一番にスタジオに入ったスタッフが、トニーの遺体を見つけたって、ラジオでやってましたよ」

「嘘!」

 運転手は困った様子で頭を掻いた。

「嘘って言われても……困ったな」

 トニーが死んだ? スタジオの中で? 帰って来られなかった理由は、もう命がなかったから?

 頭がガンガンした。顔から血の気が抜ける思いがし、頭がふらついた。

 ――何なの? いったい昨夜、なにがあったのよ!

「行き先を変えて! MGMの撮影所に! 早く!」

「は、はい!」

 とにかく事情を把握しなければ。ラジオでニュースが流れたぐらいだから、事態を知らない人間は、ドリスだけなのかもしれない。

 第二十三スタジオの入口に、警察の黄色いテープが貼られていた。前に立っている警官が、入ろうとするドリスを制した。

「ここは、事故現場なので、関係者以外立ち入り禁止です」

「私は関係者よ! ドリス・ハート! このスタジオで撮影されてる映画の主演女優で、トニーの恋人だわ!」

 警官が顔色を変えた。もう一人の警官が、即座に中に入っていった。

 ドリスは、まだ意味が全然わからずにいた。

「ねえ、トニーが死んだなんて、デマよね?」

 そこへ、中に入っていった警官が戻ってきた。

「ミス・ハート、中にお入りください」

 テープを潜り抜け、スタジオに足を踏み入れた。セットの隅に、ルイスとローズの背中が見えた。

 刑事が一人、話を聞きながら、メモを取っていた。

 ドリスはルイスたちがいる方角へ、ゆっくり歩いていった。刑事がまず、ドリスに気づいた。

「ミス・ハート! 探したんですよ!」

「いったい、何事が――」

 床に白くチョークで人間の形、数字のプレートがあちこちにあった。頭の部分には、血痕……。ドリスは衝撃を受けた。

「まさか……まさか、ここにトニーが倒れていたの?」

 刑事は難しい顔をして、頷いた。

「このセットの二階から、転落したようです」

 頭が混乱してきた。なぜ、こんな事態になったのか!

「トニーに会わせて! トニーはどこにいるのよ!」

 刑事が手帖にペンを持ちながら、ドリスに一歩近づいた。

「もう、病院の霊安室です。ところでミス・ハート、昨夜は、どちらへ? お母さまに電話したんですが、一晩ずっと帰らなかったと仰っているんですよ。事件性はないと思われますが、一応、皆さんにその日のアリバイの裏を取っておるんです」

 これは、正直に言ったほうがいいのだろうか? 今や、ドリスに指示してくれる人間は一人もいなくなった。

「……トニーのアパートにいました。恋人なんだから、別にいいでしょ」

 横にいたローズが顎に手を当て、首を捻った。

「トニーに命の危険が迫っていたのに、姉さんはのんびりトニーのアパートで、なにをしていたの?」

「なにって……トニーを待っていたに決まっているでしょ! なのに、とうとう帰って来ないんだもの」

 まさか、こんなところで死んでいたなんて……。

「映画のセットは危険なものなんですなあ。監督からお話を聞いたんですが、たぶん被害者は一人、セットで芝居の確認をしている途中で、足を踏み外したものと思われます」

 ルイスが神妙な顔で頷いた。

「トニーは今日、精神的に難しい演技をする予定でした。きっと一人、納得がいくまで確認をしたかったのでしょう。残念です」

 刑事はあらかた捜査を終えたらしく、手帖を閉じ、ポケットに入れた。

「では、また何かありましたら、ご連絡します」

 ずっと無言でセットを見上げていた相棒に声を掛け、帰ろうとした。

 ローズがなぜか、焦った様子で、刑事を引き留めた。

「あの、刑事さん。スタジオじゅうもっと調べないんですか? 何か証拠が残っているかもしれません」

 刑事が、ばつが悪そうに、頭を掻いた。

「他に証拠ねえ。あのセットから転落したんだから、そうそう他に証拠なんて、落ちていないでしょう」

 そこにルイスが、すかさず言葉を添えた。

「何か新事実がわかったら、警察にご連絡しますよ。それより早く、あの黄色いテープを外して欲しい。映画撮影の途中なんで」

 刑事はホッとした様子で、一礼した。

「そうですね、事件性もないようですし、テープは外します。あとしばらく、辛抱願います」

 相棒の刑事が、ドリスにそっと近づいた。

「これから、病院へ行きますか? 監督と妹さんは、もう、遺体の確認が済んでいます。あなたは被害者の恋人でしたね。病院の霊安室まで、ご案内します」

 そのとき、ルイスが声を上げた。

「僕が従いていきましょう。一人ではあまりに辛い」

「そうですね。では監督も、一緒にどうぞ」

 ルイスがドリスの横に立ち、そっと肩を抱いた。それだけで、ドリスは泣き出しそうになる。

 キャロルに引き続き、トニーの死。ドリスは呪われているのだろうか? それとも、ローズを抹殺しようとの考えを、神が断罪しているのか?

 冗談じゃない! 死ぬべき存在は、ローズが唯一人だ! 

 トニーはローズ殺害に積極的に加勢をしてくれていた。それだけに、亡くなった事実は衝撃だった。

 ――トニー、トニー! なんで死んじゃったのよ! ローズはぴんぴんしているっていうのに!

 ローズは、チッと舌打ちした。

 刑事がいる間にフィルムに映像が残されていたと知られたら、刑事事件に発展したのに。

 いや、まだ遅くはない。ルイスに見せさえすればいい。ルイスは警察に証拠として提出し、ドリスは逮捕されるだろう。

 スタジオでは、一人の掃除人が、ダニーが落ちた位置にモップを掛けていた。警察は調べはするものの、後始末までしてくれないらしい。

 メイク係と衣装係の女が、遠目で掃除の様子を見ていた。

「あそこに落ちたんですって。なんだか、嫌ね」

「間違って踏みつけたら、亡霊に襲われそうな気分になるわ」

 チーフ・カメラマンのトマスが、無言でローズの脇を通り過ぎ、二階に設置されたカメラの確認に、足場を上がっていった。

 ローズは、にんまり微笑んだ。

「あれ? カメラが回っていたみたいだぞ」

 トマスの声に、スタジオ内の人間の全てが集中するように、ローズが口を出す。しかも大声で。

「あら、ごめんなさい! 電源を落としていかなかったかしら?」

「いや、電源が入っていても、ボタンを押さないと、撮影は始まらないんだが……。何か映ってるぞ!」

 自然と、トマスがいる上空の下には、人が集まってきた。といっても、スタジオ内にいる人間は、ローズを含めて五人だけだったが。

「映ってたって、なにが?」

 一人が冗談めいた口調で叫んだ。

「ひぃいいい! 殺されるぅって一部始終をか?」

 衣装係の女が、男を制した。

「馬鹿ね。事故だったのよ。なんで、殺人事件になんてなるのよ」

「あはは、それもそうだな」

 トマスの声が、緊迫した。

「いや……そうも言ってられないぞ。今、リールを持って降りるから、皆も見てくれ」

 トマスが重たいリールを抱えて、そろりそろりと降りてきた。ローズは、わくわくする気持ちを抑えられなかった。

 ――いよいよ、姉さんが犯人だと証明する映像が見られるんだわ!

 トマスが下のカメラにリールを付けると、皆が周囲に寄ってきた。

「なにが映っているの?」

「あの位置だと、事故の一部始終とか?」

「映し出す白い幕がないな。そうだ、そこの白い壁に映してみろよ」

 皆の指示通りに、トマスが映写機を白壁に向けた。

 ローズは一歩前に進み出て、トマスの肩を叩いた。

「回して」

 リールが回り出した。まるで霧に霞んだようにぼんやりと、セットの二階が映し出されていた。

 ――やだ、焦点がぜんぜん合ってないわ。ソフト・フォーカスのフィルターは、必要なかったかも。

 やがて、トニーと思われる男の姿が、フレームに入ってきた。残念ながら、まだ首から下しか映っていない。この後、きちんと位置取りしたはずだが。

 ローズは初めて見る景色だとばかりに、わざと驚いてみせた。

「まあ! これはトニーね! まだ生きているわ」

「問題は、その先だよ。よく見えないが、女が現れる」

 ぞくぞくする思いで、女の登場を待った。

 トニーがいったん、映像から消えた。ローズに近づいたときだ。この後、ローズは懸命にトニーの胸を突き、フレーム内に入れるよう苦労する。

 ローズの横から顔を突き出していた女が、声を上げた。

「誰、この人? トニーの胸を突いているわよ!」

「……恋人同士がじゃれ合っているようにも見えるな」

 ローズは焦り出した。せっかく被った赤のボブ・ウィッグが、見切れている。カメラは二人の肩から下ばかり映していた。

「トニーは女に警戒していないみたいだ」

「そうよね。抱き合っているようにも見えるわ」

 次の瞬間、女がトニーを強く突いた。トニーの体が背中から倒れ、フレームから消えた。

「あああ!」

「突き落とされた?」

女はゆっくりと後ろを向き、髪を掻き上げる仕草をした。直後、真っ暗になった。

 最後まで、女の頭部は見えなかった。左右の位置取りばかり考え、カメラに近づきすぎた結果だ。

「いや、突き落としたとは限らないぞ。演技の練習をしてただけかもしれない」

 男の声に、ローズは反発した。

「でも、あんなシーンは、台本のどこにも出てないわよ」

「……脚本に新たに書き加えられたシーンだとか……?」

 映像を見た人間は皆、戸惑っていた。なにしろ、映画の内容自体が、殺意と殺戮の計画の連続だったから。ルイスが新しく、このようなシーンを入れたのかもしれないと、考えたわけか。

 ローズは苛々をなんとか抑え、突き落とした女に注目を集めようとした。

「ところで、あの女は誰なのかしら? ……なんだか、姉さんに似ているんだけど」

「まさか! ドリスがトニーを突き落としたって?」

「あの二人は恋人同士でしょ!」

 ローズは思案顔を作り、顔を上げた。

「痴話喧嘩、とかね。姉さんはこの夜、なにをしていたか、アリバイがないのよ」

 スタジオじゅうが、しんと静まり返った。

 この場にいる全員が、ドリスの犯行を疑っている。できれば、もう少し、人数が多ければ良かったのだが。

 ――大丈夫。話は拡散するわ。それに、ルイスだって、この映像を見たら、姉さんを疑うに決まっている。

 そこへ、スタジオのドアが開いた。全員が、振り返った。ルイスがドリスを連れ、戻ってきた。

 皆の不審げな顔に気づいたのだろう。ルイスがローズに問いかけた。

「どうしたんだ、皆、変な顔をして。そんなところで、なにをやっている?」

 ちょうどいいところに帰ってきてくれた。しかも、ドリスを連れて。

 ――姉さん、スキャンダルの真っ只中に突き落としてやるわ。これでドリス・ハートは終わりよ!

 ドリスはすぐに、皆の冷たい視線に気づいた。

 ――何なの? 私は恋人を失ったばかりなのよ? なぜそんな冷たい目で見るのよ?

 ルイスも気づいた様子で、ローズに向かって声を掛けた。

「ローズ、何かあったのか? 皆、変な顔をしているが」

 ローズが怒りの形相で、ドリスを睨んだ。

「姉さんが、トニーを突き落としたのよ。証拠のフィルムが残されていたの」

 ドリスには青天の霹靂だった。トニーを突き落とした? 証拠のフィルムがある?

「何、馬鹿な話してるのよ! 私はずっと、トニーの部屋にいたのよ!」

 ローズが勝ち誇った笑みを浮かべた。

「トマス、映像を流して。姉さんとルイスに見せてやって」

 チーフ・カメラマンのトマスが、「はい」と頷き、映写機を回した。白い壁に、ぼやけた映像が映し出された。

 トニーらしき男が、画面に入ってきた。やがて、女が一人近づき、トニーを突き、視界から消す。十分間のフィルムを、皆、固唾を呑んで見詰めていた。

「なんなの? この女が、私だっていうの? ぼけぼけで、誰だか全然わからないじゃない!」

「でも、赤毛だったわ!」

「顔が見切れてて、全然わからなかったわよ!」

「あれは、絶対に姉さんよ!」

「なんで私が、トニーを殺さなきゃならないのよ!」

 ルイスが慌てて、割って入った。

「二人とも、いい加減にしないか!」

 ルイスが、より興奮していたドリスの肩を抱いた。ローズが怒りの眼差しで睨み付ける。

 ――ふん、あんたは知らないのよね。ルイスが、もともとは私の大ファンだったっていう事実を。

 ドリスは甘える真似をし、ルイスの胸に抱きついた。

「こんな映像、私は知らないわ。まったく身に覚えのない話よ!」

 ルイスの穏やかな声が、聞こえてきた。

「そりゃあそうさ。あれは、トニーに僕が指示した演技だったんだから」

 ローズが泡を食った様子で、ルイスに噛みついた。

「ルイス、なぜ姉さんを庇うの? あなたはトニーにこんな指示をしたはずないわ!」

 ルイスは無表情で、ローズを見た。

「なぜ、そう思う? 台本で変更したい点があったんだ。トニーと、その場にいたスタッフの女性に頼んで、一連の動きを試してもらったんだよ」

 ローズは青い顔をして、捲し立てた。

「スタッフの女性って、誰?」

「その場にいた女性だったから、名前までは覚えていないよ」

「じゃ、じゃあ、その女性を探し出すわ! そんな女性が、もしいたらの話だけどね!」

 なぜかローズは焦っていた。きっと、フィルムを見て、これでドリスを追い落とせると、いい気になっていたのだろう。

 ルイスの証言によって、この映像が、トニーの落下事故を映したものでないのは明白となった。

 ドリスは軽蔑の笑みを浮かべ、ローズを見た。

「だいたい、落下事故をどうしたら偶然、フィルムに収められるのよ? よおい、スタートで、落下するわけ? だったら自殺でしょ。馬鹿みたい」

 ローズが呆れるほど、取り乱していた。

「そ、それは知らないけど……。でも、絶対に姉さんが……。ルイス、なぜそんな作り話をするの?」

「作り話なんかじゃないさ。さ、もういいだろう。皆、今日は撮影は、なしだ。家で待機していてくれ。撮影の再開は、追って連絡する」

 道具係の男が、ルイスに問い掛けた。

「これで、映画の撮影が頓挫する、なんて顛末にはなりませんよね?」

 ルイスはしっかりした声を出し、頷いた。

「ああ、トニーの代役を早急に決め、撮り直しのシーンから再開する。君たちの仕事が一時的になくなるなんて展開には絶対ならないから、安心してくれ」

 それからドリスに向き直り、優しく声を掛けた。

「お義姉さんは、キャロルの死に続いて、衝撃だったでしょう。それでもどうか、この映画のクランクアップまで耐えてくれますか? お義姉さんあっての映画なんです」

 トニーの死が衝撃だったのは事実だが、役を降りるつもりはなかった。

 ローズ殺害の明確な意志が、今はあるから。ローズと共演した途端、二人の人間が死んだ。ローズは死神を連れているに決まっている。その死神を、こっちの味方に付けなければ。

 ドリスは悲しみに耐えている、憂いを帯びた笑みを意識した。

「ええ、耐えてみせるわ。亡くなったキャロルのため、トニーのため、きっと素晴らしい作品にしてみせる。今後もどうか、よろしくね」

 ふざけるな! ローズは叫び出したい気分だった。

 台本を変更し、トニーに演じさせた? 嘘八百ではないか!

 ルイスがスタジオから出ようとしていたので、ローズは追いすがった。

「ルイス、待ってよ! なぜ、姉さんを庇うの? あなたがトニーにそんな指示をしたなんて、嘘だとわかっているのよ」

 ルイスは振り返り、小声で問い返した。

「なぜ、嘘だとわかる?」

「だ、だってあの映像に映っていた女性は、姉さんなんだもの!」

 ルイスの声が、いっそう低くなった。

「ドリスの振りした、君じゃないのか?」

 ローズは、ぎょっとして後ずさった。

「な、なに、言うのよ!」

「僕の目を節穴だと思っているのか? あの映像に映っている女性は、君だ、ローズ」

 顔からさーっと血の気が抜けた。ルイスに気づかれた!

 よくよく考えてみれば、夫であるルイスが、ローズのちょっとした仕草に気づかないわけがない。

「……私を、警察に突き出すの?」

 ルイスは呆れた様子で、ローズに面と向かい、腕組みをした。

「映画を途中で放り投げる気か? トニーの死だって痛手なんだ。その上、主役の君がいなくなったら、企画は頓挫だ」

 今度はローズが呆れる番だった。

「私を警察に突き出さない理由は、大事な妻だからではなく、映画の企画が頓挫しないため?」

 ルイスは、しれっとした顔をした。

「大事な妻、でもある」

「よく言うわ」

「いいか、トニーはRKOのドル箱スターだったんだぞ。貸し出しの最中の事故死だ。MGMは窮地に立たされる。僕も同じだ。責任者だからね」

「……謝って、済む問題ではないと、重々わかっているわ」

 ルイスは僅かに、眉尻を下げた。

「君とドリスが同じスタジオにいるんだ。僕ももう少し、気を遣うべきだった」

 案外とルイスは、トニーを殺したローズ以上に、冷酷な人間なのかもしれない。

 ルイスが一歩、ローズに近づいた。両手で肩を掴み、諭すように言葉を告げる。

「ローズ、お願いだ。もうこれ以上の騒ぎを、起こさないでくれ。ドリスが憎いのはわかる。その気持ちを、演技にだけぶつけてくれ。もう二度と……ドリスを陥れようなんてしないでくれ」

「……わかったわ」

 ああ、わかったとも。ドリスには、殺人の罪を着せるなんて生易しい扱いをしても無駄だ。こちらが疲れるばかりだ。

 やっぱり、殺害するしかない。ローズは今、はっきりと決意した。


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